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「よく生きる」とはどういうことか
来世の為に頑張ることでしょうか 人間の煩悩をすべて捨てることでしょうか 天国に行くために頑張ることでしょうか お金持ちになることでしょうか 社会的地位を得ることでしょうか 人には真似できない何かを成し遂げることでしょうか 何をしようが最後にあるのは死ですね。 死を前にしたらあらゆる価値は吹き飛んでしまうような気がします。 死を前提にして考えたとき、生とは何なのか そもそも死とは何なのか 恐れるべきものですか?それとも喜んで迎えるべきものですか? 目を逸らしつつ生きるのがよいことなのか よく生きるとはどういうことだと思いますか?
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死とは何かが解らないとどんな解答も意味がありません。 肉体が滅んで終わり、なら何も無いですが、せめて子孫の為に良い環境を残すことに意味を見出だすくらいです。 もし魂がある、ということが理解できるなら、見方がかなり違ってきます。 そもそも魂を創ったのは誰なのか、そしてこの宇宙を創ったのは誰なのか。 仏教やキリスト教などの新興宗教に頼らずとも、古代インドの文献にそのあたりは詳しく記載されています。 ヴェーダと呼ばれる文献や、ヴァーガバタ・プラーナ、ウパニシャット、そしてマハーバーラタと呼ばれる叙事詩とそれに関連して創造神と人との精神世界についての問答を納めた、ヴァガバット・ギーターなど。 人生についてわかった様なことを言う、哲学もどき・禅もどきの方がいらっしゃいますが、こういった文献を読んでみるとそんな方々の言うことこそが意味の無いものだとわかります。
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- nontro_08
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創価学会の者です。 この世間においては、多くの人間は「立場さえあれば、金さえあればすべて幸福」という考えで地位を求め、財産を求めて生きます。そのために熾烈な受験闘争を勝ち抜き、最高学府を出て、他を蹴落として成功できた人間は、他の成功できなかった人々を下に見てバカにし、「天上天下唯我独尊」とばかりにふんぞり返っている。そういう人間の、なんと多いことでしょうか。このように、「金と地位こそが、人間にとっての至上の価値である」と思い込んでいる彼らですが、果たして、それらを鼻にかける程に、彼らは本当に幸せといえるのでしょうか? その中には、広い屋敷の中で、家庭的に恵まれず、孤独の苦悩で悶々としている人がいます。「金があればもっと欲しくなる」とばかりに周囲の人々を利用し、その犠牲のうえに自分の私欲を貪り、その結果犯罪行為となり逮捕される者もいます。私の身近にも、一代で財を成し、ワンマン経営でやりたい放題であったが、最後は親しい友もない中、「金、金」と言いつつ侘しく世を去った会社社長がいました。また、聖教新聞に投稿した識者のなかに、「私はいろいろな金持ちの人を見てきましたが、そのなかで、本当に幸せである人など、見たことがありません」と言った方がいました。 日蓮大聖人は仰せです。「命終りなば三日の内に水と成りて流れ塵と成りて地にまじはり煙と成りて天にのぼりあともみえずなるべき身を養はんとて多くの財をたくはふ、此のことはりは事ふり候ぬ但し当世の体こそ哀れに候へ」(松野殿御返事) (通解:命が終われば三日のうちに、その体は水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく消えてしまう。そのようにはかない、わが身を養おうとして、多くの財産を蓄える。このことは昔から言い古されてきたことであるが、現在のその有様は、あまりにも哀れでならない) 死を前にすれば、人は、立場も地位も財産もすべて引き剥がされ、理屈や観念も何の役にも立ちません。裸の自分で、死に向き合わなければなりません。死は、自分の人生で何をやってきたのかが容赦なく問われる、人生における最も厳しい審判の時です。 「どのような立場であったか」ではなく「どのように生きたか」によって、真の幸福は決まります。権力といい、財産といっても、死ねば全て終わりです。あの世に持っていくことなど、できません。今世限りの幻です。権力・財力をかさに着て、自分中心のエゴに沈んだ人間は、生命は永遠であるがゆえに、来世は因果応報により、必ず苦しみます。そういう無常の存在に固執するのではなく、よりよく人生を生きようとすることこそ、大事なのです。 そのためにはどうすればよいのでしょうか。この宇宙を運行させている根源の力・南無妙法蓮華経の日蓮仏法を実践し、生命を磨き、人間革命を成し遂げる。そして善行を為す。そうすれば死は何ら恐れるものではなくなり、「生も歓喜、死も歓喜」の、三世にわたる絶対的幸福境涯は得られるのです。これこそ「よく生きる」人生の極致です。 もちろん、私はここで「よく生きるとは」について、私の意見を回答したまでであり、あなたに「学会に入会せよ」と迫るものではありません。誤解なきように。
死とは、肉体が滅びることだとします。 >何をしようが最後にあるのは死ですね。 >死を前にしたらあらゆる価値は吹き飛んでしまうような気がします。 そんなことはないと思いますよ。 肉体が滅んでも、その人が残した物は残りますよね。 仏陀の教えが残る様に、 思想家の思想が残る様に、 芸術家の作品が残る様に、 作家の小説が残る様に、 科学者の業績が残る様に、 アスリートの記録が残る様に、 技術者の仕事が残る様に、 ・・ etc ・・ なした事が、大きければ大きいほど、残した物は長く残るでしょう。 「よく生きる」とは、自分自身を最大に発揮して生きることだと思います。 例えば、Aさんは頭が良いから、健康だから、金を持っているから、とねたみ卑屈になる。 失敗を、他人、環境のせいにする。努力を放棄する。 これでは、本人の持っている良い部分が活かされないと思います。 子供の記憶力が高かったり、一輪車等への乗り方が大人よりマスターするのが早かったりするのは、 他人と比較せず、純粋にそのことに意識が集中して懸命になるからだという心理学者がいます。 「対象物そのものになりきる」という言い方もします。 言い訳を考えず、今できることをやる。 これが、「よく生きる」ことだと思います。
- minumteh
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その答えを探し続けることではないですかね。 何か一つ答えを出せば、また次があると思います。 さらには、多くの答えがわかったとしても、なかなか、 思い通りに生ききれるものではないのが人間だとも思います。 お葬式の弔辞でよく「ゆっくり休んでください」 と言われますが、死は休みかもしれませんね。 ずっと生きていたらしんどいかもしれません。 寿命があってもしんどいぐらいですから。 一旦休んで、そしてまた来世が始まるんですかね。 (来世があるかどうか知りませんよ)
- _AXIS
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なるべく死を喜びを持って迎えるられるようにするとか? もし死というものがなく、生しかないというなら、より良く移行するとか?
- 島崎 信也(@zakky74)
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生も死も、意識の一部分の現象ではないでしょうか? 生というものがあって、死というものがあって、それをどうこう・・・という話なのではなく、人間の意識の上に、生という意識現象と、死という意識現象が乗っかっているのかもしれませんですよ? その場合、死は最後ではないのではないでしょうか? そして、生も、死も、前提とはなりえないのではないでしょうか? 生や死さえも生み出している前提について、関心を寄せてこそ、そしてその問を突破してこそ見えてくるのが「よく生きるとはどういうことなのでしょうか?」という問だと思います。 如何でございましょうか?
- 巧(@TYR_efes)
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んー・・・「自分が望む死」へと辿り着けるよう、 悔いなく日々を重ねる事、だと思っています(酔汗) 死はどんな人にでも等しく訪れるものですが・・・ 私はそれが「ゴールであり救い」だと捉えていますね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 よく生きるとは 自分の持てる力をじゅうぶんに発揮してこの百年を行き切ることです。 いのちを長らえるだけでもよいくらいです。 ただし《よく》と問うておられますので つけ加えます。 もし自分が自分の能力をすべて発揮して行き切るというのであれば わたしたちはこの社会に生きているのですからそれは 相手がいるということです。 おそらく 自分によいと思うことは他人にもなるべくそうしたいし そうして欲しいと思うことでしょう。 もしそうであるならば けっきょくこうなります。 相手や周りの人たちがそれぞれその持てる力を十二分に発揮して思う存分生ききって欲しい。そのために少しはこちらも――自分のことよりもほんの一歩もしくは半歩だけ先に――お力添えをしてみたい。邪魔にならないように そうしたい。 その相手の状態や情況をしっかりと把握して そのことをしてみる。 これをおこないきるなら 《よく生きる》と言えると考えます。どうでしょう?
お礼
ありがとうございます 社会に尽くすのがよい生き方だということですが、いずれ死んでしまうのであれば、たった一度しかない人生を少しでも快楽の中で生きようとするのはどうでしょうか? ある程度お金を手に入れたら、あとは遊んで暮らす そういう選択をしている人もいるとおもうのですが、なぜ社会に尽くすのがよい生き方なのでしょうか?
- cincinnati
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>何をしようが最後にあるのは死ですね。 >死を前にしたらあらゆる価値は吹き飛んでしまうような気がします。 >死を前提にして考えたとき、生とは何なのか >そもそも死とは何なのか >恐れるべきものですか?それとも喜んで迎えるべきものですか? >目を逸らしつつ生きるのがよいことなのか >よく生きるとはどういうことだと思いますか? ご質問は丁度、腕にはめている腕時計が私は何の為に時を刻んでるのだろうか、何の為動いているのだろうか。私の目的はなんだろうと呟いているのと似ています。おそらくどんなに熱心に生涯をかけて考えても答えは見つからないと思います。もしその時計が時計を作った人間に尋ねなければ。時を作った人間はその時計の目的を知っています。またなぜ動いているのかも知っています。 人ももし自分の造り主に尋ねなければ上記の問題には解決はありません。聖書は次のように述べています。 「(エレミヤ29:11-14a)わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 (12)あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。(13)もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(14)わたしはあなたがたに見つけられる。」 極論すれば誰でも神に出会うならば、ご自分の存在理由を自ずと理解するか、そもそも聞く必要もなくなるほどその状態に納得されるのではないかと思います。 聖書では「私は道であり、真理であり、命である。たれも私をとおうしてでなければ神を知ることはできない。」と述べられたイエスキリストについて学んでみてください。聖書に記載されておりますし、お近くのプロテスタントの教会の牧師におたずねください。喜んで説明してくれるはずです。
お礼
聖書からの引用ですね。 ありがとうございました
- haiiro-neko
- ベストアンサー率25% (50/195)
自分は、「よく生きる」ということは死ぬ直前に納得できる生き方だと思います。 周りからどのように評価されても、自分で納得できればよいのではないかな。 周りから評価を気にしながら生きたとしても、決してよい生き方だとは思いません。 たとえ、悪人であって死刑になったとしても自分が納得できればいいでしょう。 最後に生物は、死ぬために生きているのだと思います。 ただ、その生きている間に自分が納得できればいいのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 納得ですか。諦めて納得するのとは違うのでしょうか?
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お礼
ありがとうございます。 魂があることを理解する、ということですが、魂があることを仮定するという意味ですか? それとも魂があるに決まっていると論理だてて知っているという意味ですか?