こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>AVのような事を男性にしていたのでしょうか?
時と場合によっては、身体を投げ出してでも情報を入手しました。
くノ一は、「陽忍」(ようにん)の一種で情報収集役の最先端の技術でした。
ちなみに、「陰忍」(いんにん)は、いわゆるチャンチャンバラバラの世界の忍者を指しました。
>>くノ一でも、本気で男性を愛してしまう事があるのでしょうか?
忍者には厳しい掟(おきて)がありましたので、普通の人との結婚はできませんでした。必ず、忍者同士の結婚で「忍法」が漏れないようにしました。ただ、くノ一も人間ですから、心から好きになることはあったと考えます。でも、結婚はできませんでした。
(よもやま話)
(1)忍術の始まり
忍者は聖徳太子の側近の大伴息人(おおとものそくじん)という「志能便」(しのび)が始まりとされています。名実ともに技術となったのは奈良時代中期で、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が兵書「孫子」を中国からもたらして以後のことで、「孫子」の中にスパイ術が書かれてあった。日本の忍術はこれを基に発生していった。
(2)修験道が忍術の原型
修験者は貴族仏教に対する庶民仏教の立場から、眼に見える現世的な力を見せる必要があり、修験者は山中の厳しい練磨により「気合術」や「催眠術」「医療法」などを体得した。
(3)「陽忍」と「陰忍」
「陰忍」とは、いわゆる普通のチャンチャンバラバラなどで策術を使う忍者。その原型は源平初期の「義経流」(ぎけいりゅう)と言われている。一方、「陽忍」は、知的な諜報活動や策略を主にし、原型は南北朝の「楠流」にあると言われている。
(4)忍者のランク
忍者にも階級があった。
「上忍」(じょうにん)・・・豪族で術は「陽忍」を使った。
「下忍」(げにん)・・・・足軽クラスでもっぱら「陰忍」の使い手であった。
「中忍」(ちゅうにん)・・・中忍は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。
(5)なぜ伊賀と甲賀か
伊賀は鈴鹿山系と笠置山系に囲まれた外界から隔絶していた。また、甲賀も鈴鹿山系に属し、それぞれ修験者の格好な道場であった。
伊賀の宗家服部氏は土地の土豪で、伊賀の阿山郡の四十九院の修験者から忍法の手ほどきを受けた。
(6)「陽忍」は変装を身につける
「陽忍」はいわゆる大物スパイ。変装してあらゆる人物に化けた。これを「七方出の術」(しちほうでのじゅつ)と言い、虚無僧や山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)を自由に使い分けた。もちろん扮装だけではなく、普段から「物腰」や「教養」「技術」を鍛錬した。高級忍術のゆえんである。
お礼
ありがとうございました
補足
好きでも無い男性に抱かれて嫌ではなかったのでしょうか? くノ一の衣装はよく時代劇に出てくる衣装だったのでしょうか?