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余命1年という宣告をされた人が恋をしたとしたら、
余命1年という宣告をされた人が恋をしたとしたら、愛を告白していいものでしょうか? 相手の方は余命の事実を知りません。 余命の事実を隠して思いを伝えるか、事実と思い両方伝えるか、事実だけを伝えるか はたまた何も伝えないか、色々あると思いますが。 もし告白して、断られた場合その人に忘れられない傷を残してしまうことになるし、 一緒に過ごすことが出来たとしても、他界した後、悲しみを背負わせることになる。 かといって、残り少ない人生を好きな人と共に生きたいと思う気持ちは至極当然で、 思いっきりエゴイストになってもいいような気もいたします。 皆さまの思いをお聞きしたいのですが、如何なものでしょうか
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こんばんは 私は余命1ヶ月の女性と恋に落ちました。肺癌なので、隠すも隠さないも、咳き込めば尋常ではなく痛がりモルヒネのお世話になっていましたので、すぐわかりました。喀血もしました。心膜に近すぎて手術も不可能でした。でも、本人の意思で普通に生活していました。私は当然最期を見とる覚悟でした。 奇跡がおきました。 3ヶ月あまりで癌が消えました。医者が一番信じがたかった様です。 彼女は今は介護士の資格を目指して勉強中です。 こういうこともあるのですよ… 特に寿命半ばにして亡くなる方の人の死を看取る事ほど、学び多きことはありません。当然看取る人間も苦痛を味わいますが、その分得るものも多いです。それを糧に看取った人間は亡くなった方の分も成し遂げなければならない使命があると私は思っています。私も重度障害者の介護士だったので、不慮の死から多くを学びました。 エゴイストでいいのです。 余命が尽きれば、お相手の方苦悶するかもしれませんが、必ずそこからなにかを学びます。その学びこそ、亡くなった方の生きた証になります。
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- vsm42952
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失恋の痛手を恐れてはなりません。 何故ならば、万が一、命を落とすことになったとき、あなたが後悔することになるからです。 この世に未練を遺す生き方をしないように心掛けてください。 これは、別に余命宣告を受けている方だけに限ったことではありません。 死の瞬間は、「誰にでも一度しか訪れない」ものです。 そのときに、未練が残るような生き方をしてはなりません。 どんな波乱に満ちた人生であろうと、この瞬間に全てが納得できる人生だったと思えるならば、その生は素晴らしく、死も心穏やかなものになります。そして、心置きなく旅立てます。 全てはこの瞬間のために、生きていると言っても過言ではありません。
お礼
善き御助言有難うございます。よい人生だったと思える生き方をした人は幸せですね。 最後だけでもそう思えるよう生きていかなければなりませんね。
お礼文有難うございます。 万が一誤解がありましたら申し訳ありませんので補説させて下さい。 >去る者は追わずということになるのでしょうか。 正確には『行くもの(逝く者)は追えません。ただ足跡が残るだけです。 そしてその足跡も残された者の中でやがて風化してゆく』のです。 これも『諸行無常』…『時空と自然界のさだめ』であって、 その中で何を『気づくか』が、ひとして成長の糧となるのだと思います。 自論を述べさせていただいて恐縮ですが、 『気づく事』は人に与えられた恩恵ではないかと、そう感じています。 それでは、返信お構いなく…^^。
- erumera
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他の方の回答を見てビビッたぜ。 俺の場合は彼女が乳癌で「残り半年、50/50だよ」だったから、まぁまだまだ甘いね(笑)。 あ、右胸は失ったけど。悲しいね。 メインは「告白」は否か?ですよね? すればいいじゃん。 「誰かに愛されている」 それが、どれだけ生きるパワーになるか。 「死ぬ」前提で考えちゃダメよ。 生きる。
お礼
回答有難うございます。死の恐怖、愛される喜び、失恋の痛手、はたしてどれが勝るでしょうか。
- ucok
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近頃の人は「告白」がないと「お付き合い」が始まらないのだとしていますが、私の頃には、自然と恋をし、自然と恋愛期間を過ごしたものです。まあ、私の世代なら、とりあえずは、いわゆるモーションをかける、つまり具体的には、じっと見つめて思いを通じさせるとか、デートに誘ってみるだとか、キスをしてみるとか、そういったことになろうかと思います。そこで燃え上がった炎を、物理的な猶予期間と照らし合わせてどうするかは、その人自身の自由。
お礼
回答有難うございます。
こんばんは。 余命1年ですか…心中お察しいたします。 しかし『余命不確定』な私たちは、 それ故に、『怠惰な時を過ごしがち』です。 >思いっきりエゴイストになってもいいような気もいたします。 エゴイストと『恋』は『破綻の構造式』でしかありません。 『愛を感じる』のであれば、お相手を優先すべきですし、 其処に『自我の存在(好きと言う事実)』を介在させるなら、 『瞬間瞬間を一生懸命に全力投球』でしょうかね…。 全力投球するには『ピッチャーとキャッチャーの相互理解が大切』ですね。 それでは。
お礼
回答有難うございます。大変参考になりました。違った見方をすると、去る者は追わずということになるのでしょうか。
- konata508
- ベストアンサー率26% (514/1954)
1年と言われますけど以下のような話もありますが? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E5%91%BD1%E3%83%B6%E6%9C%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%AB%81 このほかにもドキュメントでは出産後に余命3カ月のお母さんが娘に充てたビデオレターを残した人もおられますし、私自身も親戚のおばさんが癌末期でしたが、抗がん剤を飲まない選択をしてぎりぎりまで家族との時間を選択し、最後は幸せに行かれた(実際に医者が宣告した余命より数か月ですが長く生きました)ので、幸せは人それぞれだと思います。 ほかにもこんな奇跡体験もありますよ http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/467/p467_2.html 私としてはあきらめるの早くないですか?とも思いますし、懸命に生きた結果「奇跡」が起きると思いますけど違いますか?
お礼
早速の回答、有難うございます。確かに。懸命に生きるために、恋愛は生きる勇気を与えてくれるかもしれませんね
- 未 定(@v4330)
- ベストアンサー率20% (417/2003)
好きにすれば良い。 エゴのぶつかり合いが人付き合いです。 結果を気にして何も言えない人は余命10000年でも家から出るな、じっとしてろ。
お礼
早速の回答、有難うございます。少し極端な気もしますが、参考になりました。
お礼
回答有難うございます。大変感銘を受け、また勇気ももらいました。そのためには相手への手当も重要かも知れませんね。