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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:うつくしさに打たれたきみは だれなのか)
うつくしさに打たれたきみはだれなのか
このQ&Aのポイント
- われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか?
- つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはわたしを見止めているか?
- けれどもわれらはその瞬間にとどまれない。ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか? ここにもどるのか? それとも そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていたのか?
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noname#202494
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お礼
チャオポルポさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 絵をお描きになるのですか。《絵画・彫刻・音楽》のいづれにも造詣の《無い》わたしが こんな質問を挙げてみました。 審美眼ないし美学をめぐって話をしていたら そこに《他者》という主題を出されたものですから それ(《他者》)は 美じたいの主題ではなくそこから伸びて哲学に組み入れたときに初めて 話題になるだろう――こう考えての設問です。 ★ 一度私(作者)の手から離れてしまった作品は、もう、私(作者)とは何の関わりもないものです。 ☆ ということが 美を感じることについては当てはまる――こうわたくしも思います。むろん 作者であることにおいて作品とはつながっていますし もっと言えば作者の思いや人生の生き方を交えて作品を解説することもありえます。そのときしかも その解説と作品〔の放つ美〕とはあくまで別物だと思っております。 もっとくどいように言うなら 《作品の放つ美》と《その解説者》とはその観賞においてつながっています。そしてその美の感覚は その解説者のものです。つまりむろんそこから解説者は 解説を述べているわけですが 今度はその解説(その文章表現)と作品の美とは もはや別物だと思われます。 微妙になってきたでしょうか。うまく説明していただいています。 ★ また、鑑賞者が歴史を知らないと作品への観察力および興味は半減する。宗教画を観るときに何が描いてあるのかだけでも判ると、絵画への理解が深まる。しかし、知識は鑑賞眼の有無を補うことはありえない。 ☆ だとわたくしも思います。さらに分かりやすいように言いかえるなら 作品をめぐって鑑賞者が作者の意図や思いとはまったく別の感じ方をしたとしても 何の問題もない。つまり そういう感じ方としての受け取り方をされてしまうということは 美術にかんする作者であることの限界を表わしており その限界を持つということはきわめてふつうのことである。こう考えます。 限界を突破する思わぬ(予期していなかった)観賞の内容を得ることもありましょうから。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 人工の芸術(絵画・彫刻・音楽)の美しさにうたれる時には、精神が作品の美しさをムシャムシャ食べてしまう。そして充たされる。 そうして、精神はひとつ、階段のステップを登る。 いずれにせよ(自然美・人工美)、その方法は原始的なほど自己中心的であり、他に美を認識する道はない。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくこの観賞のあり方も ほかのそれらとまったく同じように 主観におさまる事柄なのだと考えます。むろん ほかの人びとのそれと重なることもあるでしょうし 違っていることも――ごくふつうに 何の問題もなく――ありうるのだと思います。 ★ 精神が作品の美しさをムシャムシャ食べてしまう。そして充たされる。 ☆ このあり方に反応するとしたら わたしの場合には その最後になおまだ満たされないものを感じる というのが ふつうの経験です。ゴッホあたりが 例外です。――どうもわたくしは 偏見によって審美眼が曇らされているのかも分かりません。 ありがとうございました。