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天皇と信長についてです。
天皇と信長についてです。 天皇制を廃そうとしたのは織田信長くらいだと聞きました。 歴史に「もし」はありませんが、あえて質問させて頂きます。 もし、信長が光秀の裏切りを受けずに生きていたならば 天皇制を壊して、自ら王朝を開いていた(もしくは皇帝や神のような存在を目指した) と思いますか?
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- gakihashine
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天皇制を壊したか、もしくは天皇より上の位についたと思います。 当時の天皇は日本神話の神の子孫だと信じられていて、これが天皇が日本を治める根拠でした。 これに代わるためには自分を神だと信じさせるしかないでしょう。 キリスト教宣教師ルイス・フロイスが「日本史」に書き残しているように、信長が自分を神として信仰させようとしたのは本当だと思います。 その後、豊臣秀吉は「自分が天皇の血を引いており、また日吉大社の神の化身である」という宣伝をしました。(もちろんウソです) 徳川家康もまた「自分を東照大権現という神として祀れ」と言い残しました。 「権現」というのは神が人の姿になった状態のことで、つまり家康は死んで神になったのでななく、神が人間として降りてきた姿だった、という意味です。 この事実から推測するに、信長がやった策を2人とも真似した可能性が高いと思います。 (余談ですが、イラクのフセイン大統領が自分を神のように信仰させたのも、人々をイスラム過激派から切り離すための方法だった、と私は思っています。金正日は全然違います)
- ef98uraimu
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織田信長は忌氏(忌部)で初期天皇族(扶余、金海の金氏)に属し天皇地位を奪還を 目指しており後期天皇族(百済、烏桓)の公家や天皇にマークされていました。 安土城を焼いたのは明智軍では無く天皇直属の者等によるものです。情報ソースは極秘です。
- eroero1919
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信長の本心は、そうだったと思います。彼自身は、超がつくほどの合理主義者です。一番実力を持っているのが一番偉い。それが常識だろと思っていたと思います。 本能寺の変の少し前に、信長は官位を返上して無官となっています。官位がないということは天皇と会う資格がないということですが、信長自身は光秀らを身代わりとすることで充分だと認識していたようです。朝廷は慌てて関白でも太政大臣でも征夷大将軍でも好きなものをもっていけという打診をして断られています。後に秀吉には関白しかやらなかったことを考えるとどれだけ朝廷が信長を恐れていたのかが窺い知れます。 特に織田軍はあの比叡山焼き討ちを始め、伊勢長島では一向信徒を女子供問わずに皆殺しにしたり、恵林寺で住職ごと焼き討ちにしたりとにかく信長の命令となると相手が誰でも忠実に実行するので、朝廷からすると「天皇家を焼き討ちにしろ」といわれれば本当にやりかねないという恐怖心はあったと思います。 また信長自身も自分の身代わりを拝むように領民に強要してルイス・フロイスに嫌悪感を抱かせています。自分自身を本当に神のようにしたかったと思います。 そのへんが上手だったのは家康(というか天海)で、家康を死後日光に祭ることで神となりました。 本能寺の直前の周辺諸国の状況は、ほぼ全ての国と交戦状態にありました。残された主だった大名は、毛利、長宗我部、島津、北条、上杉くらいだったでしょう。しかし、毛利と上杉は防戦一方で勝ち目はほとんどなし。長宗我部は信長をして「あれは鳥なき島の蝙蝠」といわせた程度ですから敵にすらならない。島津もまた然りでしょう。信長の頃は薩摩を中心とした中小大名にしか過ぎません。北条はまあ実力的には上杉、毛利と同程度。つまり勝つのは無理。というか北条軍というのは基本的に関東国防軍なので外征する能力がありません。 ということで「残り全国vs織田信長」となってももう信長は勝てるだけの軍事力、経済力を持っていました。何しろ織田軍の総動員兵力が10万オーバーしているのに、その他諸大名はせいぜい2万か3万ですからね。 ただ、信長のその傲慢という言葉でも足らないほどの傲慢ぶりは内心相当な反発を受けていたはずで、だからこそ「仰向けに、派手に転倒する」と予言されていたのです。光秀が「敵は本能寺にあり」といったときも、家臣を始め将兵一同は全く逃亡兵や内通者を出さずに実行しています。もし光秀があのタイミングで本能寺の変を起こさなくても、いつか誰かが別の本能寺の変を起こしたでしょう。それが「歴史にもしはない」ということなのかな、と思っています。
- tengenseki
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若し、和気清麻呂が八幡宮からのご託宣を都に持ち帰れ なかったら道鏡は天皇になったかも。足利義満も内心は?。 信長は新興勢力です。天照大神の子孫と信じられている 天皇家をつぶすか又はそれを超える存在になろうとすれば、 全国大多数の領主や武装勢力に反感を持たれ、朝廷側の 信長討伐令に呼応させるでしょう。信長がいくら傲慢でも そのくらいはわきまえる理性はあったと思います。気に いらない天皇は島流しにしてロボット天皇を据えること ぐらいはやるでしょうが、それは前例があるから平気。
- isa-98
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今はどう言う説が主流かは知りませんが、 織田信長から7千石の禁裏御料の献上を受けます。 石見銀山は激しい争奪戦の最中にあり 記述のように天皇の禁裏御料として天皇を助けたとは言い難い物があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1 また、毛利に並び上杉謙信も皇室の援助に貢献したようです。 天皇の葬儀もままならず、譲位の費用も全て権力者に頼る有様でした。 足利 義昭を奉じて上洛する辺りから、影の支配をもくろんでいたと認識されます。 周囲に敵が多く、それは罪も無い子、信忠にも付きまといます。 これを払うには征夷大将軍です。
- thirdforce
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天皇制を壊さず、自分が、天皇の上の神になりたかったのでしょう。 天皇はそのままにしておいて、自分はその上の上位になるつもりだったでしょう。 でも、仮に一時そうなっても、信長は、殺害されていたでしょう。 光秀の裏切りは、彼の個人的な暴走でなく、徳川家康、そして、長州での、毛利家との戦いで、 秀吉も、情報を得ていたと考えられます。 光秀をそそのかしたのは、徳川、と時の幕府でしょう。彼一人で、のぶなが暗殺など考えるに及ばないです。その証拠に本能寺の変の前に徳川家康は、紀州の水軍を巻き込んでいて、変が起こる寸前に逃げ出し、 船で、関東に逃げ帰っています。 一番馬鹿を食らったのは、光秀でしょう。援軍を期待していたはずです。援軍は、幕府と徳川です。 両者は、逃げ延びてすきあらば、大将を狙っていたはずです。 でも、信長の家来秀吉などが、怖くて、知らぬ振りして、関係ないように、去っていったと考えられます。 日本では、天皇制はなくならないでしょう。なぜなら、国王でなく、現人神で、信仰のさいたるものですから、無くすことで、得られるのは、内乱で、日本国の消滅になる要素がありうるし、神を殺すことが、 どんなに恐ろしい事かを、認識しているからです。
- 馬鹿鳥 仁左右衛門馬鹿犬(@osuwariha)
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信長のほとんどコピーのような人、つまり豊臣秀吉の動きに限りなく近かったのではないでしょうか。 つまり自分は海外進出するかどうかは別にして。天下の主の天主となり、宗教、世俗どちらの頂点にも立っていたのだろうと思います。 一方で、豊臣秀吉の例を引き合いに出せば、(ちょっと内容は違いますが)日本国の国王に天皇を傀儡として立てたかもしれません。 信長の視点は先へ先へと進んでいたので朝鮮出兵などをひょっとして行っていたとしたら、当時の日本の陸軍は世界最強レベルな上に海戦についても鉄貼船を思い付いて実際に作るほどの行動力がありましたから、李朝の有能な海軍もあっさり撃滅していた可能性もあります。 また当時の人間としては珍しい事に兵站についても非常に重視していましたから、朝鮮で兵站が途絶えて気がに苦しむ事もなかったと思います。 織田王朝を開いていた可能性は限りなく大きく、しかも商業に注目していた事からおそらくは朝鮮出兵や明朝に出兵するのでなく、大東亜戦争のように東南アジアに進出して400年前に大東亜共栄圏を現出していたかもしれません。 あくまで個人の想像上の話で申し訳ありませんが。。。。。