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2・26事件の安藤大尉について
2・26事件の安藤大尉について 安藤大尉は穏健派であり、決起についても最後まで慎重な姿勢であったにもかかわらず、なぜ参加を決意したのでしょうか。しかも事件より前、大尉は鈴木貫太郎に面会しており(侍従長は『君側の奸』ではない)との印象を持ったというのに、なぜしかも侍従長・襲撃を志願したのでしょうか。私は「雪降リ止マズ」と「二・二六事件」(松本清張)をつまみ読みした程度です。お願いします
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安藤大尉が、蹶起に慎重な姿勢であったことは磯部元一等主計や栗原中尉らの尋問回答にもはっきりしていますが、クーデター自体に反対だったわけではありません。大尉は、蹶起した理由について、事件後尋問した徳田憲兵少佐に対して「私ガ決行ヲ決心シマシタノハ‥‥」と答えています。 慎重であった理由は、今は起っても成算の見込みはない(栗原中尉の調書)という明快なものでしたが、他の同志たちが決行すると決めた以上、自分一人参加しない訳にはいかない、というのも軍人として典型的な考え方でありましょう。 当時の日本軍人は、事の成否を問わず上官の命令は天皇陛下の命令であるとして、まず「忠節を尽すべし」(勅諭)と教育されていましたし、今回特に「信義を重んずべし」(同)の諭しに大尉は忠実であったのだ、と思われます。 これ等に照らせば、侍従長に対する個人的な感情を捨て、ひたすら自分らが信ずるところの大義に突き進んだのでしょう。ただ、止めを刺さなかったことで結果一命を取り留めたところに安藤大尉のヒューマニズムを感じます。 二・二六事件の全貌については、やはり松本清張の『昭和史発掘』のカタカナ文字を丹念に読み込まれることをお勧めします。
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歴史上の事件に関わり、心変わりした者の心理は本人にしか分からない事です。評論家や歴史研究家がどう語ろうと、全ては推測の域を出ません。松本清張しかり、彼にだって安藤大尉の心の変節までは分からない。無論、私でも。 ●明智光秀は何故、主君である織田信長に謀反に及んだか? ●関が原の合戦で、小早川軍は何故に東軍に寝返ったか? ●御前会議で昭和天皇は最後まで戦争を回避する方法を模索していたのに何故戦争は起きてしまったか? ●三島由紀夫は何故、自衛隊に決起を呼びかけたのか? これらは歴史のほんの一部ではありますが、誰にもその真実は分かりません。当事者がその心情を明確に書き記しておかなければ。歴史ドラマは、制作する側の意図で細部はどうにでも変えられます。2.26事件を主題にしたドラマや映画が作られた時、安藤大尉の取った行動がどう描かれるのか、それとも描かれないのか?全くもって難しい問題です。 歴史は常に「脚色」の好対象です。板垣退助遭難事件を例に挙げれば、板垣は岐阜での演説中に相原尚褧(あいはら・なおぶみ)に刺された際、刺されても尚、相原を指差し「板垣死すとも自由は死せず」と言った事になっていますが、これは政党史上の産物。真実はどうやら刺された後、病院に駆けつけた自由党員に傷の手当を受けながら、 「おらを殺したち、自由が死ねるかねや」(私を殺したって、自由は死ねるか) と言ったのが真実だそうです。かなりな脚色でしょ?板垣自身がそう記録しているのだから、間違いないところですが、歴史とはそうゆう物です。
お礼
そうかもしれませんね、ありがとうございました。
お礼
答えが得られた気がします。決めたからには、いちばん責任の重い役を買って出たのでしょうね。ぜひ、教わった通り、あのカタカナ文字を根気強く読んでみることにします。本当にありがとうございます