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神が創造した天地と光に関する質問
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。神が天地を創造したとき、神はすでに存在していたのでしょうか?また、光の出現の前に存在したものは光よりも本源的だと言えるのでしょうか?光とは可視光線なのでしょうか?そして、神は光とやみをどのように区分しているのでしょうか?
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。神が創造した天地について明確に理解したいです。創世記には神が天と地を創造したと書かれていますが、創造の際に神は存在していたのでしょうか?また、光の出現の前に存在したものは何なのでしょうか?
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。創造の際に神は存在していたのでしょうか?光の出現の前に存在したものは何なのでしょうか?光とは可視光線なのでしょうか?また、神は光とやみをどのように区分しているのでしょうか?
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お答えします。 ( a ) 神は 人間にとって表象し得ません。象(かたち)に表わし得ません。絵でも音でも文字でも考えでも表わし得ません。もし表象し得たなら それは 神ではありません。人間の精神における想像力による産物としての《観念》であるに過ぎなくなります。 ( b ) わづかにしかも じんるいは《かみ》あるいは《信じる》という言葉を持つに到っており いまも使っています。これは如何に? では これらは何を意味する言葉なのか? ( c ) 言葉は一般にこの経験世界のものごとに対応した内容をその意味とします。ところが 神という言葉は 端的に言って その対応がありません。表象し得ないのですから。 ( d ) おそらくこの《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものは それがあるとしたなら 《信じる》という行為である。 ( e ) 信じるというのは ひとつに 経験世界における《考える(表象する)》を超えた行為である。言いかえると 考えることの出来ない(表象しえない)何ものかとの対面である。 ひとつにはしかも その神と人間もしくは《わたし》を結ぶというのなら そこで 結ばれたという事件が起きると言わざるを得ない。言いかえるとそれは 《わたし》の時間的な意志行為である。 ( f ) わたしの時間的経験的な意志行為であろうと見ているが おそらくそれは わたしからの行動や操作によってはついぞ叶えられない事件であろう。その意味は わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為であろう。その受領証を発行することが わづかに人間に出来る行為であり それが《信じる》であろう。 ( g ) さて 神はどこにいるか? ――どこにでもいるでしょうし どこにもいないでしょう。《わたし》の中にいるでしょうし それはわたしの自由になる持ち物などとしては いない。 ( h ) 神は いつ いるか? ――いつでもいるでしょうし いつも いないでしょう。《わたし》のいま・ここにいるでしょうし それはわたしの自由にすることができる持ち物などとしては いない。 ( i ) この宇宙が出来たとするならその出来たとき 神はとうぜんその宇宙を超えているのだから 擬人化して言えば その宇宙の生成を神は見守っていたことでしょう。その後の経過やじんるいの歴史などなどすべての経験的な現象やことがらに対しても 同じであるでしょう。 ( j ) ここで言うとすれば 経験世界である宇宙を超えて存在すると想定される神については 見守っていたと仮りするならば その天と地をその神がつくったと表現してもそれほどおかしくはない。その世界を超えているからです。覆っているし含んでいるとさえ表現されうる。経験世界が神をつくったとは ぎゃくに 言えないわけです。 ( k ) 《はじめ・創造する・天・地・形・やみ・淵・水・おもて・おおう・光・ある・言う・見る・良し・分ける・昼・夜・名づける・夕べ・朝・なる・第一・日》は すべて 経験世界のものごとであり それを表わす言葉です。これらを超えているのが 神です。超えていることによりそれらを覆い包み含むとも表わされ得ます。 ( l ) 神は光速をむろん超えています。歴史を超えています。世界をつつんでいます。 神は 宇宙の初めもその前をもそのあとをも超えています。宇宙の生成は それなりに(そのモノの運動にしたがって)出来たし そこから経過して来ていると考えます。 ( m ) もしそのほかに何かプラス α があるすればそれは ◆ 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 ☆ の中の《神の霊》 これは何を言うのかです。あるいは ◆ 1:4 神はその光を見て、良しとされた。 ☆ の中の《良しとする》とは どういうことか? おそらく上の《神の霊》と関係するのではないか。なぜなら《良し悪し》となれば モノの自己運動とは別の――神にとってのとは言わないまでも 人にとっての――世界連関があるかも知れないゆえ。言いかえると ひとそれぞれの主観的な判断 つまり意志行為 の問題であるかも知れません。良し悪し ないし 善悪のことです。 ◆ 1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 ☆ ここで《夕べとなり》のあと 《夜に入り》とか書かれていない。そのまますでに明くる《朝となった》と書いてある。もしこのように人も夜に渡されずに 眠りの世界を経るのだとすれば そうだとすれば 上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか? (あぁニ千字)
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- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
1について >1:1 はじめに神は天と地とを創造された。 この「神」は人格神を表しているようですね。その人格神がどうやって創造されたのか、ということについては創世記には書かれてないようです。 もう見ているかもしれませんが、http://sora.ishikami.jp/stories/universe.html これはどうでしょう。一般の良識人が見ればかなり引いてしまう内容かもしれないです。 2について 光があってこそ影が出来ます。光がなければ影(陰)はできません。また、影がなければ光を認識できないでしょう。 創世記に「光の前に闇がある」ともし書かれているとすれば、それは闇ではなく、光と影(闇)を含んだ混沌のようなものではないでしょうか。 木で出来た胡桃(木胡桃)はありません。着ぐるみならあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%BF 偉大なる虚構であり、中の人は小さいのではないでしょうか。 それから、尼河童は知識とうんちくが多いです。
お礼
天軸さん ありがとうございました。 光と影を含んだ混沌といえば混沌の状態(といえば状態)でしょうね。 ありがとう御座いました。 木胡桃は現実にはないということもありがとう御座いました。
- cincinnati
- ベストアンサー率46% (606/1293)
プロテスタントのクリスチャンです。エホバの証人、モルモン教とは関係ありません。 聖書は神の言葉であると言われていますが、人にもわかる言語で書かれています。いまでは多くの言語に翻訳されて、絶滅しそうな民族のための言語で書かれた聖書もあります。そのような神様の言葉が何故ある翻訳者の手を通して他の言語に訳されうるのでしょうか。聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるなら、翻訳などで誤謬の入る余地のある作業など許容されるはずがないと思われないでしょうか。 つまり聖書は言葉面にある事を問題にしていません。むしろ言葉を重ねて説明されたその背後にある事実や真実にたどり着くように意図されておりまして、その真実が重要だとのべています。ギリシャ語あるいはヘブル語から日本語に訳されたのが現代の日本語聖書ですが、翻訳団体により表現に多少の相違があります。繰り返すようですが、文字面は背後の真実に比べたら重要ではありません。以上の事をご理解いただいた上でご質問1のみ眺めてみたいと思います。 >>1. この創造のときに神は存在していたのですか?どこに存在していたのですか? ご質問者さまの質問は3次元に時間を足した4次元を想定しておりますので、「初めに神は天と地を創造された」とき、天も地もないときにどこかにいたのですか、いる場所がなかったはずですという鋭い質問になっております。神をご自分の限定された環境から眺めますと、その理論は破綻します。例えば前後と左右の次元しか認識しない存在者は上下にも次元がある事に気づきません。回答者はクリスチャンですので、少なくとも神は我々の次元を超越していると諸手をあげて認めております。「神はアルファでありオメガである」神様は空間だけでなく時間をも超越していると思います。 その神がイエスキリストを地上におくりこまれたと述べているのが聖書です。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」2000年前に大工の男があなた方の罪を赦すためにあえて十字架についたという歴史的事実に目を向けられますようご期待申し上げます。
お礼
【文字面は背後の真実に比べたら重要ではありません。】ことを心して、【2000年前に大工の男があなた方の罪を赦すためにあえて十字架についたという歴史的事実に目を向ける】ことは重要ですね。ご回答ありがとう御座いました。
補足
実は私はSelf-Realization Fellowshipというところの教えで勉強し、精進しております。 なかなか素直になりきれない、現代のソフィスケイティドの人間で、理屈と精進、勤行でアクセスしております。 仰せのことはその通りと存じます。 でもcincinnatiさん、cincinnatiさんがそのようなご境地になるには偉大な邂逅か、偉大なプロセスがなかったのでしょうか? 質問のような事柄などは、しゃべくっていても何の益もないかも知れません。 それはcincinnatiさんのようになれがそうでしょう。 興味本位の、知的遊びの議論かもしれませんね。わたくしは読書の途中で表題に引用したご質問に合いました。 聖書の創造の事項に関連していたので、記念的に質問を出しました。 実は十数年前からの読書でしたが、毎日数ページずつ、今四回目の読書です。 英語なので、両文章を書きながらです。一回読むのに二年半かかっています。 遅遅たる歩みです。 ありがとう御座いました。
だから 話の大本の そこだよそこ そこが違うんだってぇ~の ´
お礼
ありがとうございました。
- ShowMeHow
- ベストアンサー率28% (1424/5027)
キリスト教の神は"Omnipresence"-いつでもどこにでもいる(在る)という特徴を持っているようです。 科学的に理解することは難しいようですが、科学的な説明をつける人もいます。 どのように解釈するかは宗派や人によって異なりますが、一例としては 光を造ったということを、この宇宙の法則を造ったと理解している人もいるようです。 そうだとすると(アインシュタインがいったように)光=エネルギー=物質で別に区別する必要もないとも考えられます。 昼と夜を造ったというのは、時間を作ったと理解する人もいるようです。 (相対性論理には時間も大きな要素となっています。) 実際に天地創造で太陽と月と星(の運行)が造られたのは4日目となっています。 キリスト教では、全知全能であり、どこにでも在って、完全な善である(物質、空間や時間にとらわれる存在ではない)と定義されていると思います。(光でも闇でもない) http://en.wikipedia.org/wiki/God
お礼
ShowMeHowさん、早速ありがとう御座います。 このアドレスを今、読書中のバガヴァッド・ギータに貼り付けて、参考にしようと思い、質問をさせていただきました。 【全知全能であり、どこにでも在って、完全な善である(物質、空間や時間にとらわれる存在ではない)】、つまり【全知全能で遍在普遍、だから(光でも闇でもない)】ということなのですね。 それは人間の認識を超越していて、人間が自分の能力で把握できないという事ですね。 ではどのように対面したら良いのでしょうね。多分信仰や尊崇なんでしょうね。 困ったものです。どうことばで表すのかも困りますね。 ありがとう御座いました。どうよろしくお願い申しあげます。
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お礼
bragelonneさん 素晴らしいことをお教えいただき心よりお礼申し上げます。 宇宙創成説のような神話的仮説は、その時代、文化圏の科学的エトス (http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6153187.html) とかいう難しい質問があるようですが、私としては時代や文化圏のエトスがどうのということなどは問題にしていない中での質問でありました。 確かにそういう面からも思考の対象にできるかも知れませんが、聖書の完璧性はともかく、創世の部分は、私は宇宙や人という経験界を超えたところでの問題だと思っております、そう捉えています。 万世そして森羅万象において、万人において、世界の何処でも通じる真理の上の真理だという考えです。 森羅万象の創世と構造であり、人間の創世と構造であると思っています。 神を語る事は人間を、そして森羅万象を語ることだと思っています。 人生の勝利とは神を語り、森羅万象を祝福して出て行くことだと思っています。 エトスだのパトスだのということばで、50年も前に若い教員が教授会で発言していたが、まぁ今は一本の花草として祝福しております。
補足
bragelonneさん お忙しいところ、ご本家様よりお越し下さり心よりお礼申し上げます。大変触発的なご回答をありがとう御座います。 (a)【神が人間にとって表象し得ないという事をよく理解します。】 (b)【やはり信じるということにいくのですね。】 (c)【経験界には神ということばに対応がないということを理解します。】 (d)《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものがあるとしたなら それは《信じる》という行為である。【そしてまた、神を求める、愛するという事ですね】 (e)【《わたし》時間的意志行為ということを教えてもらいました】 (f)わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為、【ということも信じるということな(になる)のですね。】 (g)【異論はありません。】 (h)【異論はありません】 (i)【この“超える”、そして“見守る”というフレーズはよく出会うのですが注意して使う必要がありますね。感覚をよく表現しているのですが。】 (j)【bragelonneさんにわたしが、確認を求めるというか、コメントが欲しいところです。】 経験世界を超え、見守り、覆う。そして含む。これに異論はありません。でもbragelonneさん、まさかこの超え、見守り、覆うものが、自己に異質なものを含んでいるんではないでしょうね。 “含む”って自己の中におくことでしょうね。ならばその被含存在は神たるものの自己自身ではないのでしょうかね。 なお無論、経験世界から神を産出するということは、わたしとしても問題外のことです。 (k)よくわかります。 (l)【ここも全く異論がありません。そして“生成”ということばで神を離れて、経験界が自然に展開する意味を受け取ります。だから“見守る”ということなのでしょうね。これは神と創造界、森羅万象の関係を思うのにとても示唆的なタームですね。“生成”と“見守る”は対になりうると存じますし、神と経験界との関係を示す大事な言葉ですね。】 (m) ◆1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。【私はここの《神の霊》は《神の意志と意識そして、force》かなと思います。】 ◆1:4 神はその光を見て、良しとされた。【私は関連的な善悪の評価判断ではなく、単純にbless、嘉すだとくらいにしか読み取れませんでした。 つまり神はそこに自己を見た(自己とした)。ということだと思いました。】 ◆1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 {☆・・・・上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか?} 【私はそういう方向に思えませんが、bragelonneさんの今後のご思索を期待します。】