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廃藩置県まえの日本人は日本国内でも他県(藩)へ旅行することはあったので
廃藩置県まえの日本人は日本国内でも他県(藩)へ旅行することはあったのでしょうか?また、そのような感覚があったのでしょうか?生まれた土地(藩)しか知らず一生を終わる人があたりまえだったのでしょうか?
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当然のようにありました。 たとえば江戸からの五街道とは、諸大名が参勤交代のために作られたかも知れませんが、一般庶民も利用しました。たとえば東海道五十三次などの宿場町が栄え、今なお大きな町として残ってるのは、庶民が往来し、それぞれの文化を伝えたということです。 近畿地方では「お伊勢参り」が盛んでしたし、今で言う「町会」単位でツアーを組んで行ったらしいですよ。もちろん、一生他藩に出向いたことのない人も当然いたでしょうね。
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- jgk99
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回答については既に了解でしょう。 蛇足を一つ。 二十年ほど前のラジオで聞いた話しですが、石川県のおばあさんが登場して「海を見たことがない」と話していました。山村で生まれて、山村で結婚して、山村で生きてきたと。このおばあさんの時代、学校も満足に通えず、勿論、修学旅行も無し。旅行好きな私は「目からうろこが…」でした。 回答のように、昔も旅行は有ったでしょうが、食うことで一杯の人々の方が多く、現在と違って、旅行そのものが一部の人々の話題だったのかなと感じています。 日本の昔は、都会と田舎の差が大きく、貧富の差が大きかったと思っています。 まさに、蛇足です。
お礼
ありがとうございます。まさしく私がこんな質問をしたのはjgk99さんのおっしゃるような事を、最近仕事で山村に引越し感じていたからです。いままで都心に住んでいましたが、旅行にも興味が沸くことなく新婚旅行で北海道に行きましたが、やはり旅行に興味なく場所からレンタカー手配、宿の手配全部妻にまかせでキレられ分かれる寸前でした。あとは学校の行事でしかありませんでした。山村に来て「まさかこんな事が出来ない」何てことが多くあり、お言葉ですが、人生長く生きてきて自分の見聞のなさに逆に「目からうろこが…」でした。自分の中の言い訳が質問内容の件でした。 みなさんからの.たくさんの解答ありがとうございました。とても参考になりました。旅行に対する意識が変わりました。
- fumiyahama
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すでに多くの方が回答されていますように『お陰参り』が大流行しています。URLは次のとおりです・・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A 資金は『お伊勢講』などで入手したようです。(URLは上と同じ) 問題は、「銀行は無いし大金を持ち歩いたのだろうか」という疑問がありますが、どうも為替を使ったようです。為替ならば現金を持ち歩く必要はありませんね。 余談ですが、お隣の韓国では、この時代流通貨幣は銅貨しかありませんし、金貨も銀貨もありませんし、為替制度もありませんので、庶民が旅行など出来ませんでした。明治時代に朝鮮を訪れた英国人は朝鮮を旅行する時、旅行に必要な銅貨を運ぶのに馬を借り上げたそうです。日本は進んでいたのですね、だから明治時代いっきに近代化出来たそうです。 江戸時代の為替と坂本竜馬とか水戸黄門についてのQ&Aは下記のURLをご覧くださいね。
お礼
ありがとうございます。庶民が旅行する為の手段の1つが『お陰参り』だったんですね。韓国の話は面白いですね。話は違いますが、菅首相が朝鮮半島侵略について謝罪のような事を言って騒ぎがありましたが、侵略目的はヨーロッパ列強国にアジア圏が侵略されるのを防ぐ為に、発展が遅れていた朝鮮半島の教育(3千の小学校創設)やインフラ整備(現北朝鮮にある世界最大の水力発電所)し、対岸の火事を防ぎ自国を守るのが本来の目的だったようです。
- 黒田(@kuro-cyan)
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他の回答者さん達が言われる様に、他藩へ旅行する事は沢山ありました。 しかし、旅行する目的により、検閲は厳しかったと思います。 江戸時代、「入り鉄砲に、出女」という言葉が有ります。 これは、江戸に鉄砲が入って来るのと、女が江戸を出るのを、特に厳しく監視したという事です。 江戸に鉄砲が集まると、何時お膝元で謀反が起こるか分からないから、鉄砲の江戸への搬入を厳しく取り締まりました。 また、江戸幕府は、各藩主の奥方や娘を人質にとって、江戸に住まわしていましたが、その人質が江戸を離れる事により、各藩への抑えが利かなくなる事を恐れたためです。 それと、各藩においては、何らかの秘密を他にばれない様に、また、農民が他所へ逃げない様に、各地に関所をもうけ、行き来する人達を厳しく吟味しました。 映画でもよく扱われる、「隠密」に対しても、各藩はピリピリしていました。 江戸幕府による隠密によって、取り潰された藩が沢山あるので、各藩は厳しく出入りを取り締まりました。 したがって、幕府直轄の関所と、藩管轄の関所が、各地にもうけられたと思います。 そして、旅行しようとする者は、目的及び行き先・人数等をお上に届けて、通行手形を発行して貰わないと、藩の外に出る事、及び、藩に入る事は不可能でした。 現在の、パスポートやビザと同じですね。 通行手形が無い者は、関所を通る事は不可能なため、山道などを抜けて極秘に出入りしました。 いわゆる「関所破り」です。 関所破りは重罪で、間違いなく死刑でした。 しかし、関所の役人にわいろを贈ったりして、逃れた例もあったらしいです。 ・・・・・ 有名な関所破りとして、歌舞伎の「勧進帳」があります。 これは、源頼朝に追われた源義経が、東北へ落ちのびる際、安宅の関で、弁慶の機転により助かる話です。 また、有名な関所としては、箱根関が有ります。 東海道は、江戸と関西を結ぶ重要な街道の一つであり、ここを破られると豊臣家の残党に江戸を荒らされるため、警備は厳しかったらしいです。 江戸に出入りできる街道筋には、関所が多く設けられました。 関所における逸話は全国いたるところにあります。 それだけ、当時の権力者は人の出入りに敏感だった証しだと思います。 ・・・・・ 今でこそ、日本全国どこへでも安全に旅行できますが、昔は、大変な旅だったと思います。 当時、旅行するには、徒歩・駕籠・馬・船等しか無りませんでした。 銀行もありませんので、長旅をしようとしたら、それなりの路銀を持って行く必要が有りました。 特に、女の人は、常に襲われる危険が付きまといました。 だから、お伊勢参りや、金毘羅さん参りするにしても、残してゆく家族と水杯を交わしたと言います。 無事に帰ってこれるか分からないので、旅立つ時に今生のお別れをしたとの事です。 それだけ旅するという事は大変だったので、多くの人たち、特に豊かでない人達は、生まれ故郷しか知らない人達も多かったと思います。 私達は、安全に、自由に旅行できる現在に生まれて良かったと思います。
お礼
なるほど昔の藩へ旅にでることは、今で言う海外旅行のような感覚があたんですかね。女性1人が治安の悪い国へ行くのは犯罪にでもあえば生きて帰れないとも想像できます。当時は命がけの緊張感が必要だったんですね。
- Tacosan
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湯治や神社参りを名目にたてれば, 農民であっても旅行はかなり許されたようです. 特に「お伊勢参り」は「おかげ参り」として盛んで, 日本各地で「お伊勢講」という組織が作られています. お伊勢講では参加する家々がお金を出し合い, 毎年「抽選」で伊勢神宮に参拝する人を決めていました. 一応「抽選」ですがいろいろと工夫をして「だいたいみんな一度は伊勢神宮に参拝できる」システムになっていたようです. ちなみに wikipedia の「お蔭参り」の項によると, 1850年のおかげ参りでは 400万人以上の人が伊勢神宮に参拝していたとか. 江戸時代を通じて人口はだいたい 3000万人くらいですから, このときには全日本人の実に 7人に 1人が参拝していたということになります. なお, 江戸時代には旅行記や「日本全国名物マップ」のようなものも出版されています. また, 「東海道中膝栗毛」の大ヒットからも, 旅行に関して興味があったことが示唆されます.余談ですが, このようにすでに「旅行」を体験していることによって (明治に入って) 日本に鉄道が急速に普及したと指摘する人もいます.
お礼
やはり身分により、行動も制限されていたのですね。現代でも農業やっている一部の人(私です)はあまり出かけられないとはいいますが(作物の世話で)、自由な現代で旅行しないのはもったいなく感じてきました。あっ前述してますが旅行推奨する会社関係の人間ではまりませんよ。最近仕事のストレス感じてまして。。。回答ありがとうございました。
ありましたよ。 だって、五街道が整備されたり、江戸時代には旅行者の為に宿場町が出来たり、伊勢参りや、金毘羅参りなども流行っていました。 (日本全国の地図と各地(各藩)の名産品を書いている、当時の庶民向けのパンフレットが残っています) しかし、馬か籠か徒歩でしか旅行できなかった上、関所を通ったり、許可証が必要だったので、今よりは気軽ではなかったと思います。
お礼
参考URLの「福岡から広島まで滞在し80日間の旅行」は車があり時計がある現代から考えると、当時の日本人の土地の距離感や時間感覚の違いを大きく感じました。またその当時の1日は良くも悪くも充実していたんだろうと思いました。感慨深い内容でした回答ありがとうございます。
お礼
早速の回答を頂きありがとうございます。当時から文化交流やツアーのようなものがあったんですね。「土産話」って言葉がありますが、テレビもネットもない時代の旅の話は本当に情報にあふれた楽しい話だったんでしょうね。