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救済とおもてなしのこころ
救済とおもてなしのこころ 救済とは仏性や神との接触によるインスピレーションによるものだと思っています。 それは、ひとめぼれと同じく、ただ到来を待つしかないのですが 一方で、神の道具として、仏性の器として、おもてなしの準備はしておかなければいけないとも思います。 古い伝統をもつ宗教をさかのぼれば、戒律や清めの儀式はおもてなしの準備に起源があると思われます。 そこで、皆様に戒律や清めが形骸化されるまでのプロセスや意外な起源の考察をしていただければありがたいです。
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インスピレーションはある存在 あるいは世界から与えられるものでしょうか。それとも自分で引き出す・引き寄せる・もしくは受信するものでしょうか。答えはその中間にあるような気がします。 疑問に感じたことを考えないでとりあえずそのままにしておき、それが日常生活の中で深層意識に定着し、何かの作業を我を忘れてしている時やリラックスしているときに、定着した疑問がひらめきやインスピレーションとして感受されるのではないでしょうか。 上っ面の「疑問心」では定着しないでしょう。 刺激の少ない環境によって、あることに対して本当に疑問に思うことが出来た時、深層意識に定着するのだと想います。 鍵としては、純粋な疑問を持つことが出来る状態に、自分の心や周囲の環境を整える、といった所でしょうか。 戒律や清めの儀式がインスピレーションを引き寄せるためにあるのかどうか、解りませんが、儀式の種類・ありようによっては逆効果となるかもしれないですね。
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- darumazen
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>救済とは仏性や神との接触によるインスピレーションによるものだと思っています。 >それは、ひとめぼれと同じく、ただ到来を待つしかないのですが 宗教によって考えは異なるでしょうが。 仏教では「救済」とは既に自身が「救済されている」ということに気づくこと。 という考えの宗派もあります。 禅宗とか浄土真宗ですが。
お礼
回答ありがとうございます。 >仏教では「救済」とは既に自身が「救済されている」ということに気づくこと。 漠然とした感想ですが、伝統ある宗教には共感する部分があります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4です。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >戒律も清めの儀式もそういった準備は 要らなくなりました。 旧約と新約を前提に述べられているのかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ はい そうです。ということで さらに次を見てまいります。 ★ 個人的には、キリストの贖罪の意味の理解はユダヤ教の戒律を理解した上でないと的外れになると感じます。 ☆ ごもっともだと考えます。と同時に 一点 キリスト・イエスの内のイエスの側面つまり人間という立ち場(または貌)を明らかにするとしますと それは 戒律をもたらしたモーセの立ち場であるよりは 信仰としてのアブラハムのほうにある。こう思います。したがって たしかに一面では ★ また、贖罪されたから大丈夫なのですというのを真に受けるのは素朴な印象を持ちます。 ☆ なのですが いや それでよいという見方もじゅうぶん成り立つということではないでしょうか。 旧約のエレミヤ書31:31以下を取り上げて解説している新約のヘブル書8:7以下を参照することができると考えます。新しい契約においては 神は 人びとに対して お前たちの罪はもうまったく覚えていないと言っています。 ★ 贖罪されたから大丈夫なのですというのを真に受ける ☆ ことが 大事だと思います。 ★ 例えれば、ヘリで富士山の山頂に到着して「感動した」というよりも麓から自力で登ってみたいということでもあります。 ☆ わたしたちは 山頂に登ったあと またつぎの山があるという場合もあります。イエスは《わたしよりも大きな仕事を きみたちは するのだ》という意味のことを言っています。 世界の局面はすでに変わっている。ここから あたらしい出発を始めるのがよろしいのでは? すなわちもう《おもてなし》は 要らなくなった。というよりも これまでにもつねに一方的にわたしたちは かの人から《おもてなし》を受けてばっかりいました。めぐみにあずかりっぱなしです。ぢゃあ どうすればよいのか。どうすればよいでしょう?
お礼
回答ありがとうございます。 私が土台を点検するので、bragelonneさんはより高みを目指してください。
他人は絶対認めない。 言いたい放題の屁理屈をこねるくせに 聖書を信じるというばかさ加減。 そういう人間の知能程度と比較して判断ください。 そこに常識的真実が隠されています。
お礼
回答ありがとうございます。
- IDEA_MASTER
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訂正 ×定着した疑問がひらめきやインスピレーションとして感受されるのではないでしょうか。 ○定着した疑問の答えがひらめきやインスピレーションとして感受されるのではないでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 救済とは仏性や神との接触によるインスピレーションによるものだと思っています。 それは、ひとめぼれと同じく、ただ到来を待つしかないのですが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この主題は 主観によって感覚が違ったりして 一概に規定することが出来ないと思うのですが 現代における問題は ひとつはっきりしているところもあると考えます。 それは 《ただ到来を待つしかないのですが》なのですが ★ 一方で、神の道具として、仏性の器として、おもてなしの準備はしておかなければいけないとも思います。 ☆ という《準備》は すでにすべてととのっていると見る見方が ぎゃくになりますが 妥当なのだと思います。すなわち ★ 古い伝統をもつ宗教をさかのぼれば、戒律や清めの儀式はおもてなしの準備に起源があると思われます。 ☆ この準備段階は じんるいは遠く過ぎて来ているという新しい見方です。戒律も儀式もいっさい要りません。 というふうに述べるかたちなので 《主観》の要素が強いと言わねばならないのですが それでもひとつの論証をすることができます。 おもてなしの準備をしていた時代にあっても インスピレーションは すでに何人かの人たちにやって来ていたということです。言いかえると その準備が要らなくなったという現代においては もはやすべての人に準備がととのっている。すべて開かれている。という違いがあるだけだと考えるからです。 つまり 昔も 儀式や戒律があってもなくても 神の霊が到来することは起きた。現代では そのことが やはり準備の必要なく すべての人に開かれている。 そういう歴史の段階にあると考えます。 ★ そこで、皆様に戒律や清めが形骸化されるまでのプロセスや意外な起源の考察をしていただければありがたいです。 ☆ したがって 《形骸化》してよかった。形骸化するべくしてそうなった。と見ます。 どうしてそう言えるのか? どのようにして 準備の不要という局面が現出されたのか? ひとことで言えば――おとぎ話になりますが―― 悪魔は ひとの死の淵にまでは来ることが出来なかった。と分かったからです。ひとの死の淵にまでも悪魔も来ることが出来たとしても 一緒に死ぬことは出来なかった。悪魔は すでに死ですが――すべてのものを否定してやりたいと 手ぐすねを引いて待機している者ですが―― その死は死なないのです。死を死ぬことが出来ないのです。死を死んだあと その死の状態が 死ぬ・つまりよみがえるということは すでに出来なくなった者だからです。 その死が死なない存在(?)が 死のただ中にまでは来られない。このことが分かったからです。 戒律も清めの儀式もそういった準備は 要らなくなりました。
お礼
回答ありがとうございます。 >戒律も清めの儀式もそういった準備は 要らなくなりました。 旧約と新約を前提に述べられているのかと思います。 個人的には、キリストの贖罪の意味の理解はユダヤ教の戒律を理解した上でないと的外れになると感じます。 また、贖罪されたから大丈夫なのですというのを真に受けるのは素朴な印象を持ちます。 例えれば、ヘリで富士山の山頂に到着して「感動した」というよりも麓から自力で登ってみたいということでもあります。
- kigurumi
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おもてなし おもてなし。。。。 うーーん ソドムだったかゴモラだったか忘れましたが、神の使いが町にやってきた時、住民たちは神の使いを犯そうとしたんですね。 宿屋の主人は、神の使いを見て只者じゃないと思い彼らを汚されるわけにはいかないと思い、住民たちに「ちょっとまってください、だんなさんたち、うちには処女の娘がいます。男を犯すより処女を犯した方が楽しいでっせ。うちの娘を犯しください」と娘を差し出した。 娘は朝方までずっと大勢の男たちによってまわされ犯し続けられた。 何人もの男たちのよって長時間暴行を受けた娘は朝に開放されたが、戸口で息が途絶えた。 宿屋の主人の神の使いのおもてなしの極意ですね。 ひどい話だぁ・・・・ 父親鬼ですね。 自分のためなら娘すら利用するとは。 ってことで、神は男も焼き払ったんだったかな? 宿屋の主人にしたら代わりに娘の性器を差し出すというのが最高のおもてなしだったんでしょうけどね。 このようなやつらは殺した方がこれ以上悪事をしないですみ救済になるってことで、神は殺しただったと思う。 あとは関連するエピソードは、、、、 詳しくは思い出せませんが、主人が宴会を催したとき、普段からいつでも招かれての大丈夫なのように準備している人は、きちんとした衣装をつけて宴会に出れたが、日頃から準備をしていなかった人達は、宴会に豪華な衣装で出席できず、恥ずかしい思いをしたというものだったような・・・ 日頃準備をしていて律法通りにしていたら、救済の時になってもそれに叶う人であるので救済されずが、日頃準備をしていない、律法通りに生活していない人は、突然やってきた救済のときに、救済に値する人になっていないので、救済はされないって話だったと思う。 戒律や清めが形骸化されるまでの起源? うーーん、ひとまず豚さんは、虫が寄生しやすく、十分に焼いて虫を殺さないと虫が身体に入って悪さするのですが、そういうことを知らくてもそういう寄生虫がいる動物はひずめで分離できるとして、ひずめが割れているのとか、そういうのは食べてはならないとなったんじゃないかと。 あとは病原体は肉眼では見えないので、汚いことをしたら、水で洗い流すってことで、発病を抑えられる。 身体についてもすぐに発病せず、一定の時間に内に水で洗い落とせば大丈夫な細菌は結構ある。 それをしないでいると、やがて皮膚の内部に入り込み、皮膚病になったりする。 洗い落とすというのがとにかく効果があるとわかったので、沐浴を儀式として取り入れ、一定の時間になったら沐浴するとか、そういう戒律というかルールを作ることで、疫病の蔓延を防げたのだと思う。 例えばチフスが猛威をふるったヨーロッパにおいて、ユダヤ人だけが発病しなかったことから、ユダヤ人が病気の元凶だとされたわけですが、ユダヤ人は戒律でよく外から帰ったら沐浴するとか水洗いをちゃんとするとかそういう戒律があり、律法を守っていた熱心なユダヤ教徒だった場合、チフス菌に触れても発病せず、家族全員が敬虔なユダヤ教徒だったので、家庭に菌が持ち込まれなかっただったような。 理屈はわからなくても、経験で効果があるとされることが、戒律になっていったみたいです。
お礼
回答ありがとうございます。 ユダヤ人の話は伝統的共同体の智慧のすばらしさを示すよい例ですね。 >理屈はわからなくても、経験で効果があるとされることが、戒律になっていったみたいです。 真の意味の保守主義ですね。
- cxe28284
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こんにちは 頭が悪いので、質問の意味が今一つ把握しかねます。 この場合おもてなしの対象となるのは、神仏でしょうか。 ささげ物としてのおもてなしなのか、又は人間相互のものなのか、 よく分かりません。 救済と云う言葉も、魂の救済という意味なのか、さまざまな難民やホームレスの人達への 具体的な救済を指すのか、わかりかねます。 キリスト教における聖餐式の起源は聖書の中に以下のような叙述があります。 「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、 主イエスは、引き渡される夜、パンをとり、感謝の祈りをささげてそれを裂き、 これはあなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。 と言われました。また、食事の後で、盃も同じようにして、 この盃は、私の血によってたてられる新しい契約である。飲む度に、 私の記念としてこのように行いなさい。 と言われました。だからあなた方は、このパンを食べこの盃を飲むごとに、 主が来られる時まで主の死をつげしらせるのです。 (コリントの信徒への手紙 1 11 ・23以下の) ここに引用した聖書は、使徒パウロが伝えているいわゆる最後の晩餐でのイエスの言葉です。 この中に「私の記念してこれを行いなさい」と云う言葉を読むことができます。 この言葉を聖餐の根拠として今日まで教会はひきついでいます。 第一 主日他記念すべき特別礼拝におこなわれます。形骸化してはいません。
お礼
回答ありがとうございます。 説明不足で申し訳ありません。
- aokii
- ベストアンサー率23% (5210/22062)
子供のころから周囲に教えられて形骸化されるのでは。
お礼
回答ありがとうございます。 子供には詳しい説明なしの決まりとして教える過程が必要なのでしょうが 問題はそこで止まってしまう点にあるのでしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 私の理性的な部分は質問者様の意見に賛成しております。 >戒律や清めの儀式がインスピレーションを引き寄せるためにあるのかどうか、解りませんが、儀式の種類・ありようによっては逆効果となるかもしれないですね。 うーん。 「ただ到来を待つ」と言いながら実は方法論を求めたい態度は矛盾していましたね。 ありがとうございました。