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建築史とは?意味や特徴についてわかりやすく解説します!
- 建築史とは、昔の建築物や建築技術の歴史を研究する学問です。具体的な建築物の構造や様式、用途などを調査し、その背景や変遷を解明します。
- 建築史では、古代から現代までの建築物を時代や地域ごとに分析し、その特徴や意義を考えます。建築物の設計や構造には、当時の技術や文化、社会的な要素が反映されていることもあります。
- 建築史の研究によって、過去の建築物の価値や意義を再評価することが可能となります。また、それを基に現代の建築にも新たな視点やアイデアを提供することもあります。
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わかりにくそうなところは補足しながらやわらかい文に書き換えて みました。ご参考になれば幸いです。 「通常、軒とは丸桁から軒付(のきづけ:屋根の葺材の先端部分)までのことをいいます。構造上からいえば、丸桁の上に垂木をのせてはね出しとし、この垂木で軒付と屋根を支えるのが本来です。 わが国でも法隆寺金堂(唐招提寺金堂の間違いかもしれません。法隆寺金堂は角垂木の平行垂木、唐招提寺は丸垂木の扇垂木です)や薬師寺東塔などに見られるように野屋根(のやね:本来の垂木(地垂木)の上に束を立てて母屋をのせ、その上にもうひとつの垂木(野垂木)と野地板をのせて葺いた屋根)と化粧裏(地垂木の上に張った構造上の意味はない化粧用の板)の二重になっていなかったのはもちろんです。さらに、構造上の理由で垂木は太くて強いものがよいことから、自然材でまっすぐな丸太を選んだでしょう。また、隅のところは後世でいう扇垂木(垂木が桁から軒先に向かって扇状に広がる方法で並べた垂木で、隅のところでは外壁から135度の角度で垂木が出ています)のように常に丸桁から槓杆(こうかん:梃子のこと)にして外にはね出すべきことはもちろんです(これに対して後世によく見られる平行垂木では垂木は平行に並んでいて、隅のところは外壁から135度の角度で隅木(すみぎ)と呼ばれる部材が設置されていて、隅の垂木はこの隅木に取り付けられています)。 しかし、この方法では屋根の勾配を大きくしなければならない場合、軒裏の桁に近い部分は軒先から高くなってしまうために暗くなります(低い位置に化粧裏を張れば、その面は明るくなります)。また、一面を角材にした美しい軒裏にしようとすると、垂木は断面積が小さくなって構造強度が落ちてしまいます(野屋根と化粧裏の二重であれば、地垂木は化粧裏を張るだけのもので、構造上の負担は小さいため、角材となって断面が小さくなっても支障はありません)。 そのため、奈良時代から屋根の野地と軒裏とはまったく別物として取り扱われてる習慣となりました。構造上の部材としては桔木(はねぎ:桁よりも内側まで伸びていて、梃子の原理で軒先を支える部材)が屋根と軒裏を含めた軒のすべての荷重を負担することになり、軒裏のすべての部分は桔木から吊り下がる構造となって今日に至っています」
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私もよく解らんですが、現代的な文に少し直してみますね。 用語がわからないのでそれはそのままで。 通常、軒(のき)というのは、丸桁から軒付までの間を指して言う。 その構造上からいえば、「丸桁」の上に「垂木」をのせて、はね出しとし、この「垂木」で「軒付」と屋根を支えるようにするのが本来の形である。 法隆寺金堂、薬師寺東塔などのような初期の建築は、後の時代のように「野屋根」と「化粧裏」との二つに分けて作らなかった。 構造上の都合、当然ながら、垂木は太く強く作られるものだった。 だから自然木の丸太の直材を選んだであろう。 また、隅(すみ)の所は、後の時代に「扇垂木」と呼ばれるようになった形のように、常に丸桁から槓杆として外にはね出すのが普通だった。 しかしながらこの方法は、屋根勾配を強くする必要がある場合、軒裏(のきうら?)を明るくするには不適当である。また、一面を角材で作った美しい軒裏とするためには、構造と両立しない。 そのため、奈良時代から、屋根の「野地」と「軒裏」とは全然別の物として取り扱われる習慣となった。 構造上の力材の役割は「桔木」が果たすことになった。 軒裏の全ての構造は、桔木に釣り下げられる形となって、今日に至っている。
お礼
回答ありがとうございました♪
お礼
長い質問だったのにこんなにご丁寧に回答してくださって ありがとうございました♪