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豊臣秀吉の政治は民衆にはどう思われていましたか。
豊臣秀吉の政治は民衆にはどう思われていましたか。 エピソードなど教えて下さい。
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猿野郎 http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-36.html 「一次史料で秀吉を「猿」と呼んだ例もありますね。「京中落書」と呼ばれるもので、天正19年(1591)に成立したものです。秀吉のたび重なる天下普請による負担強化に対する諷刺です」引用ここまで
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- goo-par1732
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民衆が秀吉の「政治」をどう思っていたのか、歴史ファンにすぎない私が真正面から回答はできませんが、なんとか考えをまとめました。 政治の受けとり方は、民衆といっても農民と町民とでは異なるのではないか、そうであれば民衆個々人の立場で異なるのではないでしょうか。 秀吉は、豪華極まりない聚楽第や伏見城を造営していますが、そのために苛酷な税を取り立てられた人びともいるでしょう。 しかし、建設に携わった人びとにとっては、仕事にありつけるわけです。 秀吉の時代、大地震が起きていますが、窮民救済のための「救済土木事業」という考え方もあります。 救済土木事業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E6%B8%88%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD はたして、民衆に好かれた「将軍さま」や「関白さま」がいたのだろうかと。 そんな人はいないだろうと思ったのですが、血の通った領国経営で領民に慕われた領主の話もあるので、手元にある角川書店『日本史探訪10』を開いてみました。 そこに海音寺潮五郎氏と松本清張氏の「秀吉について」の対談があります。 最初の数行を引用します。 慶長9年8月、秀吉の七回忌。亡き太閤秀吉への親しみと、新しく誕生した徳川幕府への反撥が民衆を駆り立て、老若男女あげての華やかな報告祭が、京の街に繰り広げられた。 しかし、その後幕府は秀吉の幻をおそれ、豊臣家を滅ぼすだけにとどまらず、大坂城、豊国神社と、秀吉の遺影はすべてとりこわすのであった。 そしてこの本には、「踊り狂う群集 豊国祭図屏風」の図が載っています。 豊国祭図屏風 http://blog.goo.ne.jp/sendatakayuki0123456789/e/8713366103ae327853e11af8a5ea0d01 豊国神社 http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/c97162c27d5d2f6efde0b7d400f760fc 秀吉が庶民に愛されたもう一つの例を愛知県立図書館の「郷土資料展」から一部引用します。 慶長4年2月18日、奉行たちは秀吉の死を世間に発表したが、世情不安定から葬儀は行うことはできなかった。しかし、庶民の太閤秀吉びいきはこれを承知しなかった。 『秀吉公御葬式御行烈記』 http://www.aichi-pref-library.jp/chiki/jyousetsu_6.html これらの例の他に、NHKで見たのですが、ねねのゆかりの地大坂・平野郷でも秀吉は好かれていたようです。 「大阪市平野区 末吉 秀吉」で検索されると出てきます。 日本人は、亡くなった人に対して寛容ですから、ここに挙げた例の評価は、値引きして考えるべきかも知れません。 うまくまとめることができませんが、お役に立てば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 >農民と町民とでは異なるのではないか、 ああ、確かにそうですね。 >建設に携わった人びとにとっては、仕事にありつけるわけです。 救済土木事業に関ったのはどういった人たちだったのでしょうか。 農閑期の農民などですか? 豊国祭図屏風、凄いですね。 人々が熱狂する様子が伝わってきます。 豊国神社のhpには 立身出世の象徴として「太閤さん」という呼び名で庶民から絶大な支持を受け・・・・ とありますね。 今の橋元知事のような存在だったのでしょうか。 秀吉公御葬式御行烈記もたいへん参考になりました。 >ねねのゆかりの地大坂・平野郷でも秀吉は好かれていたようです。 私は平野に生まれ育ったんですが、全然知りませんでした! 平野はねねの土地だったんですね。 ただ、 http://www.smile2u.jp/story/nene2.html によれば 慶長20年(1615年)の夏の陣において、平野では徳川家康と秀忠が陣を張って、豊臣軍を一気に大阪城に追い詰めて、落城させました。 とあり、平野での秀吉の支持率は高くはなかった、と思われますが。 恥ずかしながら、この時代のことは勉強不足でして 全く知らないのです。 大変丁寧に説明くださったのでとてもわかりやすかったです。 ありがとうございました。
- kikitetsu
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犬野郎。
お礼
「京中落書」は1591年に成立したもので、秀吉のたび重なる天下普請による負担強化に対する諷刺なのですね。 まつせ(末世)とは別にはあらじ、 木の下のさる(猿)関白を見るに付ても 面白いですね。 これを読んでと秀吉の支持率はかなり低かった、ということがわかりました。