質問者(mikansui02さん)は、直接私にも質問を送られた方だと思いますので(質問内容が同じなので)こちらに掲載します。(いただいたメールアドレスへ送信しても届かないためです。)
まず丸子(鞠子・麻利子)と頼朝の関係ですが、吾妻鏡の記述(文治5年10月)1189年に・・
「 手越の平太家綱と云う者有り。征伐の間御共に候す。その功に募り賞に行わるべきの由言上す。且つは駿河の国麻利子一邑を賜う。浪人を招き居え、駅家を建立すべしと。
仍って申請の旨に任せ仰せ下さる。散位親能の奉行として、早く宛て行うべきの趣、内屋の沙汰人等に下知すと。」と、あります。
現代風に訳すと「奥州藤原氏征伐の際、頼朝の近くにいて常に共をしていた手越平太家綱というものが、”私にも恩賞をいただきたいと思います”と願ったところ、頼朝が駿河の国鞠子一村を与えた。頼朝は”付近の住民を集めて馬屋を造り、宿を作りなさい。”と励まし、早く事務官である 親能に申請書を出しなさい、と命令した。」と言うことになります。つまり東海道五十三次の鞠子宿の発展は頼朝と家綱の関係から始まったということがわかります。その後頼朝上洛の際には当然丸子を通っているわけで、そのあたりに糸口があるような気がします。
次に誓願寺ですが、本山は京都にあり、開山は奈良時代と由緒正しいお寺です。誓願寺の末寺は三河地方に多く、頼朝の母の実家「熱田神宮」の近くにもあります。こちらの誓願寺には「頼朝生誕の地」という碑が建っています。当時出産は母方で行われるのが通例ですから、京都で結ばれた義家と熱田大宮司の娘である母は身ごもって熱田神宮の近くに戻ったということは容易に推測されるところです。当時、神社と寺院は一体ですから実際に誓願寺で頼朝が生まれてもおかしくありません。
ということから、丸子の誓願寺と頼朝の接点がなんとなく見えてくるような気がします。
他に「千手の前」の話しもこのあたりではなかったでしょうか?千手は当初頼朝に仕える女官でしたが、捕虜となった平重衡を慰めるために遣わされた才媛です。この件は平家物語にも語られているので有名ですね・・その後、政子の女官となり、ある時失神してその後息を吹き返し再び亡くなったと言われていますが、実際には死なずに故郷の手越に帰ったと言われています。
おそらく政子の計らいでしょう・・女好きの頼朝から離すための・・(笑)
3つのファクター・・何か小説でも書けそうですね・・・(^^)
次の質問「梶原景時のことを調べているのですが、石橋山の戦以前の景時は何をしていたのでしょうか。」にお答えします。
梶原景時は大庭一族ですが冷や飯をくらっていた部類です。大庭氏は神奈川県藤沢市一帯を領有する大豪族ですが、分家がいくつかあって、そのすべてが景親寄りではなかったのです。現に兄は頼朝についています。
なので、石橋山合戦時には大庭軍に加わってはいたものの、気持ち的には頼朝寄りだったと考えられます。彼はこれをチャンスにして飛躍したいという、当時の武士なら誰でも持っている普通の考えに基づいて行動しているわけです。飯田五郎家義という男などは夜中に頼朝の所へやってきて「家来にしてくれ」という有様でした。当時の武士は江戸時代の武士のように「滅私奉公」などという考えはまったく持っていませんから、こうしたことがごく普通に行われていたし、別におかしいことでもないのです・・現代のサラリーマンにも見習うべきところはたくさんあります・・(笑)
GENBOWでした
お礼
GENBOW様、お察しのとおり私でした。メールアドレスが間違っていたこと、こちらを締め切ったと勘違いしてしまい同じ質問をしてしまっていたことをお詫びします。すみませんでした。 誓願寺と頼朝との繋がりがわかってすっきりしました。 景時にお兄さんがいることは知っていましたが、先に源氏方に入っていたのは知りませんでした。 知りたいと思っていたことを詳しく教えてくださって、本当にありがとうございました。