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ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・
やっぱし おかしいと言わねばならないのぢゃないですか? 動物の持つその本能の動きを 何とかしてまねて たとえば性なら性という思いや考えや行為をおこなうのだと言ったばあい はたしてひとは ついて行けますか? 要するに ヒトの本能は壊れていると言えるのかも知れません。問題は では 思考やその計らいを介さない自然の衝き動かすところとそれにもとづきわれわれも動きを取るところの広い意味での自然の行為 これがいっさい無い と言えるのでしょうか? わたしの守備範囲はふたつに限られています。 帰謬法による反論として もしひとに自然の力を宿した自然本性がないとしたら つまりはひとの思考と行為のすべては 大きく言って知性によるもの(=文化)のみであるとしたら その知性の持ち得る判断力は 人びとのあいだで共通でありうるとしても その共通の知性が どこまで妥当であるのか これは ひとにはまったく分からないということになりませんか? ときとところを違えれば 判断の基準も違ってくる。したがってその時と場の情況にすべて判断のあり方は委ねられている。つまり世の流れにうまく乗ったものが勝ちであり それが 世界のすべてであることになる。 もう一点は ソシュールの恣意性の神話に異を唱えることができるという主題です。言語記号の恣意性は成り立たないという批判としての仮説です。 よって――もしそうであるなら―― 恣意性としての《文化また文化のみつまり 完全な非自然》から世界は成るという仮説が崩れます。 本能が壊れていると言えるかどうかを 微妙に 別として それでも自然の力がひとに残されているかどうか。言語記号の恣意性が崩れるなら 《文化のみ》が崩れ 自然の要素が残されていると言えることになります。 いろんな角度からご見解をおおしえください。
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補足
お早うございます。説明をいただきありがとうございます。 わたしのほうの言い分を――まだ未読の状態でも言えると思いましたので――書いてみます。 食欲と性欲を例にとって 本能を含む自然と非自然としての文化の二つの領域を見分けつつ 《文化のみ》という前提に立つ世界観は 理解がしがたいことを述べます。 用語として 《本能そして自然》は その欲求に従うほか道はないものというふうに定義しておきます。その自然から抜け出した領域 反自然さえ含む非自然としての《文化 そしてその意味での知性》というふうにここでは用います。 食欲は 自然です。何をどこでどのように処理し加工し手を加えるかにかかわらず その欲求に結局のところ従うのなら 本能であり自然です。これは 《自然および文化》という並列の扱いではなく 手を加えるという文化は 自然の中に包まれるかたちです。 ただし 動物はたとえば毒きのこを 本能で見分けるのかも知れないのですが これは ヒトには無理です。学習によって見分けるほかありません。つまりこのことでは本能が壊れていて 文化のみです。 あるいはまた ひもじいと言いながら二週間欲求に従わないでいることができるようですね。さらにあるいは その身体を含む存在じたいをみづから抹殺するという振る舞いに出ることすらあります。それなら食欲に負けることはないと見たわけではないでしょうが。――ここでは 自然に対抗する文化という位置づけになるのかも知れません。 性欲に関しては わたしの見方ですが 一方で自然の欲求もあれば 他方で文化としての振る舞いもある。図式的に言えば 互いに同等に並んでいる。性行為に及ぶのは 決して本能によるのではないでしょう。しかもおそらく文化――たとえば 男が女を商品化するという知性のはたらき――によって 性行為がやっと出来るというのでもないでしょう。互いに同等にあい並ぶとい力関係のようなかたちであるのならばです。 女をあるいは女の肉体を商品化するという知性の形式(社会的な行動様式にまで成っているもの)に従わないでいることは可能です。これを 例外と見ることができるのか? これもひとつの焦点になるのではないでしょうか? 悪貨は良貨を駆逐するという・人間と社会の慣習を言い当てたことわざがあります。わたしの言い分は 《自然と文化》から人間と世界は成るという前提に立った知性と文化が はっきり言って《良貨》だと考えるものです。 これに対して おそらく案に反して 同じ前提に立ってでありながら知性の乏しさと文化の未熟によって 人と人との信頼関係が結べない 結べないまま人に接していくそのまじわり(交通)の仕方が ならわしとして《悪貨》に成っている。 そうしてこの《悪貨》の側面(つまり 社会で よろしくないと思われていても有力である側面)を取り上げ全面に推し立てて 世界観の前提は《文化のみ》だという仮説を展開した。ただそれだけのことだと推し測っています。 たとえば《あなたは〈わたしがわたしである〉という普通の存在のあり方において生きるなら ころすことや盗むことやむさぼることをしないであろう》という命題は ヒトの自然本性に刻まれているという見方が 《自然および文化》という前提の中味です。《文化のみ》によって あとから規範をヒトがこしらえて出来たものではないという意味です。《ころしもむさぼりもしない》ふつうの生き方によるなら ひとはひとを愛すことができるであろうと 自然が言っておりそれはヒトの自然本性にも書かれていると推し測ることになります。これらがただちに現実であるかは 別の問題だという見方にもなります。 どうでしょう?