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ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・

 やっぱし おかしいと言わねばならないのぢゃないですか?  動物の持つその本能の動きを 何とかしてまねて たとえば性なら性という思いや考えや行為をおこなうのだと言ったばあい はたしてひとは ついて行けますか?  要するに ヒトの本能は壊れていると言えるのかも知れません。問題は では 思考やその計らいを介さない自然の衝き動かすところとそれにもとづきわれわれも動きを取るところの広い意味での自然の行為 これがいっさい無い と言えるのでしょうか?  わたしの守備範囲はふたつに限られています。  帰謬法による反論として もしひとに自然の力を宿した自然本性がないとしたら つまりはひとの思考と行為のすべては 大きく言って知性によるもの(=文化)のみであるとしたら その知性の持ち得る判断力は 人びとのあいだで共通でありうるとしても その共通の知性が どこまで妥当であるのか これは ひとにはまったく分からないということになりませんか?  ときとところを違えれば 判断の基準も違ってくる。したがってその時と場の情況にすべて判断のあり方は委ねられている。つまり世の流れにうまく乗ったものが勝ちであり それが 世界のすべてであることになる。  もう一点は ソシュールの恣意性の神話に異を唱えることができるという主題です。言語記号の恣意性は成り立たないという批判としての仮説です。  よって――もしそうであるなら―― 恣意性としての《文化また文化のみつまり 完全な非自然》から世界は成るという仮説が崩れます。  本能が壊れていると言えるかどうかを 微妙に 別として それでも自然の力がひとに残されているかどうか。言語記号の恣意性が崩れるなら 《文化のみ》が崩れ 自然の要素が残されていると言えることになります。    いろんな角度からご見解をおおしえください。

みんなの回答

noname#122427
noname#122427
回答No.2

お礼と補足、ありがとうございます。 明日迄考えようかと思たのですが、課題/疑問点山積みなので、寝る前に一つ二つやっつけようかと思います。 >性交も本能ではできない。 これを分解してみたいと思います。 性行為(生殖行為)に関して「本能」の部分と言うのは、 女性側:男性への性的刺激を発する。(1)     男性器の進入察知で潤滑。(3) 男性側:性的刺激による性器の勃起。(2)     女性器への進入。(4)     射精。(5) でも、この本能に依る身体の反応は、自然状態で起きません。 一般動物は、雌の成熟による妊娠準備が整い次第、その事自体が性的刺激となって雄を刺激。 刺激を受けた雄は性器が勃起し雌の性器への進入を始める。 同時に雌の性器も受け入れ準備を行い、交接。射精、です。 人間は性器潤滑や性器勃起と言う本能は、人為的な刺激によってしか起こらなくなっている。 人間の雌が発する性的刺激は、直接的に男性を刺激しないし、 人間の雄の性反応は、そこで一旦雌に受け入れか拒否か、を思考させる。 何らかの食物摂取があったならば、何らかの排出/排泄が伴う。 これは本能、と言うか生理的反応ですが、 食物摂取に関して、「何を食べようか」 排出/排泄に関して、何処に出そうか、トイレ?野原?木陰ならOK? と言う思考は文化。 (本能は「(食物が口に入ったら)噛む/飲み込む」   「(排泄時は)いきむ」あたりでしょうか。。。  あーーー本能と生理的反応の線引きはどうなんだろ???大汗) 異文化との比較対照においては、例えば、 *何らかの結婚制度。 *衣服の存在。 この辺りは「本能」ではないけれど、共通しています。 >《反発したりすり合わせたり》することができるのは 文化以前の自然本性  ぶらじゅろんぬ様のおっしゃる「共通の知性」。 これは「文化」の意味でしょうか? 私が反発だの擦り合わせだの、と意志的な言葉を使ったのがいけなかったかも知れません。 純粋に「互いの違いを見る」のは、一般動物でも可能な行為ではないでしょうか。 >妥当 >どちらがよいか と言った「判断」ではなく、只「互いの相違点を見、意識し、反応」する。 だから、 >まったく互いの間では決まらない 決まらなくて良い、 決まる/決まらないは「(相違点の)気付き」に干渉しない、と思われます。 おっしゃる >自然本性 が、(この説の)本能と文化のどの辺りを指すのか?がイマイチわからないです。 この「自然本性」と言うものをどう考えれば良いか。。。 只、、、 >人類としての普遍性 普遍的なものならば、それは限りなく「本能」に近い部分/本能の断片の周辺、ではないでしょうか。 岸田さんの唯幻論は、そもそも、 *人間の行動原理を本能と文化の二つに、完全に仕分け出来る、と言っているのか? これも、ぶらじゅろんぬ様のおっしゃる「自然本性」の位置づけ/意味付け/存在の可否に影響して来ますよね。 ちょっと調べてみたいと思います。 細かな状況例は、私の独断での表現になりますので、厳密に説明になっているか?はあまり自信ありません。汗 ひとまず、今夜はこれにて失礼します。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。説明をいただきありがとうございます。  わたしのほうの言い分を――まだ未読の状態でも言えると思いましたので――書いてみます。  食欲と性欲を例にとって 本能を含む自然と非自然としての文化の二つの領域を見分けつつ 《文化のみ》という前提に立つ世界観は 理解がしがたいことを述べます。  用語として 《本能そして自然》は その欲求に従うほか道はないものというふうに定義しておきます。その自然から抜け出した領域 反自然さえ含む非自然としての《文化 そしてその意味での知性》というふうにここでは用います。  食欲は 自然です。何をどこでどのように処理し加工し手を加えるかにかかわらず その欲求に結局のところ従うのなら 本能であり自然です。これは 《自然および文化》という並列の扱いではなく 手を加えるという文化は 自然の中に包まれるかたちです。  ただし 動物はたとえば毒きのこを 本能で見分けるのかも知れないのですが これは ヒトには無理です。学習によって見分けるほかありません。つまりこのことでは本能が壊れていて 文化のみです。  あるいはまた ひもじいと言いながら二週間欲求に従わないでいることができるようですね。さらにあるいは その身体を含む存在じたいをみづから抹殺するという振る舞いに出ることすらあります。それなら食欲に負けることはないと見たわけではないでしょうが。――ここでは 自然に対抗する文化という位置づけになるのかも知れません。  性欲に関しては わたしの見方ですが 一方で自然の欲求もあれば 他方で文化としての振る舞いもある。図式的に言えば 互いに同等に並んでいる。性行為に及ぶのは 決して本能によるのではないでしょう。しかもおそらく文化――たとえば 男が女を商品化するという知性のはたらき――によって 性行為がやっと出来るというのでもないでしょう。互いに同等にあい並ぶとい力関係のようなかたちであるのならばです。  女をあるいは女の肉体を商品化するという知性の形式(社会的な行動様式にまで成っているもの)に従わないでいることは可能です。これを 例外と見ることができるのか? これもひとつの焦点になるのではないでしょうか?  悪貨は良貨を駆逐するという・人間と社会の慣習を言い当てたことわざがあります。わたしの言い分は 《自然と文化》から人間と世界は成るという前提に立った知性と文化が はっきり言って《良貨》だと考えるものです。  これに対して おそらく案に反して 同じ前提に立ってでありながら知性の乏しさと文化の未熟によって 人と人との信頼関係が結べない 結べないまま人に接していくそのまじわり(交通)の仕方が ならわしとして《悪貨》に成っている。  そうしてこの《悪貨》の側面(つまり 社会で よろしくないと思われていても有力である側面)を取り上げ全面に推し立てて 世界観の前提は《文化のみ》だという仮説を展開した。ただそれだけのことだと推し測っています。  たとえば《あなたは〈わたしがわたしである〉という普通の存在のあり方において生きるなら ころすことや盗むことやむさぼることをしないであろう》という命題は ヒトの自然本性に刻まれているという見方が 《自然および文化》という前提の中味です。《文化のみ》によって あとから規範をヒトがこしらえて出来たものではないという意味です。《ころしもむさぼりもしない》ふつうの生き方によるなら ひとはひとを愛すことができるであろうと 自然が言っておりそれはヒトの自然本性にも書かれていると推し測ることになります。これらがただちに現実であるかは 別の問題だという見方にもなります。  どうでしょう?

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noname#122427
noname#122427
回答No.1

何だかちょっと嬉しいような気がしています。 いや、只の自意識過剰かしら。。。?汗 御邪魔します。 >わたしの守備範囲はふたつに限られています。 これ以降は、ブラジュロンヌ様が「本能が壊れた」と言う表現について、ご自身での解釈なさった上での見解となりますので、 それ以前の問題=「本能が壊れた」と言う表現の解釈を述べてみます。 勿論、受け売り^^ 本能=行動規範です。 一般動物の場合、置かれた環境内で受けた刺激への反応/対応はこの本能(行動規範)によって規定されている。 この(自然状態の)行動規範が人間は「壊れている」。 でも、日々の行動は生きている以上必須。 その為に、本能に代わる基準が必須。 「どういう行動規範(基準)を持つか?」=文化。 行動規範には正義/正誤/価値の有無、等の価値体系が必要。 しかし、価値体系には根拠が存在しない。 でも、それでも行動規範は必要だから、その根拠を人工的に?設定した。 根拠の例として、神、真理、正義、世間。 行動規範の根拠が「ありもしないもの」と言う意味で、「幻想」。 (此処迄が「物語論批判」から) あと、これは何処に書いてあったか忘れてしまったのですが、 「本能が壊れた」と言っても、無くなった訳ではなく、「断片」は残存している。 切れ切れの本能による行動も出て来る訳だから、難しい、、、とか。 だから、 >それでも自然の力がひとに残されているかどうか」 これは「残されている(残っている」と言えます。 では、私の脆弱な理解でブラジュロンヌ様の見解に向かってみます。 >その共通の知性が どこまで妥当であるのか  >これは ひとにはまったく分からないということになりませんか? これは、文化の多様性から、 異なる文化の人間が出会った時に、反発したりすり合わせたり、の段階で気付けるかと思うのですが、いかがでしょうか? >つまり世の流れにうまく乗ったものが勝ちであり 世の流れが一つではないから。 文化に依って流れは幾筋もあるから。 だからおそらく、異なる流れ(異文化)と衝突しない限り、本能か?文化か?の判断はつかないのではないでしょうか? 異文化との共通点は「本能(の断片)」。 相違点は「文化」と判断出来ると思うのですが、いかがでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ でも、それでも行動規範は必要だから、その根拠を人工的に?設定した。 / 根拠の例として、神、真理、正義、世間。  ☆ ですからここでも 真理ないし神は 人間には表象し得ぬけれども 自然本性に宿るというかたちで想定されます。そういう違いが出てきます。  《人工的に?設定する》というようにこしらえるのではなく 自然をめぐってしかも超自然として そのほかの選択肢はなかろうという共通の了解のもとに 想定されうるととらえます。つまり想定します。  この神は 無神と呼ぼうと何と呼ぼうとかまわないのですが 無根拠の根拠として 大きくは《自然つまり 非知性・非思考》だと受けとめられているという見方になるはずなのです。《文化》ではないのです。  (つまり 個人の信仰のことを言っています。集団の宗教は 文化の要素が多分にある。というよりも ただの文化の産物に過ぎません)。  どうでしょうかね。(まだ読んでいませんので)。

bragelonne
質問者

補足

 ふうーむ。情報が錯綜しているようですね。  yukkinn66 さん ご回答をありがとうございます。  ■ (『性的唯幻論序説』の紹介) 「人間は本能の壊れた動物である」と著者はいう。したがって性交も本能ではできない。  ☆ をわたしは鵜呑みにしました。ところが  ★ 「本能が壊れた」と言っても、無くなった訳ではなく、「断片」は残存している。 / 切れ切れの本能による行動も出て来る訳だから、難しい、、、とか。  ☆ とか。  一番の問題は つぎにあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >その共通の知性が どこまで妥当であるのか     >これは ひとにはまったく分からないということになりませんか?   これは、文化の多様性から、   異なる文化の人間が出会った時に、反発したりすり合わせたり、の段階で気付けるかと思うのですが、いかがでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《反発したりすり合わせたり》することができるのは 文化以前の自然本性 つまりそれの人類としての普遍性 によると思うのです。言いかえると 文化のみの場合は たしかにそうであっても互いに比較対照させることはできるでしょうが どちらがよいかとかの判断は まったくおのおのバラバラなのだと考えます。まったく互いの間では決まらないという意味です。  自然本性には 良心あるいは信教や表現等々の自由があります。本能でなくても つまり本能が壊れていても 人間の自然として じんるいに共通であると 証明の要らない公理として 捉えられていると言えるはずです。  ちなみに  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  本能=行動規範です。  一般動物の場合、置かれた環境内で受けた刺激への反応/対応はこの本能(行動規範)によって規定されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ については 動物の持つ本能は 同じ刺激に対してただひとつの反応があり それは決まっているということだと考えます。大きな行動類型として捉えるなら 選択肢がないのが 本能であると。ヒトも 食事や排泄は ほぼ本能に近いようにも思えます。ほかの選択肢はないようですから。  さて  ★ 異文化との共通点は「本能(の断片)」。  ☆ これは きちんと確認しなければならないところです。  ○ 《文化》は 非自然であり 無意識をさえ含んだ広義の知性が 自然の力を借りずに築き上げたものです。本能は壊れているゆえ。  ○ その文化が時と所にしたがっていくつかある。その異文化との共通点が どうして みづからは非自然によって成っているのに 自然としての本能の断片にあるとなるのでしょう?  ○ もし上の命題が そのとおりだとすれば その《文化》は 人間の自然の力と知性としての人為の力のあい合わさった力の産物だとなります。  ☆ これはどうでしょう?  つまり もしそれでよいとすれば つぎの命題に変更が必要になると考えられます。  ◆ (【Q:性的唯幻論について】No.2補足欄) ~~~~~~~~  性差別も性的役割分担も結局は一つに帰結する→「女の肉体の商品化」  何故女の肉体は商品化されたのか?  何故男の肉体は商品化されなかったのか?  女の肉体の商品化は人類の文化の発生とともに始まった。  人類文化成立の不可欠の一条件が「女の肉体の商品化」。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 文化が 《文化および自然》から成るのなら 《女の商品化》という人間知性の発明のみを 世界の説明のための第一位の内容とすることは 理解できない。  そもそも《商品化》じたいにも 使用価値という自然が含まれている。文化のみという前提はまちがいだと考えられます。  ★ だからおそらく、異なる流れ(異文化)と衝突しない限り、本能か?文化か?の判断はつかないのではないでしょうか?  ☆ 文化が 《文化および自然》から成るとすれば 《本能か? 文化か? の判断は つく》と思われます。《異なる流れ(異文化)と衝突》したとしても 判断は おおよそ普遍的につくと考えられます。自然本性の共通性からです。

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