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学生運動って何でおきたの?

 今の学生からしたら60年代の学生運動って意味解りません  どうして、あれだけの暴動がおきてしまったのでしょうか?

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

日本の運命を左右するほどのことがあったから です。 それは、日本が米国と安保条約を締結しようと したため、起こりました。 当時は、米ソ冷戦の時代で、世界の主要国は 殆どが、米国か、ソ連、どちらかにつかねばならない 状況でした。 そんで日本は米国につくことにしたのです。 まさに日本の命運を決める事件でした。 それに学生が反対しました。 これではソ連を敵に回すことになる。 米ソ戦争に巻き込まれる。 何で、日本をひどい眼に合わせた米国に与するのだ。 等々です。 当時の学生は、今の学生と違って、元気があったようです。 それが良いか悪いか、は別ですが。 しかし、結局政府の判断は正しかった、ということです。

その他の回答 (7)

回答No.7

 戦争に参加できなかった人たちの運動でしょうね。  また、その後には[団塊の世代になれなかった」人 たちの運動も少々あったのでは?  いずれにしても、『戦争』に行って、イワユル「熱く」 生きた人たちへのオマージュ的な運動だったような。  『戦争』が何か『変革』を起こしたのなら、自分たちにも 『変革』『革命』が起こせるはずだと、信じた運動なのでは?  まあ、実際に第二次世界大戦に従軍した人たちは 参加していない運動なんでしょうね。  それから、学生運動はどうなったのか?  「東大安田講堂」が一つの頂点なら?  エログロ路線に行ったり、社会の超エリートになって もっと実際的に主張できる立場になろうとしたり、 「俺も昔は熱かった」という一般人になったり、 過激な活動で刑務所に行ったり、されたんでしょうね。  その運動は全国規模でしたから、若い人では中学生の 頃から参加されていた人たちもいたと聞きます。  何かのムーブメントを起こしたい、何かを変えたい。  でも、具体的なものは見えなかった、運動なのでは?  ジレンマ運動だったのでは?

noname#29210
noname#29210
回答No.6

あの当時はああいう事をするのがカッコイイと思われていたんだと思います。学生運動をしていたほとんどの人は企業に就職し、普通の人になりました。年をとった運動家は過去を振り返って、「あの頃は私も若かったもんで・・・」と照れ笑いをしています。

  • Ae610
  • ベストアンサー率25% (385/1500)
回答No.5

直接の回答には成り得ませんが・・・、 もし興味があり、調べられる意志があるようでしたら、図書館にでも出向いて、例えば下記書籍 「知性の叛乱」山本義隆著(前衛社) (現在は絶版!) 辺りを読んでみては如何でしょうか・・・? (安保当時の日本の学生の思想・考えなどを知る事が出来るかとは思います。ただ本文の書き方・表現はとても難解ですが・・・)

  • ownKO
  • ベストアンサー率13% (2/15)
回答No.4

私の解釈では、頭でっかちの暇潰しです。 本当に貧しくて苦しかった若者は、そもそも学生になれませんでしたから。

回答No.3

第二次世界大戦が終わったのが1945年。その後、GHQが52年まで日本を統治していました。日本が再度、独立国として認められるのは52年4月の平和条約発効によりますから、それまでは米国(正式には連合国軍)の統治下にあったのです。 この時期は、憲法や法律の改正の他、農地解放や女性の権利尊重といった社会変革も行われ、また様々な国との条約締結を行うなど、まさに再度、一から日本国のあり方を決めていった時代と言えるでしょう。 そうした中で、GHQの方針で労働組合の保護も行われたことから、民主主義の名のもと社会主義・共産主義思想も急速に取り入れられました。 しかし、その時期、日本の政府は、51年に結んだ日米安保条約などにより米国の戦略下での日本の枠組みを進めていました。それに対してイデオロギー的な問題から、社会主義者や共産主義者は米国重視の政策に反対を唱えました。 そうした人たちは、大学生や高校生、中学生にまでそうした考えを伝え、反対活動に動員していきました。 そうした流れが60年の安保条約改定(当時10年ごとの改訂が必要)を控えて58年頃から反対活動は激烈となり、社会党、共産党、各労働組合、そして学生団体などがそれぞれ個別に活動した(横の協力はあまりなかった模様)結果、当時のアイゼンハワー大統領を追い返し、岸内閣を退陣させました。 特に全共闘や赤軍派など、学生の過激な活動が目立ちました。 そうした背景には、戦後15年近く経ち、直接的な戦争体験のない世代が学生となっていたことがあると思います。 国のあり方が定まらない中で、自分たちが社会を変えていくという使命感や、当時進歩的であると思われた共産主義・社会主義などの思想への傾倒、そして高度経済成長を受け少し豊かになりつつある社会の中である種刺激を求めたと言うこともあったと思われます。 また、シベリア抑留者などの中で思想的な教育を受けた者が復員後、教職やマスコミ、歴史学、法律学などの職種に率先して就き、社会へ影響を与えていったことも大きいと考えられます。 確かに当時の政府は、今と違い前時代的な、強権発動的対応をとり、それが火に油を注いだことは否めません。 しかし、まだ日本の国をどのように進めていくのか不確定な部分があった時代ですから、政府と国内諸団体がイデオロギーを持って争った思想内戦でした。 また、共産党、社会党にはそれぞれソ連、中国(北朝鮮)が物資・思想両面で援助していましたから、米国を後ろ盾にした政府との代理戦争であったとも言えます。 学生達は、そうした国や政党、組合など大人の動きに動かされ、組織され、最後には過激な行動で各団体からも見放されて、70年代安保時には赤軍派の暴走につながっていきました。

  • tadagenji
  • ベストアンサー率23% (508/2193)
回答No.2

最初は60年安保改定に反対した運動でした。 日本がサンフランシスコ条約に調印して安保条約をむすんだのが50年です。   そのころ大学では、サヨク的教授ほとんどで彼らが学生を教えていたから、文系の学生の大半がサヨク思想を持つようになる土壌が作られてた。   共産主義社会に夢見て反米になり安保改定に反対運動を繰り広げていたのですが、63年ごろから学費値上げ反対にスローガンが変化して全国的になってきた。 数が多くなると意見の相違も多くなり、セクト別に活動するようになってきたあげく、武力革命を目指したものが赤軍といわれるようになった。 その運動中に居た者たちも就職すると体制側に変身して現在、団塊の世代の頭部分になってリタイアしています。 私もそうですが、あのころ山手線の砂利を警察隊に投げたり、羽田で米国特使の到着の妨害をして楽しんでた面もないとは言い切れない。

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6342)
回答No.1

あの頃は、日本が貧しくみんな必死で生きていました。努力しているのに報われないと権力に反抗的になるんです。 いまの日本は不況といっても当時の貧しさとは比べ物になりません。 大学生はリッチです。遊びも当時と比べたら種類が豊富で、麻雀など今では、やる人が激減しました。あの頃は麻雀とパチンコしかありませんでした。パチンコも当時は一個一個穴に入れて指で打っていました。 青春を謳歌できる現在から見ると学生運動なんて馬鹿だなあと思いますが、あの頃は若者の不満のはけ口として必死でやってました。

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