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愛は悪なのか?
皆さんこんにちは。 あるサイトに 「愛とは差別である。人は愛しいものしか愛せない。」 という格言がでていました。 そういえば、イケメンは女性から愛をもらえても、 僕らのようなブサイクには愛はくれません。 もらえないものにとっては、愛というものは何の 意味も成さないと思います。 それに差別は悪い事だと僕は思っています。 と、いうことで、愛=差別であれば差別=悪と単純に 考えて、愛=悪も成り立ちますか? よろしくお願いいたします。
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- ENERGEIA
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たとえば、良い悪い≒善悪 を、定義も出来ないまま述べている者は 差別も区別も出来ずにいる。つまり愛がないわけだから、自然と淘汰されるでしょう。
ひと(だけではなく生物全般も)は良いものを良くないものと差別し、良いものを愛します。その作用が進化になり、今の人間があり、現代の進んだ文化があります。そういう意味では愛は善です。差別によって不利になり悪と判断するものは差別によって淘汰される良くないものに限られます。そういう意味で差別は必然だと言うことも出来ます。 現代の平等倫理観は悪平等として世界全体をを貶めているということもいえると思います。 ご参考まで。
- kumatarouu
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すみません、少し気になったもので。 あなたが仰る、女性から貰う愛というのについてです。 例えば、あなたが屋内からでるときドアを支えていてくれたのが女性であるとします。 それは愛ではないのでしょうか? あなたのお母様があなたのために食事をつくってくださる。それも女性からの愛ではないですか? 愛は何も、もてるもてないの話ではないはずです。 たしかに、皆々様に平等にいかなる時もドアを次の方のために支える人というのはいないと思います。 それを、差別といい、差別が悪ならば愛も絶対的平等でなくては悪でしょう。
- cyototu
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勿論、愛は悪です。これは私のような凡人が言っているわけでは在りません。お釈迦様が言いました、全ての悪の根源は執着にある、と。煩悩は執着から生まれます。ですから、お釈迦様は、執着を捨てよ、と教えているのです。さて、質問者さん、執着の権化、現人神、あるいは、執着を首に架けて歩いているような典型的な振るまいって、なんだと思いますか。それは愛ですね。愛は執着そのものですね。 したがって、愛=差別が愛の本質では在りません。愛=執着です。だから愛は悪なのですね。 このお釈迦様の尊いお言葉とは反対に、愛こそが幸せの根源であると言っている方もいらっしゃったようです。人間の面白さは、同じ前提で完全に反対な結論を引き出してみせるところにあるようですね。 愛に執着し、不幸のどん底に落ちれ行く不運なことのないように、その方が目覚めますようにと、お釈迦様が祈って下さったようです。アーメン、じゃなかった、合掌。 折角等式が出て来たのですから、ここでも数学用語を使って上の事実を表現してみましょう。数学の専門用語で言うと「アーメンは合掌と直交している」、あるは、「アーメンと合掌の内積はゼロである」と言います。
- frau
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「愛とは差別である。人は愛しいものしか愛せない。」 これは的を得ているかもしれません。同時にアイロニーとして愛に対する定義を問いかけていると思うのです。 >「差別=悪」 イケメンに対し愛情をもつ人は悪くはない。その人の嗜好ですからどうしようもない。ですが自分とイケメンとを比較し、自分はもらえないことに差を感じることも「差別」です。そこに自己卑下があります。それは「悪」です(といっては大袈裟ですが)。 人はやはり美しいものに魅かれるものです。人類を永続させるというDNAの指令があるからです。仕方ない、それも自然の摂理です。でも美しいものは形だけじゃないという人の理知はDNA以上のものでしょう。それも同時に継承されていますが、あまり偏った外観に価値を重視する趣味は、どちらかというと本能的な人なのだと思うのです。 イケメンばかり得をするのはしゃくだが、それでも自分も他の美しいものを負けないくらいもっている。でも羨望の対象と自分との差別(ではなく差異というべき)をも許すとき、愛は成立します。相手への愛、自分への愛です。 愛と欲望について回答がありますね。 「愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。 欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである」 ~エーリッヒ・フロム このように愛と欲望は違います。 イケメンを好きな女性が、たとえば顔にコンプレックスをもっていてその代償のために美しいものを選ぶというのであればそれは「欲望」です。ですが、イケメンのありのままの個性や人格を結果的に好きになるのならそれは「愛」でしょう。美人は三日で飽きるというように、三日経てばそれが愛なのかどうかわかりますが(笑) イケメンを好きな人をあなたが好きになり、それは欲望だということが分かってて、でも自分はその女性に抱いているものが愛だと分かっているのなら切ないものがありますが、それでも愛し続けるのならそれも愛なのです。でもご質問者様は世の中がそういう納得のいかないほうに偏っているということがご不満なのでは?まぁそれは私にもありますよ。美人の方が得するってね。でも歳の功なのか、自分が成長したのかはわかりませんが、そういう不満ていつかどうでもよくなる日がきますよ。たかだか物質的なもの。それだけで人は愛を感じませんし、えてしてそういう生き物だと私は思ってますし。だからといって汝の隣人(イケメン)を愛せよ、というつもりもありません。
- mintarou1
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. No5です。回答へのお礼が、削除されていますが・・・・・ 僕の言った趣旨が充分理解されていないようなので、補足説明します。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5438150.html ここのスレッドで私が言いたかったのは、前後を読んでいただければ分かると思いますが。 rin00077 さんが、ここのNo6で、「欲」と言う言葉に対して 人間に限らず生物は皆自己主張をする物体であり、それなりの欲を持っていると考えられます。植物でも、カビでも生存争いは熾烈です。 無生物はどうでしょうか。 高い山は周囲へ崩れることでまわりの自然に影響をおよぼします。位置エネルギーの優位ということでしょうか。 巨大赤色恒星は末期の膨張で周囲の矮星群を飲み込んでいきます。これもエネルギー優位の自己主張と取れないこともないでしょう。 欲は無生物にもありそうです。 と言うことで、無生物にも欲があるとしている発言です。 それに対し、「欲」について、辞書を引いたほうがいいと、言っているのです。 rin00077 の過去の発言(例えば、人間は偽善者か?)でも、言葉の意味を自己解釈しているので、危うさを感じましたので、もっと、言葉の意味をちゃんと確認して、発言したほうがいいと言っているのです。 哲学では、言葉を使って、思考を深めていきます。だから、言葉の意味をしっかり把握しないと正しい推論は、とてもおぼつかないのです。 そんな意味で、rin00077 さんは、言葉の定義をすることを軽く見ているので、その、態度の危うさを、心配しての発言です。 ※後半では、他の方も「定義」に必要性を強調しているでしょう。 今回の質問も、言葉の定義をちゃんとすれば、質問する以前にin00077 さんの方で答えが見えてくる問題なのですから・・ .
- tyr134
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「愛」という言葉、「悪」という言葉には様々な定義付けが出来、勧善懲悪的な二項対立で割り切れるモノでは無いと思いますよ。 例えば、「愛」についてWikiから拾ってみると、、、 ===以下引用=== ・日常用語的には感情の一種 ・(男女間の)恋愛 ・実際には「愛」には自己愛・家族愛・隣人愛なども含まれる ・特定の物事に対する愛着(愛好) ・愛や愛に基づいた行為が理想とされることはあるが、時にはある個人または集団の不利益の根源ともなる ・平安文学では「愛(かな)し」と読ませ、いとおしみ離れ難い心境をあらわす etc,,, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B#.E5.AE.9A.E7.BE.A9 ===以上=== 次に「悪」ですが、 ===引用=== ・悪は善と対比される概念である。 ・古代中国における「悪」概念は、「命令・規則・誠治に従わないもの」に対する価値評価 ・善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もあるため、人間は善であり、かつ悪であるという両立した存在であると見なせる ・キリスト教では七つの大罪が有名であるし、イスラム教、ユダヤ教では戒律の存在によってそれぞれにおける悪の存在を遠ざけているともいえる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA ===以上=== Wikiのような、大衆的なネット辞典で調べただけでもこれだけの定義や見解が提示されてます。 「愛憎」という熟語がしめすように、愛と憎は同居することもあります。 さらに、ギリシア哲学なんかだと、アガペー・エロス・フィリアなど、現代日本では「愛」と一言で表わせる事を別々の概念に分けたりします。(それぞれは、「慈愛」「性愛」「友愛」と訳されるのが一般的です) とまぁ、「愛」という言葉には様々な定義があり、その定義の仕方次第で「善」にも「悪」になりますね。 なので、ご質問にある名言について三段論法を使って分析してみると、、 1・愛とは差別である 2・差別とは、人が愛せないものを仕分けすることである 3・よって、人は愛するものしか愛せない って、感じでしょうかね。 ではでは、参考になれば幸いです。
- karelcapek
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言葉のトリックです。 カラスは黒である。黒は色である。 だからカラス=色である。 1は数字である。2も数字である。 だから1=2である。 言葉遊びはこれくらいにしておきます。 差別というのは、ネガティブなイメージが強いですけど、本来悪い意味ではありません。 「わが社は自社製品で、他の競合製品との差別化を図る」 のように差別自体には悪い意味はありません。 区別や差異と似た言葉です。 「不当な差別」という言葉があるでしょう。 悪い差別もあるが、そうではない差別もあるということですね。
こんにちは。 「愛とは差別である。人は愛しいものしか愛せない。」 そんな格言があったのですね。知りませんでした。ですが、 イケメンだから女性からもらえているものが「愛」だとは限りません。お金持ちだからもらえるとも限らないので、「お金で愛は買えない」などと言いますね。 同時に、ブサイクだから貧乏だから「愛」がもらえないとは限りませんよね。 >差別は悪い事だと僕は思っています。 >愛=差別であれば差別=悪と単純に考えて、愛=悪も成り立ちますか? そうおっしゃりたいお気持ち、わからないではないですが、よく考え直してみれば、人間の社会の発展とは、差別あってこそ、という面も現実的に大きいのですね。 おそらく「愛」も「差別」も、それそのものには、もともと良い悪いというのはないのかもしれませんよ。 たとえば、親が、わが子を慈しむのが、自分の犠牲を厭わない「愛」そのものであっても、それが、自分の子でないなら、そうはいかないのであれば、その「愛」も、いたって限定的なものであるということになります。 御質問者さまがブサイクさんであっても、お顔以外の何かの魅力に引きつけられて愛されるなら、お相手は、その、何かの魅力において愛しているのだから、イケ面であることにおいて愛しているのと、なんの違いがあるのでしょうか。 でも、御質問者さんは、たぶん、そのお相手を「差別しているろう、悪である」とは、おっしゃりますまい。 イケ面、お金持ち、何かの魅力、自分の子か否か、これら条件が欠けたら愛されないのであれば、限定的であるという、いずれも共通していることですね。 その条件的なもののみを愛するのであれば、「愛着」とか、仏教でいうような「執着」と呼ぶ方が、ふさわしいかもしれません。 辞書を見てみたら、親子や男女間のものから、スケール大きく人類全体のものまで、「愛」にもいろいろあることが説明されているなかに、すでに「差別」が含まれてしまっているみたいなです。 愛とは、「愛さずにいられない」こと、そういう性質のものだと思います。 >もらえないものにとっては、愛というものは何の意味も成さないと思います。 では、与える者になれば、どうでしょうか。それでも、やはり何の意味も成さないでしょうか。 「愛」に参加することはできるのでは。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>愛=悪も成り立ちますか? 差別自体は悪いことじゃないんです。 同じなのに、差をつけるってのがよろしくないことなんです。 例えばあなたはスーパーで買い物をして精算をしようとした。 レジが5つ空いていて、どの店員も客まちしていたとする。 急いでいなかったらどのレジにもっていきます? 1番レジ、おばちゃん 忙しく袋を整理している。 2番レジ、おばちゃん 太っていてぶすっとしている、目があったが「なに?はやくもってきなよ」って表情。 3番レジ 若いがメガネをかけて髪をしばっていて、きつそうな印象。 4番レジ 若くてかわいいがオドオドしていて、研修生って札をぶらさげている。 5番レジ 若くて活発そうな人、目があってにこっと笑顔で「どうぞ」って会釈をした。 さーーー あなたはどのレジに行きます? 5番レジですよね。 あなたが並んで精算していると、後ろに何人も男女が並ぶ。 他のレジは空いているのに。 差別でしょうか? 精算以外のオプションの恩恵を得ているわけですよね。 さわやかに精算をするひと時を同額を払いながら追加で得られる。 このオプションを選択することは、差別ではないです。区別です。 もう一度いうと、全く同じなのに、待遇に差をつけるってのが、差別。 お年玉で小学生に3千円、高校生に5千円と、上げる額に差をつけるってのは、差別ではないです。 適切と思える額をそれぞれに上げるってのは、適切な区別をしているわけで、逆にもし同額だったら、高校生が不平をいいます。 不平が起らないように、額に差をつけるってのは、適切は対応。