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愛は悪なのか?
皆さんこんにちは。 あるサイトに 「愛とは差別である。人は愛しいものしか愛せない。」 という格言がでていました。 そういえば、イケメンは女性から愛をもらえても、 僕らのようなブサイクには愛はくれません。 もらえないものにとっては、愛というものは何の 意味も成さないと思います。 それに差別は悪い事だと僕は思っています。 と、いうことで、愛=差別であれば差別=悪と単純に 考えて、愛=悪も成り立ちますか? よろしくお願いいたします。
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- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「愛」の厳密な定義なしに、それについて議論することは難しい。 愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならない。 そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識=真の自我の目覚め)である。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ご質問者がその愛して欲しい人に価値あると思ってもらって、愛してもらう。 そういうのは愛してくれる人のための愛なのかも知れませんね。 では母はどうか、多くの生物たちのお母さんは自分のために子どもを愛しているとは見えない場合が多いですね。 人間は様々ですが。 ご質問者が愛してもらいたいと思っている人はきっと自分の何かの理由や目的、何かのために、ご質問者を愛するようになるのではないでしょうか。 それもありがたいし、嬉しいし、居心地がいいですね。 そういうのを決して、私も拒絶しないし、否定しません。欲しいです。 だからそういうのを何か愛という、同じ言葉で呼称すると思考が進みませんね。 太陽の光が、無心に地上を照らす。地上にあるものに対して。 太陽が対象を差別も価値評価もしていない。 そんなのがあるでしょうか。人が愛ということばで指示するのはこういうことかしら。 それならご質問者も、そういう太陽になったらいかがでしょう。 誰かに依拠する必要はないと存じますが。 わたしですか?このことを考えながら、ご質問者と同じように多くの人に憎まれないように、そして愛されるように努力しております。 ここのサイトで、≪正義は勝つ。なのか勝つから正義なのか。≫があり、類似のことを書いておきました。ご参考になれば。
- MARUKADIRI
- ベストアンサー率34% (71/203)
しょせん、愛とは道具でしかなく、感情を弄び、嫉妬を掻き立て、憎悪を孕んだものでしかない。 しかしながら、愛とは道具であり、感情を高ぶらせ、憧憬を与え、幸福をもたらすものである。 悪いのはいつも扱う人間のほうだ、と言う事ですね。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。 愛は単なる道具であり、それを扱う人間によって いかほどにも変わるという事ですね。 ぜひ参考にさせていただきます!
- kannzou001
- ベストアンサー率22% (49/216)
仮に、愛=差別と言う定義が正しければ、愛=悪と言えますでしょうが、そもそもその定義が誤ってると思います。 どちらかと言うと 愛=差別ではなく 愛=区別と言ったほうが、適切かと思います。 区別と差別はどう違うかなどの議論は置いておいて、 区別する事は悪ではありません。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。差別でなく区別という事ですか。 区別は確かに悪ではないですよね。 ぜひ参考にさせていただきます!
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.3です >>> そういえば、イケメンは女性から愛をもらえても、 僕らのようなブサイクには愛はくれません。 <<< (知的に評価可能で、かつ個人的な価値観が関与する)容姿だけを言うのであれば、私の目から見て、「何でこないなブッチャイクな奴が、こないな美人と結婚できるんや!!」といったパターンは、数限りなく見てきています。 男女の視点の違いというのか、個人的な価値観の差というのか、女性が女性を評価する目と、男性が女性を評価する目とは、自ずから異なるようです。そういった価値観の根底にあるものを理解すると、なるほど、それほど美しくもないような人々の言動の端々にも、美的感覚をくすぐられる行為が感じ取られることがあると気づきました。 格言を含め、知的に共有可能な事項は、多くの人々に揉まれながら成立してきた過程にて、真実を含んでいるのも事実でしょう。 しかしながら、そういったことの理由や背景(知)を理解した上で、さらに、その言葉の向こう側へと向かおうとする思い・想い(情)を感じ取ろうとすることが、物事を単純化して(多者択一的に)評価しようとすることを弱める方向へと自身を導くのだと思います。 そういった知と情との相互のありようこそが、哲学(知を愛する)になるでしょうから、「愛は悪」という一方的かつ単純な知的理解に止まることなく、いろいろと考えてみられることをお勧めします。 あと、「差別」ですが、「男女という差異」を乗り越えて人々は結ばれます。些細なことを「差別」だと認識しているようでは、そういった「男女の差異」すら乗り越えることはできないでしょう。 差別だとか差異だとかいった、「知的な」障壁を乗り越えることができたとき、おそらく、(情としての)愛の本質の一面を垣間見ることができるのかも知れません。
- IdeaMaster
- ベストアンサー率11% (3/26)
訂正: 誤: というわけで、愛≠悪 ではないと出ました。。。 正: というわけで、愛=悪 ではないと出ました。。。
- IdeaMaster
- ベストアンサー率11% (3/26)
しかし、好意を受け取る(受け入れる) という言葉があるように、やはり愛を受け取る ということは、やはりあるのかもしれません。 というわけで、愛≠悪 ではないと出ました。。。 それから、質の差を認識(違いを認識)するするということは、単なる差別ではないでしょう。むしろ認識する行為は善(愛)であるということが出来るでしょう。 というわけで、単なる差別=悪 かも知れないけど、違いの認識=愛 と言えるかも知れません。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、愛は悪ではないのですね。 確かに単なる差別、とは一概に言えないかも しれませんね。 ぜひ参考にさせていただきます!
- IdeaMaster
- ベストアンサー率11% (3/26)
もし、人間の外観と内的な美しさが相応するものであるとすれば、好意をもたれる人は特別に差別されているというわけではないでしょう。 しかし、ほとんどの人間は傲慢な人間を美しいと感じるのだと思います。真の内的美しさが外側に反映されている人は、ほとんどいないのかもしれません。 本題: 例えばある人を美しいと思えば、それはその人を認めていることであり、人を認めることが愛であるとすれば、認められている人は、その自分を認めてくれている人を見て、「自分を認めているようだ」と思うだけでしょう。つまり、言い換えれば「愛(好意)をもって自分を見てくれているようだ」と思うだけでしょう。 つまり、その人に愛があることを認識してるだけであり、自分に愛情を持って接してくれている というだけのことでしょう。 その相手に愛がある ということが解った というだけのことでしょう。 だから、受け取る受け取らない(もらう 貰わない)という、物質的な概念はあてはまらない。 と出ました。。。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。片一方だけの愛ということですね。 ぜひ参考にさせていただきます!
- nakaotatsu
- ベストアンサー率12% (1/8)
「愛とは、愛するとは」 「愛するとは」 私達は地球という宇宙の大自然界の中で毎日、太陽や雨風や山河や海や空気や水等の日々の恵みの中で創造主(父)の庭園(王宮)で暮らさせて頂いています。空気が無かったら5分間と生きられませんし、水が無かったら数日の命です。我々は大自然から、厖大な恩恵を受けて、育まれているのです。これは創造主(父)の万物、万人への愛です。 太陽は貧しい者にも富める者にも善人にも悪人にも万人に等しく光や熱を与えています。偏る事が有りません。太陽は創造主(父)の愛の象徴です。我々人間の愛とは違います。私達は所有欲や独占欲や偏愛を愛と言っていますが本当の愛ではありません。本来の宇宙的な愛は尊敬、信頼、理解する事であって、偽りの愛ではありません。 愛とは自分を愛するように他人や万物を理解し愛する事であって、丁度、母親が自分の乳飲み子の我が子を愛するようにするのが本当の愛です。母親は自分の乳飲み子が風邪をひいたりして熱があったりすると2~3日間、夜も寝ないで看病をしますが、これが本当の無私の子供に対する愛であるのです。 この事が真実の愛する事であって、偽りの所有欲の愛ではありません。本当の愛は創造主(父)の愛であって万人や万物を偏愛する事無く、無私で慈悲心と奉仕と感謝の誠をもって実践するのが本当の愛です。愛するとは自分を愛するように他人や万物を愛する事で無私の愛であって報酬を求めません。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。 報酬を求めない愛が本当の愛ということですね。 確かに、それはそうかもしれませんね。 ぜひ参考にさせていただきます!
- gigamax2
- ベストアンサー率27% (170/628)
こんばんは。 この問題は各々の愛の定義により解釈はまったく違ってくるものと言えます ね。貴方はその格言に対してどのような感覚を抱いたのでしょう? 私に言わせれば本来愛は全ての受容です。その中に世間で言うところの恋 愛が含まれると解釈しています。 それを踏まえるならば、愛に善悪は存在しません。立場により各々が善悪を 投入し判断している・・・が現状なのではないでしょうか。 付け加えるに・・・愛は貰うものでは無く与えるものと思っています。”与えよ、 しからば与えられん”とはこれこそ格言でしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 この格言は、あるサイトからの引用なのですが そこにはひねくれた格言ばかっり集めているのですね。 ちょっと気になったので質問してみました。 ぜひ参考にさせていただきます!
お礼
回答ありがとうございます。 はい。僕もできるだけ人に憎まれないように したいのですが、なかなか難しいですねー いつも、回答ありがとうございます。 ぜひ参考にさせていただきます!