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農耕の神クロノス=サトゥルヌス
このサイトにおける利用者の質問や補足に対して、例えばある特定の利用者が、 「これがオレの慈悲だ、受け取れ!」とばかりに慈悲の放射もどき(つまり欺瞞誤謬)の文章と雰囲気を相手に放ち、相手が「意味が分かりません、すいません」と当然の、まともな返答をした場合、「ええ、なんでおれの慈悲光を「受け入れ」なかったんだ(※つまり受け入れることで発生する慈悲とはまったく性質が違う。主張という意味では、「ぎゃく」。)と逆上し、今度は★や☆や○などの記号を用いて、欺瞞誤謬で相手をなんとか取り込もうとし(真実を言えば相手は理解し、誤謬から解かれて解放されるので、嘘でなければ相手を捕らえることが出来ない。)、それでも相手が「すいません、意味が分かりません」あるいは「えーと、それって少し違うのでは...」などと「反抗、反論(嘘偽りに不快感を覚え、反抗するのは当たり前)されると、今度は「おまえはオレより下で、おれは人を救う側もしくは教える側なんだよ」という意味を示す「おぎないましょう」とか、「せつめいしよう。」などという言葉を上から目線で使用し、相手を無智者として宣告し、裁き、貶めている. つまり自分の主張の賛同者にさせる(相手を取り込む、喰らう)のが無理だと判断すると、最終的に排除するか、やんわりと蔑む。 ◇こういう人も、いるという認識で間違いないでしょうか. しかし、違う可能性もあれば指摘してください また、時間の神クロノス(Chronos)ではなく、農耕の神のクロノス(Kronos)はわが子を喰らうサトゥルヌスと見て間違いないでしょうか. http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218904312 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8E%E3%82%B9_(%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E7%A5%9E) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E5%AD%90%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%82%89%E3%81%86%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%82%B9 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1350288.html そして、自分の目上もしくは父親を殺してきたからこそ、発生する恐怖心、猜疑心により、生まれてくる子供や新しく来た目下の人間を喰らっている とみて間違いないでしょうか.
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- Y Y(@yy8yy8az)
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私の心を暖かぁ~くしてくれた、SOLAR_RAYさんへ。 ヒステリーが、何で良心なのか分かりませんが、なぜ、どうしてと、ここで問うことをやめることにしました。 哲学カテで回答を寄せるような頭でないことは十分承知していましたが、そうすることで得る事もあるのではないかと、淡い期待を持っていたのが間違っていたかも。 全く言葉を介しての交流は、難しいですね。誤解、誤解、誤解。 私自身もです。 もういやになりました。 SOLAR_REYさんのやさしさをいただいて、さよならします。 ありがとうございました。 bragelonneさん、ごめん。何をどう、ご返事したらいいのか全く分からなくて、答えられませんでした。その程度の頭かと思って、勘弁してください。bragelonneさん、ありがとうございまいた。 owlsjpさんもお元気で。 さよなら。
No.3で、自分が「自分は自分として存在する」ことを欲している人について取り上げたのは、質問者さんにこれがあるか確かめたかったからです。 これがあれば、自分の回答が参考になる可能性もあると思ったので。 bragelonneさんについては、確かに自分はそう思っていますが、「そう認識すれば良いだけだ」と思っている訳ではないです。 どこかで聞いたような内容ですが、結局は自分が理解しているものしか見えないので、そう見えないならそのままでいいと思います。大事なのは、上記の方向性に自分がいるかということだと思います。 「実感」について言うと、例えばうつ病の人がいたとします。 その人の実感の主なものは「空想」と言っても差し支えないかと思いますが、その空想を持ちつつさらに頑張ったりしたら、自分が壊れてしまうかもしれません。 そうであるなら、一度立ち止まり、その実感を解体すべく何らかの行動をしなくてはならないと思います。もし解体に成功したら、これまでの実感は薄れ、別の実感が増します。このことを「存在」に当てはめると、存在の実感を増すためには、まずこれまでの実感を解体しなければならないことになると思います。 解体できるのは空想で、存在は自分が自分を放棄することが出来るだけだと思います。 あと、自分は存在と自我を区別します。 自分にとって自我という言葉は、自分があると認識することを意味しますが、この自分は本当はないという前提でいます。 だから、自分は自分を放棄しないと言っても、自我に固執するつもりはありません。 自分が理解していることはこのくらいということもあってか、存在の実感があるかと言われれば、よく分からないと言わざるを得ません。 あと一点、「ある」と「ない」について述べさせてください。 とりあえずは「空想」に限定して述べますが、自分が「ある」とするなら、それは現実味を持ちますが、それが使われている素材を見るなら「ある」とは呼べないと思います。それを「ない」とするのは、それから逃げている場合もあると思います。が、別の種類の「ない」もあると思います。 前者の「ない」は相対の片方で、後者の「ない」は停止を意味します。 停止は空想の解体をうながすので、存在にとっては有益なことだと思います。 という反面で、仮に存在からの発現として「ある」としたものは現実になる、という言い方も可能かもしれません。 以上が、No.6に対しての自分の返答のつもりです。
補足
>質問者さんにこれがあるか確かめたかったからです。 ◇で、どうでしたか? >bragelonneさんについては、確かに自分はそう思っていますが ◇この「自分」が、誰を指しているか良くわかりません。回答者さんが自らのことを「自分」と表現しているように見受けられます。 >そう見えないならそのままでいいと思います。大事なのは、上記の方向性に自分がいるかということだと思います。 ◇この「自分」は、第三者を指しているように思えます。 というわけですので、非常に分かりにくいので、以下全文を、「私」と「自分」を区別し、表記し直して再度投稿してください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4です。 ★ あなたは本当に存在しているのですか? ☆ どこが分からないとか どこがおかしいとか言わないと 禅問答になるでしょう。 あるいは そういう問答を欲しているのですか? 補足要求です。
お礼
補足: >☆ どこが分からないとか どこがおかしいとか言わないと 禅問答になるでしょう。 ◇禅問答になるとかならないとかではない。屁理屈を言わないで答えよ。
補足
お前は本当に存在しているのか?
- owlsjp
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iti42857さんへ 「自分は自分として存在する」ことを欲している これが、答えなんですね。そういう人だと認識すれば良いだけだと。 自分では「私は私として存在する」と言っています。それも自分が存在すると「実感」したことがないからでしょうか...誰かの真似して 私は私である としている。結局は原点に立ち戻り、自分の勘違い、欺瞞を見直すことから始めなければならないということでしょうか... そうでなければ相手できない。
- Y Y(@yy8yy8az)
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owlsjpさん(No.2)さんの回答へ。 「最後の一文については」は、納得です。 「良心」は、理性が判断する良心と、感情面を見ての良心と、違うのでしょうか。 良心って何、と言う意見をもらったことがあります。 私は、理性から見た良心については、考えてみたことがありません。 なんとなく、倫理的、あるいは道徳的視点からの「良心」かなと受け止めているくらいです。 ホントは理詰めで考えてみなくてはと思っているのですが。 正直、体験や知識がそれを考えるには不足しているので、未だ実行できないでいます。 だから、私が使う「良心」は感情面でのものです。 ほら、良心と言う言葉に「かっこ」をつけて、(やさしさとか)って、補足しているでしょ。〔ちょっとkigurumiさんっぽくなってしまった〕 もう、寝ちゃったんだよね。
補足
「感情面での良心」を肯定するなら、ただのヒステリーもそれに含まれるでしょう。もちろん、他者から見て「それが自然と出たならヒステリーもしょうがない」と言えますが、少なくとも本人が言うことではありません。本人がそれを言うならそれは単なる開き直り、いいわけです。 「子供のため」というのは、結局は「自分のため」ということであり、自分の為に子供を育てている と真に理解している人を見習いましょう。 「攻撃」云々言っていますが、単に独りの人が「指摘」あるいは「批判」されているのを、多数の人が「攻撃」しているからといって感情面から「攻撃」と認識するのは、止めたほうが良いでしょう。 もしそれを正当化するなら、「自分の感情を守るため」もしくは「今までの自分の価値観を壊したくないから」だということを認識してください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ◇ こういう人も、いるという認識で間違いないでしょうか. ☆ 《こういう人》の側の――心理といったうわべのこころではなく――意志・こころづもり・考え方に関しては 的を射ていません。いませんが その心づもりを相手がおっしゃているように受け取ったとしたのなら そのような現象は起こった。こう言えるでしょう。 そしてそれらの限りで 《こういう人もいるという認識で間違いない》でしょう。 では その当事者ふたりそれぞれにおいて 一方の者の意志と他方の者のそれの受け取り方とのあいだに どんな違いがあって どういうふうに行き違いが生じているのか。この問題が残ります。 これはなかなか一度や二度の対話で説明しきることはむつかしいことです。ここで一度というのは 密度の濃い話し合いとして 二三日つづく対話を想定します。 なぜむつかしいかと言うと 一方の心づもりがその内容とは違って受け取られているとするなら そのあいだの隔たりを埋めるだけでもやっかいだからです。埋めたところで 両者の言い分がそれぞれそのまま認められるといった性質の問題だからです。 それでも説明をしますと こうです。 ひとは しばしば自分のこころに逆らって何かを思ったりそれを実行しようとしたりまた実際におこなったりします。言わば負のこころです。あるいは かんたんにへそ曲がりです。 もしこのへそ曲がりが その過去のものを含めて堆積するかのようにこころに残っていたとすれば それは負のこころですから 無くし得るなら無くしたいというのが ふつうです。 ここで一気に結論に飛びます。一方の人間の心づもりは 特に意識しなくてもまた実際に意図していなくても 結果的にはこの《負のこころとしてのへそ曲がり》を癒そうとするちからがあるということです。なぜなら おのれのこころにおいては すでにそのへそ曲がりがすべて癒やされているからです。 特にそうしようとしなくても 自分と同じように相手もそのこころにおいて過去のへそ曲がりの堆積をじゅうぶんていねいに溶かすようにして処分することができるようにという思いをすでに持っているからです。 このように《へそ曲がりをもとに戻す》という思い この思い――つまり《慈悲の放射もどき》――をもし受け取ったとするなら そしてその意味がこころで分かったという場合には それはあたかも《ひとごろし》のごとくに感じることがあるというのが 最後の結論です。 たしかにへそ曲がりをまっすぐにするということは――癒やしなのですが 突き刺さった矢を抜き取るときのように荒療治になるかも知れないので けっきょく―― 《過去のふるい自分を〈ころす〉》ことになるのですから。 あらゆるひとを――出会うひとを一人残らず――《ころし》て来ましたよ。
補足
あなたは本当に存在しているのですか?
仮に、「自分は自分として存在する」ことを欲している人についてという前提の話ですが、そうであるなら、自分の外からくる(ように思える)影響から自分自身がより自由になることが必要になると思います。 正確に言うならどの影響を選ぶかという問題になるかもしれませんが、ともかく、外からくる(ように思える)影響のせいで自分が不自由な思いをしていると感じるのなら、何か違うと思います。それは当然、外の影響により自由にもなるということになりますが、なぜ違うかと言えば、それが「自分」を外からの影響の産物として規定することにつながるからです。 正確に言うなら、内もそれに該当すると思いますが、この内外の影響から自由になる、正確に言うなら、この内外の影響によらない自分(言葉で言うならこれもまた内になりますが)でいることを欲している人を、自分は「自分は自分として存在する」ことを欲している人と言っています。 これなしに何かをしようとすると、混乱または、相対的に行ったり来たりするはめになると思います。 そうなってくると、自分自身が見たもの(認識とか印象)について、容易に結論出来なくなります。判断した時点ですでに存在が失われているということも有り得るからです。 仮に5年後にも全く同じ認識でいるとしたら、自分は成長していないのだと思います。それくらい、実感をともなう認識は変化すると思います。
- owlsjp
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>質問者さんは、人間はいろんな人がいる、と云うことを分かっていないのではないでしょうか。 ◇いえ、「違いの認識」などでも表明しているように、言葉の通じないごきぶりも多いと認識しています。確かに、人は「皆自分と同じような人だろう」という前提で、他者を見がちですが。 不思議がっているのではなく、自分の見解以外に、違った角度からの見方もあるかなと思って質問したのです。 ◇最後の一文については、自分がそれをしたことで、「自分もやられるのではないだろうか」疑心暗鬼になり、猜疑心が生じ、それで自らの子供をなきものに しようとするのではないか。 という事を言いたかったんですよ。そうであれば、 「例え暴力や腕力でなく、言葉や文章によるものでも、「力づく」であることには違いないから、相手を屈服させるのはその手段を問わず自分のためにも相手のためにも良くないだろう」と結論が出ます。 それから、良心、好ましい心 についてですが、かなりあくどいことをしていても、「良心」にしたがって生きている人も居るし、いつも人に気を使い、悪いことなど何もしていないように見える人が「罪悪感」を持っていることもあります。ですので、自分の尺度で図った自分の「良心」あるいは「好ましい心」に従う、従わない というのは、善悪の度合いとは何も関係ないことになります。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
居ると思います。 質問者さんは、人間はいろんな人がいる、と云うことを分かっていないのではないでしょうか。 推定で六十八億人いるというのですから、居て当たり前。 不思議がることはありません。 “クロノス”に関しては良く分かりませんので、スルーしたいです。
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お礼
私はいつでもここに居ますので、なにかありましたらまた来てください。http://blog.goo.ne.jp/amatsu_kami/2
補足
そうですか、元気が戻ったら、また参加してください。 その時までは、さようなら。