皆さんがおっしゃているように国民党政府が中華民国の首都を重慶に移したからです。ただしあくまで扱いは臨時の移転だったのですが、ここでは便宜上首都として移転されたという表現を用います。
で、なぜ国民党政府が首都を移転しなければならなかったかと言うと、日本軍が南京に侵攻してきたからです。(この時例の”南京大虐殺”が起こったとされています。が、その真偽についてはここでは割愛させていただきます。)当時中華民国の首都は南京でした。少々余談になりますが、これは辛亥革命以来ずっとです。従って清が1912年に滅亡して以来1949年に中華人民共和国が成立するまで北京はどの国の首都でもありませんでした。
ここから先は蛇足かも知れませんが、日中戦争(日支事変)が泥沼化していった原因の一つをここに見ることが出来ます。つまり日本軍が点(都市)を繋ぐ戦略で大陸を侵攻したのに対し、中華民国はどんどん奥地へ(西部)へと隠れ込みかわしました。更には村や町の多くも日本軍が次の地点へ移動すると、それまで親日的であったのが反日的に変わるということがしばしばあったのです。これは面(大陸)で捉えた戦略だったと言えるでしょう。
そうして逃げ込んでいった重慶を爆撃してたたき出そうと考えたわけですが、おそらく重慶を攻略したとしても昆明あたりに移動されて余計戦域が拡大しただけだったはずです。私見かも知れませんが当時の日本軍にそれだけの戦線を維持する力はありませんでした。それは後の大陸打通作戦でも証明されるでしょう。
それからもう一つ、重慶爆撃は日本軍の行った唯一とも言える無差別絨毯爆撃で、零戦(当時は十二試戦)も初めて実戦参加しました。
お礼
「重慶空爆」への御回答ありがとうございました。 日本軍のイメージを一つ膨らませていただきました。