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みんなで殺人の容認
技術の進歩によるメリットとデメリットに関することです。 今、日本中ビュンビュン車が走ってます。それに伴い、交通事故で人がジャンジャン死んでます。これだけ多くの車が走っているのであれば、「人が過ちを犯す」=「運転ミス」をすることは、ほぼ絶対にあると言っていい。それにも関わらず、車が走行することを社会が許すということは、みんなで殺人を容認しているのと同じことだと思います。もちろん、車によって利便性が得られるし、それによって救われる命もあります(救急車など)。しかし、人の命がそれの対価となるのは正しいことだと思いますか。 意見をお聞かせ下さい。
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それ以来、色々と考えたのですが。 自分が死ぬか、自動車が優先か、という選択が問われると思いました。仕方がない、と考える人に確実に予言が当たるといわれる人から、明日、貴方は交通事故で死にます、仕方がありません、と予言されるとします。どうするのでしょうね。仕方がないとあきらめるのでしょうか?私なら、予言者に頼んで、私を殺す車のリストを作ってもらい(第1候補を回避した場合、第2候補に殺される)片っ端から探し出して、車を叩き壊すと思います。また、犠牲が家族の場合には、余計そうだと思います。 死ぬという事が、確率論で語られる事が、元凶かな。誰でも、自分だけはその対象ではない、と考えているから。そして自分に白羽の矢が立った時には、"何で自分なの?何とか他の人にして"、と願うのでしょうね。 人の命、などといわずに、"自分の命"が対価となるのは正しい事か、と問われたら、答えは変わってくるのでしょうね。
モダニズムの時代、80から100年前だ。 道路をすべて地下化しようと言う案が、近代建築家、都市計画家から出た。 地上は、公園と、ピロティ(地上階が無い建物。)のある高層マンションにしよう。地上は人の往来が自由に行われるように、という案だった。 それから100年たったが、道路は地表にむき出しのままだ。 モダニズムは、金に勝利することは無かった。 だが、モダニズム、黄金の60’などといわれているが、それを遥かに超える時代が、現代来ていると俺は感じてる。現代は、そういう時代だ。 諸悪を一掃するチャンスだと思っている。 是非、やっちまおう。 みんなでな!
お礼
そんな計画が100年も前にあったなんて、初めて知りました。この計画を実行するにはかなりのコストがかかりますね。それも含めて技術的に解決されればいいけれど。 「車社会」というシステムそのものに、カオス的側面があり、人間はそれを捉えきれていないのだ思います。だから、問題が表面化しにくく、利益と不利益を天秤にかけるのが難しい。また、劇的に解決する手段も見つからない。 車に関する問題が完全に解決されるのは、カオスを読み解く能力も必要かもしれません。
補足
参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- H-hoko
- ベストアンサー率50% (6/12)
●小学生の頃でしたが 目の前で幼稚園に入る前くらいの 男の子が車に轢かれまして 亡くなりました。 道路の反対側で おかあさんがその子を呼んだので 車に気付かぬまま 道路を渡ってしまった結果でした。 数日後 学校の先生に走っている車を止める方法として 爆薬でモリを道路に打ち込んで 繋がれたワイヤで 運転手が傷つかない最短距離で止める方法を 提案してみました・・・。 先生も車のメーカーも 「道路が破損するから そのアイディアは だめだ。」というものでした。 わたしは 人の命が道路以下として 扱われる現実に愕然としたものです。 以来30年くらい経ちましたけれども わたしの発想で事故を防ごうという研究は 聞いたこともございません・・・。 もし わたしが この社会のリーダー的存在でしたら 間違いなく たとえ道路を破壊してでも ひとりでも多くの人々の命を交通事故から 救う研究と道路の迅速な復旧手法の開発に 取り組み実現させていくと思います。 この交通事故の例以外にも 社会の抱える 胸のいたくなるような問題はたくさんあります。 話題が散漫になるようで 恐縮ですけれども この問題を含めて 社会がいい方向に機能しない原因は 経済というミームが 人間の欲望を不自然に 不必要なまでに増殖させる方向に 誰も意図しないまま 進化してしまっているためだと 考察しております。 現代人のこころの在り方を いまこそ問い直す 時だと痛感いたします・・・。
お礼
実際に犠牲となる人を自分の目で見た人は、その悲惨さが、染みるようにわかるのだと思います。そういう負の感覚、感情が多くの人に欠けている。 結局、今の状況は「臭いものには蓋」という安易な意識が招いているのだから、意識を変える何かをしなければいけないと思う。 ニュースとかで「今日の犠牲者は○○人でした。お名前は○○さん、○○さん・・・」とういふうに知らせれば(映像もあればなおいい、ただし人権に配慮した上で)、毎日のように犠牲者がでているのも少しは実感できるような気がする。(民法じゃ、採算性がないからできないと思うけど) 個々人の感覚とか意識に、継続的に訴えていくことで、意識を変えていくしかないだろうと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- itab
- ベストアンサー率50% (431/861)
安全第一ってことが言われはじめてから100年経ちます。 7月に全国安全週間って行事があって産業社会の中で人命尊重を謳っていますが、これっていうのは昭和初期に始まって、第2次大戦中もずっと続けられていて今に至っています。 変ですよね。人と人とが殺し合う戦争中に人命尊重~安全週間なんて。 でも、道具と火を使い始めた数十万年の人類の歴史の中で、車社会も安全第一って思想もたった100年しか経っていないんですね。 >人の命がそれの対価となるのは正しいことだと思いますか。 そう思ってはいけないと思います。絶対に。 実際にそういう社会である以上、それを受け止めなくてはなりませんし、自らを車社会の中におくことを認めなくてはなりません。 でも、現代ってのがまだまだ未熟だってってことをみんなが認識して、変えていく努力をすることはとても大事なことです。 (実際には努力はされていると思います。少しずつですが) 数百年後の未来から現代をみて、大変な時代だったんだなぁ。危ないことを平気でしていたんだなぁ。 ってことになると私は信じています。そのころには戦争って言葉も古語辞典かなんかにしか入ってなかったりしてね。 質問に対して変かもしれませんが、考えさせられました。ありがとうございました。 多くの回答者の方々のいろいろな意見に対しても。
お礼
>数百年後の未来から現代をみて、大変な時代だったんだなぁ。危ないことを平気でしていたんだなぁ。 ってことになると私は信じています。 逆に、「このままだと今から百年後どうなってしまうか」という視点があれば、現状に対する認識も少しは変わるだろうけれど、それが欠けているんでしょうね。一人で生きて一人で死ぬのなら、それでいいかもしれないけど、実際はそうではないし、特に子供を持っている人にとってはかなり重要な問題だと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- gon1234
- ベストアンサー率14% (42/293)
自動車に限らず火でも電気でもガスでも、使い方次第では人を殺すことが出来ます。包丁なんて最たるものです。 これを殺人の容認とは考えられません。 殺人の容認という条件を所与として考えた場合でも、対価としての自動車(火・電気・ガス・包丁)の使用は正しいと思います。 個人的見解です~。
お礼
すいません。前にも書きましたが、「殺人の容認」という表現は私の間違いです。「人の命を奪う」という表現が正かったです。 私は、現状での自動車の使用は「人の命」が対価になるものとして、正しくないと思います。その理由については以前のレスを参照ください。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
交通事故で失われる生命を含めた自動車の「リスク」を、社会が引き受けているのは事実ですね。他にも、大気や水の汚染、遺伝子操作や臓器移植など、技術の進歩に関する葛藤はさまざまだと思います。 ただ、自動車についてはその葛藤が、あまりに「しょうがない」で終わらされているように感じます。 私は自動車の運転には厳然と資質があると思っているのですが、現状では安全運転をできない/しない人でも免許を持てると言ってもいいのではないでしょうか(これは運転をされる方が一番感じていることだと思います)。運転免許がここまで「当たり前」になっていると、極端なことを言えば、誰もが医師免許を持っているのと同質の不安を覚えてしまいます。 デメリットを減らす努力は、葛藤がなければ出てこないものだと思います。自動車に関しては、それがいささか欠けているように思えてなりません。
お礼
「あそこの教習所は免許とるの難しいから、あっちの方がいいよ」というのをを耳にしたことがあります。 こういうのを聞くと「免許をとりやすくした方が、お客がたくさん来て儲かるから、そうしよう」という教習所がありそうだなと想像してしまいます。 また、筆記試験の直前に、「講義」と称して、その試験とほぼ同じ問題を有料で解説するものがある(おそらく誰かが問題をリークしている)と聞いたことがあります。 こういうところにも、利益偏重社会のゆがみがでてますね。どこまでいくんですかねこの社会は、自らを食い尽くすまでわかんないのかな。 忍耐づよく行きましょう。 参考になりました、御回答ありがとうございます。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
まぁ、だいたい回答は出尽くしたのではないでしょうか。 結論から言うと、人間は利便性を重視しているということ ですね。 また自動車じたいも、現代の技術では交通事故を防止できる ような技術レベルには達していません。 問題は今後ですね。 私自身は自動車に直接関わるような仕事ではないのですが、 もし質問者の方がこれから社会人になるのであれば、今の 気持ちを捨てないで、自分の思いを実現できるような仕事 につかれると良いかもしれません。 自動車の問題に限らず、人間社会というのは実に不完全な システムがあちこちに散在しています。 そしてそれらの問題は、『誰か』が改善しようと思わない 限り、決して解決しないんですよね。 今が不完全でも、これから良くなる可能性はあります。 人をはねない車つくりというのも可能ですし、交通システム を改善することでも死者やけが人を減らすことは可能です。 交通事故死を容認する社会を嘆くだけでは何も変化しません。 よりよい世の中になるよう、志(こころざし)を抱いて努力 されることを期待します。 私自身は別の目標を抱いていますが、日々目標に向かって 頑張っています。
お礼
安全性に対する技術がもっと高まることで、交通事故を防止できればいいですね。ゼネコンとかに金つぎ込むくらいなら、そっちの開発費に使え、とか思います。 >交通事故死を容認する社会を嘆くだけでは何も変化しません。 私もそう思って、何かできないかと思い、ここで発言した次第です。前にも書きましたが、やっぱり教育をどうにか変えたいですね。どうしたらいいか考えてみます。 度々の御回答ありがとうございます
同じ人は二回書いてまずいのならすみません。殺人の容認という言葉に振り回されていたようですね。また、正しいか正しくないかという二者択一的な問いでしたので、答えにくかったのですが、現在の車社会をそのままで良いとする人は少ないと思います。ただし、危機感が著しく不足している(要するに他人事)、これは言えると思います。 交通事故の悲惨さを知るべきとのご指摘ですが、対策を講じるという意味で考えてみると、交通事故を起こす人は、統計で調べてみると、飲酒、右側通行、脇見、スピード違反などしています。死亡事故は、ほとんどまともな運転してないわけです。 で、そういう人は、常連さんなわけですね。運悪くというのは少ないです。なるべくしてなった、ってのが多いですね。そこから、車の走行自体を廃止しない社会は殺人の容認をしているというご意見は、前のレスで言わせていただくと感情的(極論的)で社会一般に説得力を持つものではないように感じたわけです。ご意見と諸人の回答にどこかずれがあるのもそのためだと思います。法律の厳格な運用と高い交通意識が必要なときに来ているということは言えます。 先頃、飲酒の規制と罰則が強化されましたが、私の考えでは、飲酒したら、免許を永久停止してしまうくらいのことで良いと思っています。飲酒に大らか(だらしない)な習慣が、たくさんの事故を引き起こしてきました。ようやくそのことに気がついて、遅まきながら厳しくなったわけですが、まだ徹底していませんね。だいたいこういうのは常連さんですから(右側通行するような奴は、飲酒もしてたりするもんです。大事故は、いきなり起きるわけではなくって、微罪の繰り返しの末に起こることが多いはずです。この点は資料を見たわけではありませんが)、そのほかの小さな交通法規でも、その小さいことをいいわけにしないで、問答無用の免許停止にしてしまうことです。これで、現時点の交通事故の8割とか9割はなくなってくれるはずです、理屈としては。死亡事故の統計見れば、分かりますが、死ぬほどの事故は違反がとにかく多いですね。あと、自動車に注目されているようですが、単車事故の割合が多いはずです。自動車に関しては、ドライバのモラル的な側面が事故の原因になっている部分が相当大きいのですが、バイクは構造的にも事故に弱いという面が強いと思います。 でも、最大の難関は、不便さとどこまで闘えるかですよ。いくら交通事故の悲惨さを見ても、自分だけは事故らないという根拠のない楽観性を持っている限り、無理な話ですし、車への依存度を社会がやめると言うことは、とりもなおさず、その恩恵にあずかるすべての人が、ある程度の不便さを我慢することですから。その我慢と工夫がどこまで出来るかと言うことが実際の課題になりますでしょう。あなたも自転車通勤していらっしゃるのであれば分かると思いますが、相当意志が強くないと無理なことは間違いないでしょうね。
お礼
>法律の厳格な運用と高い交通意識が必要なときに来ているということは言えます。 私も同意見です。飲酒運転は一発で免停にすべきだと思います。 確かに、多くの事故の原因は、運転者にモラルがないことによるのでしょう。しかし、よく考えれば、利益のためなら「人の命」を犠牲にする人たちに、モラルを求めること自体が難しいのかもしれません。法の厳罰化や高い交通意識はもちろん必要ですが、問題はもっと根深く、人間性に関わっているのだと思います。今の「車社会」の現状は、未熟な人間性を示す一表面にしか過ぎない。やはり根本的に改善するためには、教育も変えていくべきなのでしょう。 >最大の難関は、不便さとどこまで闘えるか そうですね、本当にそう思います。利便性を必要最小限に削った社会が、そこに暮らす人々に幸福を与えるのはなかなか難しいと思います。これを乗り越えるには、他者への眼差しや強い倫理観が必要です。他者の痛みを感じることができれば、その痛みを減らすことは、その人にとって幸福になる。そういう人が増えていけば、今の状況も少しは変わるのでしょう。 参考になりました、度々の御回答ありがとうございます。
- H-hoko
- ベストアンサー率50% (6/12)
●みんなで殺人を容認してしまっている・・・。 このような感覚は わたしの場合 小学生の頃に まったく同じ なんとも言い様のない不快感と 虚無感を伴って感じられたものです。 そんな 遠い記憶を思い起こしました。 人間は刺激に対して麻痺する性質を持っています。 初めて様々なことに気付きはじめたころの感覚は 概して「正しい」のです。 慣れる・麻痺するといった感覚の利点は その環境のなかで他の事に向かえることです。 でも 問題は最初の違和感や不快感を取り除ければ 一番いいわけで それが簡単にできないから 麻痺した感覚の中でしか生きざるおえないわけです。 できることなら あなたのような鋭い感性の方々が たくさんいらして この世界を変えていただきたいものです。 でも 周りを見渡せばお分かりのように 現実の 社会は 鈍感に感性を曇らせて平気で生きている 人々が流れを作っているわけです。 どうぞ いまのままの感性を大事に育てられて 社会に多くの進言をいただけますよう 希望いたします・・・。
お礼
自分と同じような感覚を感じた人がいる。そのことだけで少し救われた思いがします。それだけでは何も変わらないけれど、少しずつでも、多くの人が気づいてくれる可能性がまだ残っていると、思うことができます。 参考になりました、貴重な御回答ありがとうございます。
殺人を容認しているということになるかどうかは、bofdさん独自の定義だとは思います。通常、こういうのは事故と言います。 で、もし、「殺人」か「事故」かの定義が、bofdさんの主張の根本ではないという前提でなら、私の投稿も呼んでみてください。 まず事故は容認しています。その事故で、人が死ぬことも容認しています。これを殺人とbofdさんはおっしゃておられるようですが、言葉の辞書的な意味でも、現行の法律でも多分殺人の容認とは言わないと思いますので、もし殺人という定義を主張することが目的であれば、社会の「殺意」と起きてしまった事故(あなたの言う殺人。飲酒運転みたいなものも含めて。)の因果関係を明かさなくてはいけないのではないかと思います。「殺人者」(事故を起こした人)の責任能力を全く問うことなく、社会に責任を還元して、それを殺人の容認だと言い切ってしまう論法は、現段階では一般的には認めがたいと思います。 問題がそこにあるのではなく、事故であれ、殺人であれ、起こることがほぼ分かっているものを容認していることを、いいか悪かと聞かれれば、結論的に言えば、「いい」(積極的に良いことだと言う人は少ないと思いますから、この場合は、仕方ないという意見になります)と思ってるということになるんでしょう。そう思っているからそのままなんでしょう。 便利性、広く言えば利益ですよね。利益と人命のどちらが優先するかというと、はっきり言って、利益です。人命は概念としては地球より重いですが、まともに考えて本気で信じてない人のほうが多いです。利益が優先するんです。というか、正確には人命も利益を計る一つの要素です。人命がもっとたくさん失われると、利益がないということになって、車の一般人の使用禁止と言うことなるかもしれませんが、現段階ではそこまで死んでないということです。 事故が起こる可能性がある(その前提)から保険にも入るのでしょう。飛行機なんか特にそうです。安全度から言えば、飛行機は自動車より断然事故率は低いのですが、生命保険等かけます。加害者としてはなく、被害者になることを覚悟して乗るわけですよね。落ちたら落ちたで仕方ない、そう思って乗ってます。だってお金持ちでもないのに、船で遠方の外国行けません。韓国くらいなら船で十分だけど。これは私の場合ですが。つまり、事故を容認しているのは、何も加害側ばかりを想定しているのではなくって、被害者(bofdさんの定義だと殺される側)になることも想定しているわけです。こういう人、割と多いと思います。利便性と安全面は、天秤に掛けられるわけですね。 正しいかどうか、ということを聞かれていたのですね。社会的に正しいかどうかは、「殺人の容認」ということであれば、言いやすいのですけど、社会の意志と因果関係の不明確な「事故」(感情的には理解できなくもないですが、立証できますか?)では、ほしがっておられるような回答は導きにくいと思います。しかも、事故を起こす側も起こされる側も、その危険性を認知した上で、自動車に乗ってるわけですから。乗らない人が、自動車社会を批判するようには簡単にはいかないでしょう。社会的に正義か不正義かは、自分にはわからんというのが正直なところですね。 が、少なくとも、私自身は、免許自体は、周りに流されて採りましたけど、採ってから10年以上たちますが、自動車は運転したことはないです。買ってもいない。理由は人を引く可能性と不安を持っているから。資源を大量消費したくないから。はっきり言って、雨の日とかつらいし、不便です。でもそれも都会だから出来ているのでしょう。田舎に転勤にでもなれば学校で訓練してペーパーやめるかもしれませんが、今はあなたと同じ理由で運転をしていない。ただし、これはあくまでも自分の問題として考えていることで、社会問題として捉えているわけではないです。他人の自動車には乗ってるわけですし。
お礼
「殺人」という表現は、感情的になり、行き過ぎた表現だったと思います。「人の命が奪われる」とすべきでした。言いたかったことは、「人の命が奪われる(危険性がある)システム」=「車社会」に対する社会の管理が、今のままでいいのだろうかということです。 そこでotorisanさんは、社会は「車社会」の利益と不利益を天秤にかけ判断し、その結果「車」を使うことを容認した(たとえ天秤にかけられるのが「人の命」だとしても)。だからそのままになっている。と仰いました。 ここで重要なのが「判断」という部分です。社会の「判断」というのは価値観や社会環境が変わるにつれて、そのたびになされるべきものです。一回したら終わりというものではありません。 さらに判断するにはそれについて知っていなければなりません。「車社会」に伴う暗部を私たちは本当に知っているでしょうか。「知る」というのも厄介なもので、究極的には、自分が車に轢かれてみたり、自分の大切な人を轢かれてみないと分からないだろうけれど、それはできないんで、被害者の話を聞くとか、人が車にはね飛ばされる映像をみるとか、そのくらいのことはするべきかもしれまん。赤ちゃんの頭がトラックのタイヤに潰されるのを見て、車を使うのを必要最小限にしようと思う人は少なからずいると思います。そういう個別的現実の悲惨さは、不経済なので隠されがちです。のほほんと生きているだけでは、知るのは難しい。この辺のことは教育から変えていかなくてはいけいと思います。 「車社会」の暗部については、もっとあいまいにしか知らない人が結構いるのではないでしょうか。少なくとも自分はそうでした。その結果、「判断」を政治にまかせっきりになり、政治は企業と癒着して、今のような「車社会」になったのだろうと思います。 社会を構成するみんなが、知るべきことを知った上で、いまのまま「車」を使うことを「いい」と「判断」するなら、自分には何も言えません。 最後に、私もotorisanさんと同じように車に乗りません。人を轢くのが嫌だからです。駅から家が離れていて、自転車で十五分くらいかけて電車に乗っています。今日、自転車で猫を轢きそうになりました。さすがに、歩いて駅に行こうとは思いません。人は罪深いですね。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
お礼
他人事にして、考えるのを止めてしまっている人が結構いるような気がします。 自分としては、大切な人の命が奪われる方がつらいです。また、誰かの大切な人の命を奪うシステムに加担していることに罪悪感を感じます。 利益と不利益をはかる天秤に「人の命」をのせること自体が、本当はいけないことだと誰もが感じられると思うのですが、そう簡単ではないすね。利益を優先して「車社会」をこのまま続けていくとしても、犠牲を伴っているという罪悪感は持ち続けて欲しいと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。