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みんなで殺人の容認
技術の進歩によるメリットとデメリットに関することです。 今、日本中ビュンビュン車が走ってます。それに伴い、交通事故で人がジャンジャン死んでます。これだけ多くの車が走っているのであれば、「人が過ちを犯す」=「運転ミス」をすることは、ほぼ絶対にあると言っていい。それにも関わらず、車が走行することを社会が許すということは、みんなで殺人を容認しているのと同じことだと思います。もちろん、車によって利便性が得られるし、それによって救われる命もあります(救急車など)。しかし、人の命がそれの対価となるのは正しいことだと思いますか。 意見をお聞かせ下さい。
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もし仮にこんだけ自動車事故で人が死ぬことが初めからわかっていたら、一般人に簡単に運転免許を与えるなんてことはしなかったかもしれんね。 車が普及し始めた頃はこんな狂気に満ちた車社会は誰も想像しなかったんじゃない? 同じことがタバコや酒にも言えるけど。 こういうことは時間を固定して考えると矛盾に満ちてるように見えるけど、時間軸を追って見るとわかってくることってあるんじゃないのかな。 なんで多くの人が戦争したくないのに、多くの国が軍隊を持ってるのかな、とかね。 それは、今この時点でみんなで話し合って決めたことじゃないからかもね。昔からあるものは今の理屈だけじゃ簡単にやめられんていうことですかね。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
>人の命がそれの対価となるのは正しいことだと思いますか。 正しいも正しくないも、対価になっていないので言いようがないと感じます。 車の事故で奪われた命は奪われたのであって支払ったのではないですよね。 支払うというのは能動的な行為ですから。また、事故を起こした車も自己の意思で人の命を奪う訳ではないですよね。できるだけそのような事故が起きないように社会にはルールがあるのです。定められたルールにのっとって車も歩行者も行動すれば基本的には事故はおきないんですよね。不幸な結果をもたらしているのは車という「物」ではなく「人」ですよね。 包丁を使った殺人事件が多発するので、包丁を売ることを許している社会は包丁を使った殺人を容認しているでしょうか。 飛び降り自殺をする人が多発するので、人が死ぬような高さのマンションを作ることを許している社会は飛び降り自殺を容認しているでしょうか。 人の命は物に置き換えるべきではないと私は常に思っています。 もちろん、核兵器の所有を許している地球の人々は人類の絶滅を容認しているとはおもいますが。
お礼
>「定められたルールにのっとって車も歩行者も行動すれば基本的には事故 はおきないんですよね」 それができないのに放っておいていいのかという問題です。 >包丁を使った殺人事件が多発するので、包丁を売ることを許している社会 は包丁を使った殺人を容認しているでしょうか。 飛び降り自殺をする人が多発するので、人が死ぬような高さのマンション を作ることを許している社会は飛び降り自殺を容認しているでしょうか。 どちらもリスクとして社会が認めています(仕方ないという意味で)。ただしそのリスクを小さくする努力は行われています。それが、銃刀法を取り締まる法律であり、屋上に入れないようにするとか、飛び降りにくくするためにフェンスをつけるとかいう努力です。 車については、そういうリスクを少なくするための努力が足りないと思います。 参考になりました、貴重な御回答ありがとうございます。
- quantamoon
- ベストアンサー率33% (3/9)
昔の話ですが、自動車会社が鉄道を買い上げわざと潰して車社会にしたと言うことが過去に行われていました。 問題は、経済活動を行う上での基本的な理念がどこにあるかと言うことです。 例えば、公害問題なども多くの人の利便性がとられれば少数の人は見捨ててよいと言う考えが少なからずの人が持ちうると言うことです。 オウム真理教の麻原がなぜああいうテロに走ったか? それは、彼が水俣市の近くに住んでいたことに関係があると思います。彼の目の病は少なからず公害などの社会的要因によって引き起こされたと幼いころの彼は当時考えた。少なくとも彼は周りいた公害に苦しむ人を沢山知っていた。そんな彼が社会を憎まない方がおかしいでしょう。 少なくとも普通の人よりも差別を受けることが多くあり、屈折した人生を歩むのは必然だった。 そんな彼がコンプレックスを克服するために東大を受けたが失敗。 後の、彼の行為は公害に近い挙動を示しています。 歴史は繰り返し、トラウマもルサンチマンも循環するのかもしれません。 北朝鮮がなぜああいう行動をとらざるをえないのか?それは過去の日本、及び米露の代理戦争によって行われた行為によって残ったトラウマが繰り返すのでしょう? ブッシュ親子も繰り返し戦争を行い、次の選挙では落選するのでしょう。万が一当選したら、ブッシュは輪廻の歴史から乗り越えることができるでしょう。
お礼
少数のルサンチマンがもつトラウマを循環させないためには、多数者がなるべく少数者を見捨てない社会を作るしかありません。しかし、それには多数者の利益や利便性を、ある程度支払う必要があります。それをするだけの人間性の成熟が日本にあるかどうか、非常に疑問です。高度成長期に飼いならされた欲望が、今まだその辺を歩いている気がします。そろそろ「マテ」を覚えてもいいんじゃないのかな、と思います。 参考になりました、貴重な御回答ありがとうございます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
参考程度に 確かに質問者さんのご指摘のように交通戦争で年間1万人もの方々がなくなられていることは事実ですね。 便利だから、誰しも車を使いますね。誰しも事故など起こしたくないし考えたくもないのですが、車の技術がまだまだ低いために個人の不注意で事故はありますね。車の技術の低さのせいでも管理し運転しているのは個人ですから個人の責任ということになっていますね。これをどう考えるかということですね。最大多数の幸福のために少々の犠牲は仕方がない、という考えは1つありますね。また、いや車の性能が悪いのだからそうなるので、車製造会社が努力を怠っているからだという考えもありますね。 両方の考えがありますね。年間1万人の方々のご家族の保証は自分で支払う保険からの支払いですね。でもこれは少しおかしいように思います。やはり車製造会社は、衝突しない車、衝突しても死なない車を作っていないのですから、何らかの責任を感じるのは当然のことですね。乗らなければ良いではないかという論理だけではだめですね。インフラも車社会用にはなってきていますからね。交通事故でなくなった方の遺族への年金なんかは車製造会社が考えるべき問題ですね。当然社会も車の恩恵を得ているわけですから国の援助も必要ですね。このようなまだまだ未熟な装置を使わなければいけない時代ですから皆で考えないといけませんね。 その意味では、年間1万人は、すでに個人の不注意や責任のみに帰する程度を超えているように思いますね。この問題も政府は目を瞑ってきましたね。 警察がスピード違反者を増やしただけの処理ですね。この問題や自殺者3万人の問題は、しっかり個人でも政府でも考えるべき問題ですね。 高々100万円の車より人の命ははるかに尊いですからね。 というように思います。
お礼
事故に対する保障を誰がするかという問題はなかなか難しいと思います。mmkyさんの論理だと、たばこを吸い過ぎて癌になった人の保障はたばこ製造会社がすることになります。これを認めてしまうと、多分たばこ製造会社は経営が成り立たなくなってしまうでしょう。だから、たばこは自己責任でということになるのではないでしょうか。そのかわり製造会社には、たばこの危険性についての説明責任がある、それがたばこの横に書いてある「健康を害する恐れがあります」ってやつだと思います。自動車も同じように考えて、製造会社に責任を求めないのだと思います。しかし、車の事故の場合は自分だけでなく、他者にも危害を加えることが多いから、被害者からすればどうしようもない部分がある。失った命は保障の仕様がない。 結局、車の使用を制限するとか、違反に対しては厳罰化するとかしなければならないのですが、それをしないのは、やはり政治と製造会社との癒着があるのでしょう。「政府は目を瞑ってきました」というより経済を最優先する「悪意」を感じます。
補足
参考になりました、貴重な御回答ありがとうございます。
だめです。 なぜなら、現代の日本では、車を必要としなければ、生きていけない、普通じゃないというおかしな雰囲気が、蔓延しているように思うからです。 別に、そんなことは、はっきりないのです。 社会がなり行かなくなれば、新しい社会に更新されるだけであり、車社会がなり行かなくなれば、それも更新されます。 車社会で権益を得ているものが、国や経済といった巨大社会機構において高い地位にいる時、車社会は長く続こうとします。 それを早く更新させようとするものは、車社会において、被害をこうむっている者たちです。 被害の大きさに気づくということが、大切なのだと私は思うのであり、人の命から他生物の命を脅かし、または公害、花粉症、燃料の大量消費、経済乱交、臭い、騒音、平野の少ない土地にもかかわらず、大きい土地占有率。不愉快なことはかなりたくさんあります。多くの人が、その被害をこうむっています。多くの人の幸せが、減少しています。 金は増えますが、。 対価は、物や人をたくさん、速く運べるということです。 そういう意味では便利でしょう。 車社会を長く続かすには、物や人をたくさん、速く運ばざるを得ない社会機構を長く持続できれば、車社会は巨大なままでいられます。 でも、やはり立ち行かなくなります。 バランスの悪いものは、こけるのです。 いかに、車社会を更新するのか。 社会悪は現実にあるのであり、悪いところは改善するのが普通の流れです。 悪くなるだろうと予想されることには、早めに手を打つのも、浅知恵ながらごくありえる話です。 高度経済成長期、日本は何を求めたのでしょう? 私は、経済、つまり金を求めたのだと思います。そのままです。 何よりもに優先して。 金とは行動力だと考えていますが、今流通している金はぜんぜん万能ではなく、金でできることはかなり限られており、生身の人間に依存することの方がはるかに多いのです。 金額は多くても、日本にできることは少ないのが現状です。 にもかかわらず、金がなければ何もできないと言うのは、大いに幻想であり、社会的に何かをするのに、金がこれだけ、思想がこういうもの、必要性、計画、人材、環境、時期、民意、諸々の決定事項が現実にはあるのです。 それらを考慮の片片隅において、金がでかい顔ででしゃばっているのが日本の現状だと思います。 私は、金が嫌いなのです。 非常に個人的ですが、一人間としても、今の金の姿がすごく嫌いなのです。 車社会もその一端と思います。 社会の様態の変化、複雑化、後戻りはできそうにないと思います。する意味も感じません。 車被害は、甚大だと思いますが、その中でも、正気を取り戻したいと、私はけっこうマジに思います。 その中から、出よう。とも、思ったりします。
お礼
共感できる部分がかなりあります。日本は自由経済になって、消費者が望むものを提供することは、提供者にも消費者にも利益になり、良いこととされてきました。しかし、グローバルに、または社会的にみて、消費者が求める生活がかならずしも良いとは言い切れません。なぜなら、消費者はメディア(コマーシャル)によって欲望を操作される危険があるし、消費することで社会にどのような影響を与えるかを巨視的視点で見ようとしない場合があるからです。その身近な例が今の車社会ではないかと思います。自分の欲望を増幅させることは簡単です。しかし、それによって犠牲となる人々を見過ごすことはできないと思います。大事なことは、本当に自分に必要な生活は何なのかを知ることだと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
もう一つ言えるのは、自動車が既に生活必需品になっている からですね。 これは田舎に住めばよくわかります。 バスが1時間に1本、電車の駅には歩いていけるような距離 ではない地域に住めば、自動車が必需品であることが身に 沁みてわかります。 まぁ、取締りを厳しくする、自動車専用道路をきちんと整備 するといった対策を取れば自動車のメリットと交通事故を 減らすことの両方が可能となりますが、そういう構想もない し、今は財源がないから無理ですけどね。
お礼
生活に必要な分だけ車を利用するのは理解できます。だから、 >これは田舎に住めばよくわかります。 バスが1時間に1本、電車の駅には歩いていけるような距離 ではない地域に住めば、自動車が必需品であることが身に 沁みてわかります。 という場合は否定する余地はないと思います(温暖化の話を入れるとややこしくなりますが)。 問題となるのは、娯楽のみのための車の利用とか、電車があるのに少し面倒だから車を使うとかいう場合です。つまり、「生活に必要な分」というのが、どの程度までなのか。そういうことを考えて車に乗っている人はどのくらいいるのか疑問に思いました。私たちはそういうことに無自覚になって、ただ利便性、有益性の匂いにまかせて消費することに馴れすぎてしまっていると思います。(同じことの繰り返しになってしまいましたが、長文ご容赦下さい。) 返信ありがとうございます。
質問者の方も、また、回答者の方も文明の利器を自動車だけに限定してお話ししているようですが、利器と言われる物全てに危険が伴います。 例として、スペースシャトル(自動車より危険確率が高い)、包丁、銃、建築工事現場それぞれに危険を伴います。 質問者の方は多分ご存じ無いでしょうが、高層ビル建築工事における人身事故率は自動車事故の比では無いのです。 危険の無い利器というものは、存在しないと言っても過言では有りません。 電気毛布での火傷、電車事故、TVによる火災事故死など限りが有りません。これらを設計・製造・操作する全ての人々は、人身事故が起きないように最大限の注意を喚起し業務に携わっているのです。 これらの利器を最大限利用し、マイナス面を最小にすべく努力しているのは、人命を対価として考えているのではなく、人命が大事だからこその色んな努力、工夫が施されているのです。 自動車が、狭いところでスピードを出して走行しているのは、野菜包丁を、市街地で振り回しているのと同じことです。 自動車の利便云々とは別の次元の問題です。 容認しているわけでは無く、取り締まる余力が無いだけです。自分の幼い子供が歩いている道を、びゅんびゅん飛ばす親は居ないでしょう。他人の命を大事に思わない自分勝手な人が多いだけです。 自動車の利便性と、人命の犠牲とは無関係の物です。あくまでも。
お礼
自動車の利便性と、人命の犠牲は関係があると思います。 「取り締まる余力がない」とわかっていながら、仕方なく自動車を使うのは、自動車に利便性があるからです。 自分は利便性をある程度縮小することで、デメリットを少なくすることは可能なのではないかと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。
- may-river
- ベストアンサー率7% (3/39)
お礼ありがとうございます。少しだけ補足です。 > 一つ気になるのは、「「○○をやった」と「○○をやっていない」の二つを使った > 未来の対比実験なんて出来ません」という部分です 「もし交通事故でAさんが死ななかったら世界はどうなっていたか」という様な事です。 もしくは「今通っているB大でなく、A大学に行っていたら自分はどうなっていたか」 「手塚治虫があの時、漫画家でなく医者になっていたらどうなっていただろうか」 とか。一般論というか人生の教訓として、です。 > 「必要な物資を運搬するための車のメリット」と > 「電車やバスで代替することができるのに、車をつかって移動するメリット」 それにしても、色々な考え方があるのではないでしょうか。 たとえば 2つ目の括弧で車で移動するメリットは無いと言わんばかりですが ラッシュアワー その人が妙な気を起こして痴漢の被害に遭う女性がいたかもしれないし 車がリフレッシュの道具だとしたら 麻薬をやられるより社会的に 煙草や酒をやられるより 健康的に良いですよね? 昔、幼心に「温暖化が問題ならガソリンスタンドを廃業させれば良いのに」と思っていた事がありますが ガソリンスタンドで油で手を汚しながら働く店員さんを見て 「そうか。ガソリンスタンドを廃業しちゃったら この人たちはどうなるんだろ」 と思いました。 温暖化防止の為に彼らを犠牲にすべきかどうか。あなたの疑問と同種だと思います。 それと 人の命と言いますが そんな大層なものを考える人間は稀でしょう。 誰しも社会正義より自分の利益を優先させますからね。 温暖化にしたって 日本の海岸線が無くなっても困らない人の方が多いし。 (税金は増えるかもしれませんけれども) 「みんな使ってるんだから良いじゃん?」てな人もいるだろうし。 参考に……ドイツでごみに対する意識が国民のうちで高いのは 海岸を埋め立てればゴミ捨て場一丁あがり、の日本と違って 増やせる国土が限られているからだそうです。 日本人も彼らを見習うべきかもしれません。 尤も、現実主義者に 「ナンセンス!追い詰められないと考えられない点では五十歩百歩じゃないか」と一蹴されそうですが。 長々くなってしまってすみません。
お礼
ガソリンスタンドの店員について、 全てのガソリンスタンドをなくせとは思いませんが、人々が社会のために自分の利便性をある程度縮小して、その結果何軒かのガススタが潰れるのは仕方がないと思います。しかし人々の意識が変わるのには時間がかかりそうですから、実際には、まだ問題にならないだろうと思います。 最後の「みんなやってるし、今さえ良ければ、自分さえ良ければいい」ですがこれが一番厄介です。何か大切な共同体、血縁とか、自分が生まれ育った土地とか、そこに住む人々とか、大切な人のためとか思えば少しは意識が変わるかも知れませんが、そういうものが失われつつあるのが今の状況だと思います。 オランダなんかは、温暖化が進んじゃうと水に沈んじゃうんで意識の変化は進んでますが。日本もそこまで行かないと駄目なのかな。 なんとかなんないのかな。 長文失礼しました。返信ありがとうございます。
補足
未来の対比実験について、 >車がリフレッシュの道具だとしたら 麻薬をやられるより社会的に 煙草や酒をやられるより 健康的に良いですよね? リフレッシュの方法が、必ずしもデメリットのあるドライブでなければならないのか検討が必要だと思います。悪いものを持ち出して、それよりはいいだろうというのは、あまり良い考えかたとは思いません。しかし、今、may-riverさんがやられたように、本当に必要なのか天秤にかけることが重要だと思います。私たちはあまりにも無自覚に消費することに馴れすぎているのだと思います。
間違っていると思います。 ですが、その間違えを容認せざるを得ないのは、技術のレベルが決定的に低いからだと思います。しかも、発明先行型、利便性の追及優先、で発展してきたものだから、デメリットに対する防備がぜんぜん出来ていない、と思います。安全第一に考える事が出来れば、文明の発展は平和で正しく進歩していたのだろうと思います。 1.車が出来た→道が整備された→車の性能が発展した→高速道路ができた 2.車ができた→自動車専用道路を作った→車の性能が発展した→副操縦システムと車間距離自動制御、および速度制限装置、ができた 1は、ひたすら生産し、消費し、利便性重視でモデルチェンジをし、発展してきた愚かな文明だと思います。 2は、勝手に考えた例ですが、危険の回避を優先させた文明の発展であり、呼び名はすごい名称ですが、ハード的に出来た事も多々あったのだろうにと思います。 仕方がない、と考えてしまう事が元凶で、仕方が無い事は許さない、という考え方で発展してきたら良かったのにと思います。歴史にもしもは無い、と言われますが、未来も非常に暗いです。考え方が変わってゆく事は間違えなくないと思います。 地球の文明というか技術の発展は、本当に愚かな優先順位で成り立っていると思います。 まさしく人類は共食いが大好きな種族なのだ、と思います。
お礼
同感です。安全性を保つ技術がもっと発達していれば、デメリットを少なくすることはできたかもしれないですね。しかし、コストパフォーマンスの点から、このことは、ないがしろにされてきたのかもしれません。 結局、人間も動物で、欲望の鎖につながれているから、一端口に入れた果実を吐き出すのは難しいのだと思います。 でも、「考え方が変わってゆく事は間違えなくない」なんて言わないで下さい。自分が「おかしい」と思ったことを信頼できる友人に話したり、子供を持つことがあるのなら、その子に自分の考えを伝えたりするなど、小さいことではありますが、何もできないということはないと思います。少しの希望もないよりはましです。貴重な御回答ありがとうございます。
- E-DC2
- ベストアンサー率22% (131/595)
こんにちは。 >しかし、人の命がそれの対価となるのは正しいことだと思いますか。 >意見をお聞かせ下さい。 多くのモノや制度にはプラス面とマイナス面があります。 例 クルマ:利便性(+)/交通事故(-) 銃:護身器具/凶器 酒:嗜好、ストレス解消/病気、事故、事件の原因 原則的には、プラス面が多いと判断されれば許可され、マイナス面が多いと判断されれば禁止されます。 現代社会では、クルマの運用はプラス面が多いと判断していると思います。 これは、私自身は正しいと思います。 では。
お礼
プラス面が多ければ、少数の命は犠牲になっても仕方がないという意見ですね。これでは戦争はなくなりそうもないですね。 参考になりました、貴重な御回答ありがとうございます。
お礼
今の状況が利益偏重に過ぎているというのは、時間を追っていけば、多くの人の共通了解になるかもしれません。でも、「せっかく頭に脳みそつまってるんだから使ってくれよ」っていう気になります。たぶん、想像力の欠如や、視野を広くすることに対する怠慢があるのだろうと思う。弱者に対する救済や援助について考えるのはめんどくさいですからね。めんどくさいのは利にかなわいから考えない、という人は結構いると思います。本当は自分にはねかえってくる問題なのに。そういう人は自分の大切な人が事故に遭ってから気づくのでしょう。残念ですが。 この質問が考えるきっかけになってくれればいいと思います。 参考になりました。貴重な御回答ありがとうございます。