私が小学生の時です。
算数では、単元のまとめとして、教科書見開き2ページが全て問題だらけというページがあります。
先生は、これを、まずは自力で解かせます。
全員がそれぞれ解いているので、教室は静かです。
回答をノートに書き、先生に持っていきます。
全てが正しいと、「指導者」となって、解き方を友達に教えることができます。
小学生が同級生の小学生を教えるのです。
「指導者」のなかには、仲の良い子にしか教えない人、自分のノートを丸写しさせる人など、いろいろな人がいましたが、私は「自力で解けること」が大事だと思っていたので、解き方のヒントだけを教えるように心がけました。
だんだん教室がにぎやかになってくるので、「問題が解けない友人」と、とことん話し合う場が持てます。
そうするうちに、「なぜこの友人は解けないのか?」「どこにひっかっかって解けないのか?」「なぜ自分は解けたのか?」など、がわかってきます。
たぶん、解けない友人が解けるようになるよりも、教える側のさらなる理解の方が、どんどん深まっていったでしょう。
今から思うと、すごいことをやっていた先生だなぁと思いますが、人に教える楽しさを教わりました。
と同時に、自分が完全に理解していないと、人に教えることはできない難しさも教わりました。
なので、ここで回答する際も、自分の記憶が確実なものであればともかく、できるだけ調べて客観的な証拠を揃えて回答するようにしています。
すると、自分でも知らなかったことがわかったりします。
私にとっては、ここで回答すること、つまり証拠を集めたり文章を考えたりすることが、今まで「教わる側」にいて教わったことを、「教える側」に立って教えている形になりますし、おそらくは、その問題に対して質問者が私の回答を理解する以上に、私の方がさらなる理解を深めていると思います。
人に教えることによって自分の理解が深まる、自己の中で情報が整理される、あるいは、自分の至らなさに気づく。
そのような方法に名前があるかはわかりませんが、良い方法だと思います。
ただ、教える側が完全でないと、不完全な教え方をされた方は、たまったものではないでしょうけどね。
不完全な資料を元にした発表会や、学会発表などを聞いていると、イヤになってきますから。
お礼
すばらしい先生ですね。(回答文に書いてある事しか分からないので回答文に書いてある事から感じる印象です) 順位をつけるということはある意味危険を伴いますが それを余りあるほどに 強者は威張るのではなく皆が同じ様に(没個性という事ではないです)なろうとする そしてその結果絆が強くなる。 とても大事な事を教わったのですね。 私はいい生徒ではなかったので良い先生は居たのですが 大事な事を学べなかったと思います。 自分にも先生にも悪かったと思います。 >私にとっては、ここで回答すること、つまり証拠を集めたり文章を考えたりすることが、今まで「教わる側」にいて教わったことを、「教える側」に立って教えている形になりますし、おそらくは、その問題に対して質問者が私の回答を理解する以上に、私の方がさらなる理解を深めていると思います。 これなんです。 私が言いたかったことは。 正しい日本語を身に付けたいと思っているのですが 私が質問者が理解する以上に私が理解を深める この二つの間の差異を出来るだけ狭めたいと思っています。 回答ありがとうございました。