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ガストン・バシュラールについて

バシュラールのエレメント(火、土、水、空気)の概念がよくわかりません。 バシュラールが言うエレメントとはどのようなものか教えてください。 お願いします!

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回答No.1

バシュラールの特色は「物質」が想像力の源泉となっている、という観点です。 以下、かなりおおざっぱにアウトラインを描いてみますので、ぜひ『水と夢』を実際に読んでみてください。 まず、バシュラールにとって想像力とは「意思よりも生の飛躍そのものよりも、より以上に心的生産の力そのものである。心的には、われわれはわれわれの夢想によってつくられるのだ」(『火の精神分析』p.181)といいます。 このように、バシュラールは想像力をきわめて重視します。 わたしたちの想像力というのは、ふたつの軸を持っている。 ひとつは、ふつうわたしたちがふだん「想像力」と呼ぶものです。見なれないものを目にして驚き、予期せぬ動きを楽しみ、アンシンメトリーな構造に胸がかきたてられる。ありきたりではないものに触発されて、思いはどんどん羽ばたいていく。このような想像力をバシュラールは「形式的想像力」と呼びます。 ただ、想像力にはもうひとつ別なものがある。 質問者さんはこんな経験がないでしょうか。 燃えさかる炎を見て、その美しさに魅入られる。せせらぎに足を浸していて、どこからかやってきて、どこからへと流れ去る、透明な水に心が奪われる。 このように、物質の直接的なイメージによって、わたしたちの想像力がかきたてられるという側面があります。このように、物質をじっと見つめることでひらかれてゆく想像力のことを、バシュラールは「物質的想像力」と呼びます。 また、物質的想像力にはこんな特色があります。 ロウソクの火であろうが、焚き火であろうが、火山の噴火であろうが、火事の炎であろうが、どれほど変形され、分割されても、「火」はわたしたちに対しては同じ「火」として現れます。 つまり「物質」は、形式から超然としていられるという特色を持つのです。 変化を楽しみ、多様性や色や形のめずらしさ、美しさを求めて羽ばたいていく形式的想像力に対し、この物質的想像力は、はるかに内省的であり、原初的なものや永遠的なものを求め、ゆるやかな運動や発芽を内包し、また、その存在に対する深い考察を促していきます。 従来、想像力はもっぱら「形式的想像力」でのみ語られ、物質は無視されてきました。けれどもバシュラールは「物質的想像力」の概念を導入します。 さらにここから「物質的想像力」は基本的な四元素(エレメント)にわけられる、とします。 火、空気、水、大地という古代から知られてきた四元素をとりあげて、想像力の領域における「四元素の法則」を確立できると主張するのです。 人間の夢想は、この根源的な物質に根ざしている、この四元素をめぐる物質的想像力が、人間の夢想を支配しているのだ、と考えるのです。

Tri090
質問者

お礼

返信大変遅れまして申し訳ないです; ご丁寧な説明有難う御座いました とても参考になりました!感謝しております

その他の回答 (1)

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.2

 #1とは少し違った角度から答えてみます。  資料としては、(あまり人気のない本のようですが)国文社から出ているバシュラールの『適応合理主義』という本です。これから書く内容は、ほとんどがこの冊子に掲載されていますので、図書館ででも手にされると良いでしょう。  バシュラールは、詩で有名です。でも、詩人としての仕事は断片的であり、彼が自らの人生のなかで詩学に割いた時間はあまりに短い。むしろ彼は工学の人であり、生業としていた物理や化学を教える仕事に比べれば、彼にとって詩は、あくまで自らを慰めるための手段ではなかったかと思うからです。  これが「少し違った角度から」答えると書いた理由です。  バシュラールを科学哲学の人という分野で日本へ紹介したのは、金森修さんでしたが、ちょうど『サイエンス・ウォーズ(科学論者と科学者の論争のこと)』と題された彼の作品が話題になり、その渦中の人物にバシュラールもいたからでしょう。すでに二十世紀とはいっても、前時代的な進歩主義が科学の分野に色濃く残っていた時代の人物です。  金森さんがバシュラールを紹介した契機のひとつには、間違いなくアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『知の欺瞞』があった。  ソーカルの実験結果で明らかになった、出版業界の査読のいい加減さのほかに、ラカンの弟子たちの無能ぶりを顕在化させた有名な本です。ただ、そのどうでも良いような部分は声高に宣伝されますが、本書によって顕在化したもっと重大な部分(米国流の科学と、大陸の科学が決定的に異なること)については、あまり触れられません。  触れられないというより、ソーカルらはラカンを「知らなかった」という風評が先立って、日本と米国以外ではすぐに忘れられてしまった一面があるので、この点について#1へ補足するかたちで記述を残します。  おそらく日本では、「科学」という言葉を聞いただけで、それは普遍であり、万国共通の認識のもとに整理された分野だと――そう思われているのではないかと思いますが、その科学的認識は、少し国を違えると、実はそうでもない面を持つ――という指摘が、バシュラールの一番の貢献だと僕は思います。  彼の考えはこうです。ニュートンの提唱した力学は、あくまで自然、すなわち現実に人間の暮らすこの地球上に適用される法則だった。そこからアインシュタインは、「つくられた自然」(つまり地上の人間には決して見ることが叶わない宇宙の果て)に適用される理論を発見した。同様に化学の分野では、自然界では決して見つかることのない人工的な元素が、実験室で日々創られており、その「つくられた元素」の性質が取り扱われるようになった。つまり科学的認識は今や、現実の自然ではなく、「つくられた自然」に対する認識を指す言葉になっている。  その理由から、バシュラールはフッサールの現象学を、遅れた認識、あり得ない認識という評価を下します。つまり認識の対象が、変わっていると彼は言うんですね。  異なる対象について、あたかもある日常的な対象に向けられた認識を演繹させて、例えば非日常の対象に当て嵌めるという仕方が妥当かどうか。同様に、ある対象に向けられた科学的認識を、別な対象に演繹させることができるのかどうか。  彼はそこに、認識の非連続性をみるのですね。手触りできる自然に向けられた日常的認識と、つくられた自然に向けられる科学的認識の間には、互いに相容れない断絶がある。  それを彼は、領域確定性と呼びました。  けれど逆に、天球がアイテールに引きずられていると考えた古代人のアイデアから、宇宙空間には抵抗を生み出す物質が満ちていると演繹したニュートンのように、アインシュタインもまた、その「光り輝く液体」の存在を前提にして、相対性理論を導きました。  このように非連続ではあっても、科学的認識には概念形成の面で繋がりがある場合がある。そういうのを彼は、連繋合理主義と呼びます。そして、このふたつの特性の系譜を調べることが重要だと言ったわけですね。この分野を科学哲学、あるいはエピステモロジーというふうに呼びますが、大陸にはこの科学的認識についての長い伝統がある。  間違った領域確定、あるいは認識を科学の畸形と彼は呼びますが、バシュラールは特に化学(錬金術)の分野で、この畸形探しに夢中になります。残念ながら成果はひどいものでしたが、科学哲学という分野が生まれ、科学という表現に安易な一般化を与えない風潮が生まれたのは大きな貢献だった。  特に、科学における「真実らしき言説の歴史」を調べる仕事は、重要な役割を担うようになる。詩の世界とはいえ、バシュラールが古代の四元素を再評価した背景にはここに書いたような時代的背景があると思います。  さて、バシュラールの言う連繋合理主義は、ソーカルら米国流の科学のなかでどのように生かされたきたでしょうか。なかでも彼は、物理学の人間です。とりわけ量子力学の世界が、どうやって発展してきたかはよく知っているはずです。  アイテールに魅せられたアインシュタインのようにはいかなかったけれど、バシュラールが探した火の元素は、詩学を超えて、自らの仕事に何かを連繋させる意図があったのではないかと思います。

Tri090
質問者

お礼

返信大変遅れて申し訳ありません; とても参考になりました! 有難う御座いました

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