相変わらずご質問のなさり方が“卑怯”ですね(笑)。
「もの」と「こと」に関してお聞きになりたいのであれば、そういうものとして質問を出してくだされば、そんな厄介な質問に答えるほど勇敢ではありませんので三舎を避けたでしょうが。ご質問にうっかり乗ったわたしがバカでした。しょうがないので回答します。
> 「もの」ではなくて「こと」であれば同じ事件や状態を指示していると思うのですが。
そうですね。ヘーゲルによれば「あらゆるもの(Ding)は判断である」ということになるのだそうですが、
> 「太平洋戦争および日中戦争」と「大東亜戦争」は同じものを指示するでしょうか?
と聞かれると、やはり考え込んでしまいます。
単純に「ちがうものである」と言ってしまえないものがあるように思うのです。
ある出来事を指示する言葉には標準的な指示語と、非標準的な指示語がありますよね。
「太平洋戦争および日中戦争」がいわば標準的な指示語であるのに対し、「大東亜戦争」、あるいは少し指示する対象は異なりますが、「十五年戦争」といった非標準的な呼称に対しては、わたしたちはそれを言う人に意識が向かうのではないでしょうか。その人はそういう言葉を使うことによって、自分の解釈を主張していると言って良い。
E.H.カーは『歴史とは何か』のなかでこのように言っています。
「歴史上の事実は純粋な形式で存在するものではなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり記録者の心を通して屈折して来るものだということです。したがって、私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。……実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。むしろ、事実は、広大な、時には近よることも出来ぬ海の中を泳ぎ廻っている魚のようなもので、歴史家が何を捕えるかは、偶然にもよりますけれども、多くは彼が海のどの辺で釣りをするか、どんな釣道具を使うか――もちろん、この二つの要素は彼が捕えようとする魚の種類によって決定されますが――によるのです。全体として、歴史家は、自分の好む事実を手に入れようとするものです。歴史とは解釈のことです。」(p.29 清水幾太郎訳 岩波新書)
歴史記述は年表に配置される出来事と出来事のあいだを、テクストによって関係づけていくものです。その因果関係が一義的に特定でき、あるいはまた過去のテクストを構成する言葉が、その外部にきちんとした指示対象を持っていれば、さらにそれがすでに確定された「事実」に言及していてくれれば、「ひとつの歴史」、あるいは「真実の歴史」も措定可能かもしれません。けれども相互に関連し合うさまざまな出来事の因果系列を、現実に一義的に特定することは不可能でしょう。
かといって、歴史がどのような解釈でもありうるということにはならない。たとえばホロコーストを否定しようとすることは、圧倒的多数の証言や証拠を踏みにじろうとするものです。
解釈というのはたったひとりによってなされるものではなく、つねに協同的なものとしてしか存在しない。ひとりの歴史家の解釈は、その他の歴史家によって評価され検証されることになります。何種類かの解釈は、その優劣が議論されることでしょう。多種多様な歴史の解釈が、まったく同じ資格で林立することは実際にはありえません。
「太平洋戦争および日中戦争」と「大東亜戦争」、あるいは「十五年戦争」という言葉の用法としての標準・非標準は、歴史家共同体の評価を規準としているはずです。そう考えていけば、「ちがうものを指している」ということにはならないのではないかと思うのです。
こういうふうに考えられないでしょうか。
ひとりの人物に対して何種類もの評伝があることはめずらしいことではありません。
たとえばヴィクトリア女王の評伝であれば、邦訳されていて有名なものだけでも、リットン・スレイチーのそれと、スタンリー・ワイントラウブのそれがあります。
なにぶんにも読んだのは中学生のころだったので、どこがどうとは言えないのですが、この両方の評伝から受けるヴィクトリア女王の印象はかなりちがっていて、不思議な気がしました。
さらに、アントニア・フレイザー『スコットランド女王メアリ』に登場するエリザベス一世とデイヴィッド・スターキーの『エリザベス』となると、たとえ同じ出来事であっても、その説明がまるでちがっているのでした。
さまざまに記述されるヴィクトリア女王やエリザベス女王に対して、わたしたちは「同じものを指示するでしょうか?」という疑問を抱くことはありません。「ヴィクトリア女王」「エリザベス女王」という固有名詞が指し示す対象は、たったひとりの人物で、しかもさまざまな評価と解釈があるということを受け入れている。さらに、そのさまざまな解釈を自分のなかで、統合したり、つなぎ合わせたりして、自分なりのヴィクトリア女王像、エリザベス一世像を作りあげている。
そのように、「同じもの」をさまざまに呼ぶことは、そこにさまざまな解釈があることを指し示している。そうしてその解釈のどれを受け入れるかは、わたしたちに委ねられている、と。
補足
ghostbusterさん、ありがとうございます。 作用と反作用というのでしょうか、派生的に次から次へと質問が湧いてくるんですよ。 決して貶めてやろうとかいった悪意はありません(笑)。 しかし戦没者追悼式の度に思うんです。 天皇の「先の大戦」という常套語は、 いったい何を指し示しているのか、と。 間違っても大東亜戦争のことだよとはいえない。 まさに、わたしたちに委ねられている、ということでしょうか。