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マリーサレエの文の添削をお願いします。
マリーサレエ嬢の事を調べていたらどうしても英文でしか、載っていないので自力で訳してみたのですが自身が無いので添削お願いします。文は「Marie Sallé, (1707-1756) one of the most prominent dancers of her time, was a daughter of a tumbler. She was taught dancing very early and made her debut in 1718 at the St. Laurent's Fair in an opera-comique by Lesaye titled "La Princesse Carisme". She toured in fairs for years and in 1721 appeared for the first time in the Opera in Paris in "Les Fetes Venitiennes". She became a student of Francoise Prevost at the Academie Royale, but the jealousy of the older danseuse kept her from advancing rapidly. In 1725 John Rich took her to London where she first appeared in "Love's Last Shift" in entreacte divertissement with her brother. She danced with her brother through- out her career. Later she danced in "Caracteres de la Danse". She stayed in London for two years and returned to Paris where she danced at the Opera. She danced a solo entree, but for the next few months was in the corps de ballet. In about a year however she was recognized as a dancer of great talent. The rivalry with Camargo which became a feature of both dancers' careers began at this time. During the next few years she alternated her time between London and Paris. She was a noted intellect and associated with the men of letters of her time. She was a reformer in dance. In London in 1734 she appeared in her own production of "Pygmalion". She discarded the cumbersome dress of the day and danced in a muslin costume, her hair down and unornamented. This was in line with her belief that dance should be natural and expressive.」という文です。私の訳は「マリーサレエは最も優秀なダンサーの一人で、娘は体操選手をやってました。彼女はとても早い時期にダンスを教えられ、1718年に街でデビューしました。美しいオペラコ、コミキューイリザヤの中でタイトルは「プリンセスカリスメ」だった。彼女はフェアでの旅行で、1721年にパリのオペラ「レスフェティスヴェンチネ」に最初に現われました。彼女はフランソワーズ・プレボーというロイヤルアカデミーで生徒になりましたが、年長の学生から妬まれてしまいます。しかしそれにもめげず一進に突き進んで上達しました。1725年ジョンリッチはエントラクトの余興で彼女の弟との共演作「ラブラストシフト」お見てロンドンに招きました。彼女は弟と一緒にキャリアを重ねた。後期には彼女はキャラクターダンス団でおどりました。彼女は二年間ロンドンにいてオペラで踊ったパリに戻りました。彼女はソロをエントリーして踊って数ヶ月バレー団にいました。しかしながら、彼女は役一年間で大変才能のあるダンサーとして認められました。この時バレーのライバル、カルマゴと一緒に双方特色のあるダンサーになりました。この数年間パリとロンドン行ったり来たりしました。彼女は著名で知性的で手紙によって男性と交際しました。彼女はダンスの改革者でもあった。1734年に彼女のプロダクションでピグマリオンを行なうためにロンドンに現われました。彼女は下がっていてドレスを捨てて、モスリン風の髪型と衣装でおどりました。これは自然な表現の裏づけであり彼女の信念でもありました。」とまだ文は続くのですが今回はここまで添削をお願いします。英語に詳しい方遠慮なく添削をお願いします。
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ものすごく大雑把でお恥ずかしいですが、ご参考になればと思い、簡単に直訳してみました。あちこち間違えているかもしれませんが、大目に見て下さい。 - - - - - - - - - マリー・サレエは、その時代の最も傑出したダンサーの一人で、曲芸師の娘だった。早くからダンスを学び、1718年にサン・ロランにおいて、レサイェ(Lesaye)のオペラ・コミック「王女カリスム(La Princesse Carisme)」でデビューした。何年もの間、あちこちのカーニバルに出演した後、1921年にパリのオペラ座での「ヴェネチアの祭(Les Fetes Venitiennes)」の公演に出演した。王立アカデミーでフランソワーズ・プレヴォストの教えを受けるも、先輩格のダンサーの妬みを受けたため、急速な上達には至らなかった。1925年にジョン・リッチの誘いでロンドンに赴き、「Love's Last Shift」の幕間の踊りを、初めて弟と一緒に踊った。彼女はダンサーとして、ずっと弟と一緒に踊った。後に彼女は「Caracteres de la Danse」という作品で踊った。ロンドンに2年間いて、それからパリに戻ってオペラ座で踊った。初めは導入部のソロの踊りだったが、続く数か月間は他の踊り子たちと一緒に踊った。しかし、1年の間に、優れたダンサーであることが認められた。カマルゴ(Camargo)との競り合いは呼び物になったが、それはこの頃に始まったことである。それから数年の間、彼女はパリとロンドンの間を往復した。彼女は秀でた知性の持ち主であり、その時代の文学者と親交を持った。 彼女はバレーの改革者だった。1734年、彼女は自身の振付けによる「ピグマリオン(Pygmalion)」に出演した。 その当時の踊り手が身に着けていた煩わしい衣装ではなく、モスリンのコスチュームを身にまとい、髪の毛を下ろして、装飾類を身に着けずに踊った。 これは彼女の、バレーは自然な表現をすべきだという考えに基づくものだった。
お礼
回答ありがとうございました。間違っているなどとんでもない英語に対してまったくのど素人の私にとっては大変助かりました。逆に私の英語力の無さを恥じているところです。長文をここまで訳していただいて本当に手間を取らせてすみませんでした。後は数行なので何とか訳して分らないところは再度投稿になるかもしれませんががんばろうと思います。貴重な回答本当にありがとうございました。