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予定説信者において、意味がある努力は存在するの?
予定説では、救済されるかどうかは信者の努力と無関係に前もって決まっているということですが、すると、寄進ができない貧者、罪人、のらくら者、にとって都合がいいですよね。その場合には信者は何も努力をしないのではないかと思うのですが、努力するとしたらどういう努力をするのでしょうか?
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注意点として世代と財ということを考えてください。 また 努力はどちらかといえば、 「自分が楽しむ」という点で 人生の中のゲーム的要素です。 基本的にこの「信者ルーチン」の背景には、 信仰・自己の人間性を深めないまま 欲望を追求していくという古典資本主義的思考・ 付随的行動があります。 若いうちはやりたいことをやって人からむさぼりとる。 他人を蹴落とすことで地位を築く。 (奪いとれなかった者も それを多かれ少なかれ「しよう」と思ったこと・ またやらずに終わってしまって・もしくは「できなくて」後悔する というように考えられ 大差はありません。) でも 年をとってくると大事だと思っていたものが揺らいでくる。 不安になってくる。 生意気な若い世代にそのまま譲るというのも癪に障る。 昔はぴちぴちもしくは、がちむちだった もともと他人 のパートナーに全部くれてやるのもどうか とおもう。(ただ逃げるやつさえいますから) こう思った時点で人生を考え直したとき 多くの人は 「宗教体験という言葉を 聞いたことさえない」というのが通例なのです。 この無知に付け込んでいるのがだれかは、ご存知でしょう。 死後の世界で幸福になれるというなら で10あるうち0.5ぐらいは、寄付するかという気になる。 現実的な話として ひょっとしたことで、お金をすってすからかんになる・ 失うことがあるので なおさらです。 いずれにしても、 努力をするとかキャリアをつむとかのフェーズは、 自己の宗教的興味がたかまる「前の事象」であるというのが 話のからくりです。 はなしはかわりますが、 基本的に何か不思議な体験・まれに見る体験をしてみたい と思うことが、実は人間の本能のひとつである という事実は あまり強調されることがありません。 生物ににバイオリズムがあるようにそれくらい自然に 人間にはこの「体験してみたい」という欲求が隠れています。 この「興味の波」を波線で表すとすると 人生の岐路(波の高い頂点部分)は実は数少ない・ 指折り数えることができるほどの頻度であり、 「自分を変えたい」と言う欲求と 「何かこうスカッとすることを体験したい」というおもいが 相互に作用し、「何かを信じてみようか、 と思う」ということにつながるのです。 これが 「努力という言葉自体がが、予定説にとっては想定外である」 ということの根本理由です。 (運命ということと結び付けてもこのことがいえます) つまり、救われるために努力をしているということは 「想定外」である ということです。 子羊たち= 弱者は救われないのが、世の常。ほふられるのを待つばかりです。 予定説は、到底救われない者に 「もしかしたら救われるかもね」といっているだけなのです。
- kigurumi
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予定説を提唱する人は必ず、「自分は救われるルートを辿っている」と信じているからですよね。 信じていなければ、がんばって予定説提唱活動しないじゃないですか。 中世の頃、聖書のエピソードを持ち出して、教会に寄付することが、救われる道であるかのように人々を誘導したんですね。 キリスト教は、侵略先の地主をまず取り込んで信者にした。 地主は農奴を抱えているので、農奴が治めた作物で、地主は働かなくて済むわけです。 暇をもてあまして、いろいろやるわけです。 で、どんなに豪勢な暮らしをしても、死んだ後のことが気になりますよね。 そういう不安につけこみ、「子供を神の僕として差し出す貢献をすると、さらーに ポイント加算され、より確信がもてるでしょう」、、、って、なんかカルト宗教の集金と一緒ですが、、、、 貴族とか特権が与えられた地主は、子供を聖職者にするんですね。 家から聖職者が出るってのは、一種のステータスになるんです。 で、その地主が死ぬと、遺産が残りますよね。 普通は子供に行くのですが、子供が聖職者の場合、財産を持たないので、聖職者の子供に行くわけです。 聖職者の子供が一般人だったら、その子供が祖父の遺産をひきつぐ。 これじゃ教会は儲からないってことで。 ってことで、聖職者を独身制に変えたんです。 一応 聖職者は神の花嫁になったので、神と既に結婚したって理論にしてありますが。 しかし、既に結婚している聖職者もいた。 神の祝福は子沢山なので、子供が沢山いる人ほど神から祝福されると考えられたので、ユダヤ教の聖職者は結婚していた。 それが当たり前だったのですが、キリスト教は女性を教会から遠ざけたかったので、まず聖職者の中から女性を排除し、結婚している聖職者に離婚を迫ったんです。 神の祝福を阻まれるとして聖職者の中には離婚を受け入れなかった人もいた。 すると公開拷問とかやって、辱めを与え、暴力に屈して離婚させようとした。 イエスの公開拷問と同じことをやって暴力で支配しようとしたんですね。 そういう虐待を教会からされても、イエスも同じ目にあったからと、耐え忍んだ聖職者もいたでしょう。 そしたら、どうしたと思います? 「この結婚は最初から無かったので、独身だ」ってしちゃったんです。強引に。 教会が結婚を認めていたが、教会が最初から結婚は無かったとしたことで、結婚は無効になったんですね。 なんか まさに神への謀反、神からの祝福を信者にさせないぞ、絶対阻んでやるという強い意志が無ければできない。 まるで悪魔の業のようですが、、、、、。 自由を徹底的に奪い奴隷とする。 まあ この宗教のモトネタでは、神が自分の奴隷ほしさに人間を作ったってなっていますから。 「人間は神の奴隷である、従って神の僕・奴隷である聖職者は一生神に仕えるべきで結婚すなーー」 んーー こわーーーっ 貧乏な人が全財産を寄付したら、イエスが褒め称えたってエピソードがあるし、全額を寄付しなかった信者を神が殺したってエピソードがあるでしょ? 全額を欲しがる悪魔がいる? んなわけないですよね。 ローマはオウムのように信者の財産ほしさに、信者を殺害したとしてペトロを逮捕している。 ところが、ペトロ強し、看守を洗脳して、まんまと脱獄に成功している。 一応 神が救ったので看守はペトロを逃したってなっていますが。 >寄進ができない貧者、罪人、のらくら者、にとって都合がいいですよね。 宗教に縛られず、自分の信じるものをもって、自由に生きられる。 ええ、本望でしょうね。 権力や財産があると、守ることにエネルギーが使われ自由が奪われる。 そんな守るもん最初から無いと、失うものがないので、自由人なわけです。 のらくら者だって、自分が信じるものがあれば、それが実現するように努力はすると思いますよ。 意外と側から見るとのらくら生きているようで、話してみるとすっごい哲学を持っていたりする人もいる。 そういう人に出会うと、表向きの言動に騙されていた~ ってニヤリとしちゃう。 努力じゃなくて、それが唯一の道で、快い生き方なので、苦労ではなく楽しみとしてやる。 救われないとか死後天国に行きたいなど色(欲)が出ると、たちまち自分の信じるものを後回しにして、救われるとされる方にエネルギーを使い果たし、結果 自分が決断した人生じゃなく、他人に決められた他人のための人生に一生を捧げることになっちゃう。 死の間際、はて 私の人生ってあったのかしら??? と思う信者もいるんじゃないかと。 いやいや 神のために一生を捧げたので本望 と思うのであれば、それも一つの人生でしょうね。
- b26354
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予定説の論理では人間の一生はすでに神に定められています。ということは自分が予定説に出会い、それを信じていることは神が定めたことに違いない。だから自分は神に選ばれたかもしれないと「神の予定」を感じて信仰心がさらに増していき、けっして冷めることはありません。もちろん、どんなに信仰心を募らせても自分が救われるかどうかは結局のところはわかりません。しかし、分らないからこそさらに一所懸命に信仰するのです。
お礼
ありがとうございました。推測するに、今は自分が選ばれているかもしれない。だからといって信仰心を強めないでいると、選抜グループから落とされるかもしれないので信仰に努力するということかなと思うのですが、それでは、予定説が完璧ではないと思うのですよね。