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人生のレールと無駄な抵抗

人生というものはうまくできていて、 自分が学ぶべき事を非常にうまくお膳立てしてくれるものです。 しかし、人生が用意するお膳立てに対して、人はとかく自己主張してそれに対して対立するようです。 いっそのこと人生が用意してくれたレールに従って、自分の学ぶべき事、なすべき事をした方が快適な列車の旅が送れると思いますがどうでしょうか。 無駄な抵抗はやめて人生に身を任せるのが一番合理的ではないでしょうか。

みんなの回答

  • shikaruni
  • ベストアンサー率20% (19/95)
回答No.7

お礼ありがとうございます。 何だかさらけ出させてしまったみたいで、申し訳なく、また貴重なお話に感激しています。 ジッドゥ・クリシュナムルティさん、知りませんでした。 もっと知られても良さそうな人みたいですね。 幼い頃、30歳くらいになったら自殺しようと考えていたので、ちょうど数年前からコントロールできなくなって転機みたいです。幼い頃の勘は、ある意味当たっています。 (こんなこと書いて何が言いたいのやら、自殺という言葉に少し共感しました) 生まれ変わりの時期みたいです。 その他もろもろ、仰る通りです。 過程も非常にわかりやすく、今、まさにそれをしているところだと思います。 違うかもしれませんが、やっぱり、"無"とか"空"とか、そのようになっていくのでしょう。 羨ましい限りです。 うまく人生のレールに乗れるよう、自分に期待します。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人生には転機があるらしいのでうまく切り替えていきたいものですね。

  • shikaruni
  • ベストアンサー率20% (19/95)
回答No.6

"なぜ美人は好かれるのか"QAを読んでいて、 私達は魂の存在で、愛で出来ているから、真善美が大好きです。と過去に回答したことを思い出しました。 しかし、 なぜ真善美が好きなのだろう⇔愛で出来ているから なぜ愛で出来ているのだろう なぜ魂があり、なぜ光の存在(神や仏とも何でもいいですが…)があるのだろう と問うと、返ってくるのは 存在するものは存在するのだから、受け入れなさい。 です。 そして、何事も、 "受け入れなさい" だけです。 "許しなさい"とも言い替えできます。 ある程度、実感を伴って理解しては、いつの間にか忘れ、これの繰り返しばかりの人生です。 成長するとは、しんどいものです。 時々、疲れては休み、それを許しなさい。です。そしてまた、人生を生きるというお仕事です。(これは言い方が良くないかもしれませんが、あの世からしたら、この世の人生はお仕事です。お仕事中に、休憩で、時間浪費です。) 光の存在やその他もろもろ、"受け入れなさい"について、質問をたてようかと思いましたが、たてても、"受け入れなさい"と"許しなさい"だけが回答なので、こちらに感想を述べてみました。 いや、たてても面白いような気もしてきます。 人生のレールは、"受け入れなさい"と"許しなさい"ばかりです。 哲学の言葉遊び(エゴをエゴで固める人達)に、馬鹿馬鹿しく、疲れてきました。 いい面だけ吸収したいと思います。 と言って、shift-2007さんはまた高みから、助言なさるのでしょう… 回答するんじゃなかったかな… でもわかってくれそう… と、これまたジレンマが… いちおう、まだファンなのでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 少し私の身の上話をしましょうか。 私がこの種の世界(哲学、宗教、心理・・・呼び名は何でもいいのですが)に興味を持ったのは確か17歳くらいだったと思います。 ジッドゥ・クリシュナムルティという人物はご存知でしょうか。彼の本を読んだのがその始まりです。 当時の私はずいぶんやさぐれていまして、自分が死ぬとしたら自殺だろうと思っていました。 感受性という意味では敏感であろうと自分でも思います。一時的には非常に強いうつ状態(当時の私はうつという言葉は知りませんでしたが)になり、心(感性)がむき出しになったような状態で生活した事もありました。 あらゆる言葉、映像、刺激が直接心に当たる感覚はshikaruniさんも経験があるかもしれません。 だからと言って自分の周りに壁を作って自閉的な状態を作ることは本質ではないのは自明ですね。 そこで、感受性は否定せずにこの心の痛みを取り除く方法はないだろうかと考えると、それは『理解』しかなかろうと思うのです。 自分はどうしてそう考えるのか、どうしてそう行動するのか、他人はなぜそのように振る舞い、行動するのか、人間とは何か、人生とは何か・・・・・・ そういったこと一つ一つを自分の感受性を使い気づいていくことで理解を深めようと思うのです。 その道具として私は哲学と宗教と心理学を使っています。 もちろんそれについて特別な勉強しているわけではなく、自分のやっていることを分類するとそれらに該当するというだけです。 >、"受け入れなさい"と"許しなさい" 私はこれを「あるがままを見て理解しなさい」と解釈します。 受け入れることは難しいですが、理解なら可能であると思いますし、理解したなら受け入れ安いと思います。 自分自身を理解することは自分自身を解体することになります。いわゆる人間的な成長とは知識や経験を積み上げていくことなので、それとは逆のベクトルになるかと思います。 感覚的に、私には「私」という存在がだんだん小さくなっていく様な感じがします。それに伴い「私」の自己主張は少なくなっていき自分に振り回されなくなりました。 私にとって最も厄介な存在の「私」を理解することが私にとっての人生の意味であり、人生が用意してくれたレールだと思っています。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

無駄な抵抗といえば、生まれてくること自体もそうですよね。 いずれ死んでいくわけですし。 無への抵抗として有が生じる。 そのことが生命力の始まりなのかもしれません。 このモチベーションが属性として、人生においても引き継がれるようになっているということなのでしょうかね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人生の力を信じていない人が案外多いようです。 無駄な抵抗はやめて自分の人生を生きればいいのにと思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.4

終わり良ければすべてよしということわざがありますが、すべては結果論という言い方もできると思います。またなるようにしかならないということもあります。しかし無駄な抵抗というのもやはり結果論ではないかと思いました。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 厳密にいえば無駄なことなどないのですが、 人知を超えたものがそこにあるのだからそれに身を任せるのもよかろうと思うのです。

  • g-mani
  • ベストアンサー率33% (37/112)
回答No.3

人生をレールと列車に例えるなら・・・ 人生のレールは最初から「誕生」という出発駅と「死」という終着駅を結ぶようにすでに敷いてあります。 そして貴方が寝ても覚めても列車は時間というスピードで常に走り続けています。 ただ人それぞれ途中で経由する駅が違うのです。 途中に立ち寄る駅は、今この時間も無数に点在する分岐点を切り替えるかどうかで決まります。 用意されるのはその分岐点ですね。 なので分岐点を自分で見つけるのか?他人が決めたルートで駅を辿るのか?ということなのでしょうか? 他人の決めたルートでは、出発駅から終着駅までの経由する駅が全てわかっています。人生を列車に乗った旅だとするなら・・・これほどつまらないものは無いでしょう? 逆に自分で経由する駅を探しながら旅をするのならそれは先の見えない波乱万丈な旅になること間違いなしです。 前者が良いという人、後者が良いという人両方存在します。 それを決めるのは質問者様自身です。 ただ忘れてはいけないのは列車は今も粛々と前に進んでいます。 人生の参考になれば幸いでございます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >他人が決めたルートで駅を辿るのか? 他人ではなく人生です。 ただ、人生は学ぶべき機会を与えているのでレールという表現は正しくないかもしれませんね。

noname#160321
noname#160321
回答No.2

うん、レールが見えればね。^^

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なまじ見ようとするから・・・・・・

noname#164200
noname#164200
回答No.1

人生がうまくできているかどうかわかりませんが、 私は、なるようにしかならないと思っています。これから先に起こる事 は既に決まっていると思っています。 つまり、人生に身を任せているって事になるのかなー? これから起こることから逃げずに自然体で受け入れて対応していく。 確かに合理的?な気がします。正解かどうかはわかりませんが。。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人生は信じるに足るものだと思います。