この問題は可也根が深いです。
戦後早々に占領軍が漢文教育を禁止しようとしました、理由は他国の古典を公的教育で教える必要があるのかと、漢字を多く無茶暗記せないといけないからだと云う事のようです。何でもかんでも唯唯諾諾と無茶暗記をさせる教育が戦争を引き起こしたと云う意見は当時は可也有りました。
又、国語の表記として、ことばは話す事が基本。漢字で見ないと解らないようの言葉はなくしてしまえと云う意見(表音派)と日本の伝統を守る必要もあるし、何よりも書いたものにはアクセントなどは無いから漢字は必要である(表意派)との二者が初期の国語審議会では争いました。
その妥協として日常普通に使う漢字を「当用漢字音訓表」として公布しました。
教育現場としては、義務教育で教えなければならない基準が必要でした。と云うのは戦前戦中は国定教科書であったから全国統一の教科書でしたが戦後は民間で作った教科書を使う事になったからです。それには「当用漢字」から択び学年に配当した「教育漢字」と云うものがつくられました。
又、新聞、雑誌は義務教育のみの人でも読めなければ読者は限られてしまうのと、常備する活字の種類を少なく済むと云う事からこれに同調しました。
只、これ等は飽く迄も義務教育での基準、法律や官吏の文書の基準であって、文芸や個人の創作については何等拘束する処はなかったのです。処が出版社や新聞社は資材の関係や無学の人にも読めると云う事で「自主規制」をはぢめてしまいました。これが今日に続く制限漢字と云われる弊害です。
その後、「当用漢字」は改定されて「常用漢字」となりましたが、実情は変わっていないようです。更に「ゆとり」教育とかで「教育漢字」すら碌に読めない層が増えた所為もあり、カナ書き益々目立つようになったと云う処でしょうか。
「全部カナで書け」…表音派の一番過激な人はそれを狙っていたようです。中には漢字どころか仮名も止めて全て羅馬字にしろと云う人も居ました。
「意味がある」と云うよりも、現在は漢字が読めない人が増えているし、学校も教える事が多いので、最低限の基準を設けましょうと云う事です。只、最近漢字検定がブームになっていますが、それは一部の事で漢字はめんどくさいものと云う意識が蔓延っているようです。まあ、これは入試対策で瑣末の事まで書き方を五月蠅く云うのでうんざりすると云う事も原因でしょう。
記者はもう少し漢字を生かして使えないと思っています。昔は振り仮名があり、「亜砒酸」ならば、「砒」に「ヒ」と振れば済む事だと思っていますが、振り仮名は印刷にせよ放送にせよ面倒なのか煩雑なるのか、最近では殆ど行われていません。昔は大衆向けの講談本や児童書などは総振り仮名でそれで結構漢字の読みを覚えたものです。
お礼
ありがとうございます。 漢字を必要と認めるならば中途半端な制限を設けるべきではないと思うし、廃止が妥当と考えての政策ならば、当用漢字導入以来半世紀以上経った現在、未だに当初と大差ない基準を設けて時々ちょこまか弄っているのは解せません。180度逆方向を目指す考え方にそもそも妥協点などないはずなのに、なぜこんなおかしな状態を続けているのか不思議でなりません。 常用漢字の廃止はアメリカの占領政策の否定を意味することになるので、形だけでも続ける必要がある・・・ もしそんな理由でこの制度があるのだとすれば、まったく迷惑な話だと思います。 > 昔は振り仮名があり、「亜砒酸」ならば、「砒」に「ヒ」と振れば済む > 事だと思っていますが‥ そう言えば戦後しばらくまでの新聞には漢字にルビが振られていましたね。まさか常用漢字が出版業界の都合で設けられているということはないでしょう。
補足
誤解があるといけないので補足しますが、私は漢字保護・廃止何れの側にも組するものではありません。極端な話それが我が国民の総意であれば、従来の日本語は “古語” として扱い、国連公用語の何れかを新たな日本の国語に採用するというような選択肢もあってよいと考えています。 国語政策はもちろんその筋の一流の方々が合議の上で決めているのでしょうけれど、最終的に決定されるものが本来相容れない意見同士を無理やり融合させた結果だとすれば、その基本方針が一般国民にとって極めて解かり難いものになることは否めないと思います。 妥協の産物は、結局誰一人満足させることが出来ない そういう当り前のことを近頃改めて痛感しています。