あまり学術的な根拠のある話ではないので、詳しく知りたかったら本などの文献をあたってみるべきかと思います。ただ、ふと思ったのは、
人間に限らず、生物には”種”としての生存と、”個”としての生存の二つの生物学的ないきる目的があるでしょう。その中で”種”として生きるためにはお互い協力し合い”社会”の中で生きていくほうが断然有利となるでしょうが、ときにこの社会というのは”個”としての生存をも危険にさらす可能性があるのです。この”個”というのは別に一人一人に限ったことではなく、国単位での”個”(日本、中国、北朝鮮とか、日本外交には”国益”が重要とかいわれますよね)もあるわけです。極端に言えば、人間一人の個体をとってもたとえば人間の体のなかには無数の細菌とかがすんでいて(たとえば大腸菌とか)、これらもあわせて一人の人間とすることもできなくは無いわけです。もっと極端にいえば、もともと真核生物の細胞のオルガネラの一部はことなる菌同士が一つに共生したのち進化した形といえるわけです。また、人間の社会とは異なり、蜂の社会というのはそれぞれの蜂が異なる役割をするため蜂のコミュニティ一つをとってのみ蜂が生きられる点、単純な蜂一匹と人間一人では個体の生存という点での考え方が結構違うのです。結局のところ、免疫ではないですが何が自分で、何が自分でないのかが曖昧なのであって、いかなる目的であろうと行き着くのはその個体ないし種自体が繁栄し続けることがとりあえずの目的といえるのかもしれません。
仲間同士の殺し合いが人間だけに特に多いとは思いませんが(たとえば、ザリガニを飼ったことがあればわかりますが、親は子供を生んでも平気で食べてしまったりしますよね。人間ではありえません。)、一つ大きく異なるとおもうのは、人間だけがおそらく”自覚的な意思をもって”仲間を殺す点にあるのかと思います。先ほどのザリガニの例でも、おそらくザリガニに意思は無いでしょうから、本能としておなかがすいたから食べたに過ぎないのかもしれません。しかし人間の場合、戦争や殺人では明らかに本能とは別の点において殺意を持って仲間を殺すことが多いのです。
こう考えてみると、意外と面白そうなテーマではありますね。まあ、結局のところ、様々なレベルにおいて”個人”と”種”の生存という目的が非常に不安定ながらも均衡をとって生物というのは存在していられるのでしょう。どちらかが他方を脅かすほど強くなりすぎればその均衡を維持するために種や個を攻撃する行為にでるのかと。そのときに、人間が特殊なのは、”個”の持つ力というか影響力というかが異常に発達していることによるのではないかと。こう考えてると、昨今の”自己責任”とか”個人主義”とかもどうかとは思いますけどね。一方で、”KY"は排除される社会にもなってて、不思議なよのなかですが(笑)。