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丙巡・大淀型について

旧日本海軍の軽巡洋艦「大淀」型ですが、潜水戦隊の旗艦として長大な後続力を生かして敵艦隊の前方海面に進出し、高性能の索敵機を飛ばして敵艦隊を捕捉、麾下の潜水艦に命じて反復襲撃させるという構想ですが、海洋の真っ只中で単艦でウロウロしていればたちまち敵機に捕捉されて撃沈されるのではないでしょうか。 この戦術はもともと無理なような気がしますが…。

みんなの回答

  • makoji
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.4

大淀型が敵偵察機に発見されたとしても、当時のショボい爆撃機で有効な攻撃が出来たのか。大淀型の計画当時はそう考えられていたでしょう。それが大戦が始まるまでに、急激な技術の発達で航空機が戦争の主役になっていたのです。 もう一つ。敵空母の爆撃機は重い爆弾を搭載して大淀型に襲いかかることになります。それだけに空母搭載機の作戦範囲はそんなに広くない。だから大淀型が発見されても、敵攻撃機は飛んでこれない可能性が大ですね。

  • toro321
  • ベストアンサー率29% (1222/4138)
回答No.3

潜水艦で、敵艦隊を発見することはなかなか難しいです。 このあたりにいるだろうと見当はつけて出撃しますが、各艦を会敵位置まで誘導してやる必要があります。そのため、この巡洋艦が考えられました。計画時には、高角砲のみ連装4基、3連装25mm機銃6基。敵艦を発見するために水偵を6~10機、カタパルト1機、速力36ノット、5000トンの計画です(昭和14年の(4)計画で2隻計上されました。意味合いとしては、通信能力を高めて、潜水艦を敵艦に会合させることと、相手航空機からの攻撃に対してはかなりの兵装を割いていることです。 結局、計画は大きく変更されて、阿賀野型とほぼ同じ艦容となり、使い道もなく、その通信能力と速力から、輸送艦にされたり連合艦隊の旗艦にされたり・・・。 初めの計画通り防空巡洋艦のようにしていれば、終戦近くでも使い道はあったと思うのですが。 ちなみに言えば、単艦でうろうろしてれば、航空機に見つかりますが、攻撃はそんなに受けなかったと思いますよ。 艦載機の相手は空母ですからね。こんな小さな巡洋艦を多数の艦載機で追いかけ回すことはないと考えられていたのでしょう。 ただ、追っ払うには兵装が要りますから、高角砲を8門、機銃を18機も装備したのだと思います。それ以外の艦隊決戦の兵装はありませんので。(これを大きく変更して、15.5cm砲を6門積んで軽巡になってしまうのですが)

suizei
質問者

お礼

ありがとうございました。お礼が大変遅くなりました。 このような艦隊決戦で計画通り潜水艦が敵艦隊に襲いかかる機会がなかったのが残念です…。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.2

第二次大戦前の日本海軍の対米作戦では、「アメリカの海上航空兵力」を無視したような構想が多くあります。 例: 海大型(海軍式大型)潜水艦は、水上速力に重点を置いた設計で、水上で23ノットを発揮することができました。 この23ノットという水上速力をどう活用するのかというと、 「白昼、浮上して潜望鏡を一杯に上げ、敵艦のマストの頂部を視認しながら、23ノット(軍艦の巡航速度は早くて18ノット程度)で追いかける」 という、大東亜戦争では一度も実行されなかった非現実的な方法が真剣に検討され、訓練されていました。 浮上した潜水艦というのは空からの攻撃に極めて弱く、敵飛行機に発見されたら小型爆弾一発、航空爆雷一発で撃沈されかねない存在です。 また、敵飛行機に見つかって所在を把握され、敵駆逐艦などの対潜艦艇が急行してきたら、水中に潜んで耐えるしかありません。 敵艦隊には空母や水上機があって哨戒機を周囲に出しており、「浮上潜水艦による敵艦追尾」など出来るわけがないのは実戦が始まれば誰の目にも明らかで、「海大型潜水艦の水上23ノットの高速力」は、日本が制海権を握る海域で移動する時に役に立つ程度でした。 一方、ドイツの「ポケット戦艦」が第二次大戦の前半期に外洋で通商破壊を行ってかなりの戦果を挙げ、またドイツのUボートがイギリスを飢餓状態に追い詰めるほどの通商破壊戦果を挙げたことはご存じと思います。 ポケット戦艦やUボートの活動については、連合軍の目に付かない海域に待機し、それらの軍艦に補給を行うドイツ補給船の存在がかなり貢献していました。 これらのドイツ補給船は、最終的には連合軍に見つかって皆処分されてしまいましたが、意外なほどに連合軍に見つからず、海上に存在し続けました。今のように「偵察衛星」なんてものがあれば、こんな「秘密補給船」など存在し得ないのですが、レーダーも未発達で敵を見つけるのは目視が頼りという時代には、海上で敵の目をくらますのは必ずしも難しいことではなかったわけです。 大淀型巡洋艦の運用思想は、アメリカの海上航空兵力を過小に評価したものではありましたが、当時の「海上で一隻のフネを捕捉することの難しさ」を考えると必ずしも非合理ではない、といえたでしょう。 また、大淀型巡洋艦2隻とその指揮下の潜水艦群は、「アメリカの戦艦十数隻を基幹とした大艦隊が太平洋を押し渡ってくるのを迎撃する」いわゆる「漸減作戦」の一環として戦うものです。 アメリカの戦艦を何隻か撃沈破して、大淀型巡洋艦2隻と2個潜水戦隊が全滅しても構わない、というような計算もあったでしょう。 「日米決戦の時に一度だけ使うつもりの軍艦」が大淀型であった、とも言えるかもしれません。実戦ではそんな機会は訪れなかったわけですが。

suizei
質問者

お礼

>レーダーも未発達で敵を見つけるのは目視が頼りという時代には、海上で敵の目をくらますのは必ずしも難しいことではなかったわけです。 >大淀型巡洋艦の運用思想は、アメリカの海上航空兵力を過小に評価したものではありましたが、当時の「海上で一隻のフネを捕捉することの難しさ」を考えると必ずしも非合理ではない、といえたでしょう。 ということですね。ありがとうございました。 確かに漸減作戦での潜水艦追尾は非現実的な戦法で、開戦時のハワイ包囲で早くも破綻したわけですが…。

回答No.1

大淀が計画された時代は航空攻撃主戦ではありません。また、潜水艦部隊は独立して行動するのではなく、艦隊と共に行動するという考えにある作戦です。 米軍のオレンジ作戦とそれに対抗する日本海軍の戦術を調べると良いです。

suizei
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ただ、まだ空母機動部隊はないとしても、米戦艦部隊は空母を随伴しているわけですから、依然として危険極まりないと思われるのですが…。 また日本の作戦構想では潜水艦が艦隊とともに戦うのは当然ですが、それにしても「先遣部隊」としてハワイ近くまで進出するわけですから、他の部隊の援護は期待できないと思われます。 オレンジ作戦については何回も改訂されているでしょうから、昭和10年代くらいのものを何とか調べてみます。

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