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オネーギンとレンスキーの同性愛??
こんにちは。 まず,妙な質問タイトルにつきお詫び申し上げます(汗) プーシキンの原作をもとにしたチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を観て来たのですが,そういう関係だったのです,ご両人が・・・。 オペラの世界では演出のための台本の読み替えは頻繁に行われていて,これもその一部であることは想像できるのですが,私の疑問は,原作の中にそれ(同性愛)を示唆するような内容があるかどうか,です。 確かにそのように受け取れる内容でもある,そう言われればそんな解釈もありかも,そんな演出は原作に対する冒涜である,などなど,皆様の主観でも結構ですので,よろしければお考えをおきかせください。 *なお,原作を読んでいないことを前もって再びのお詫びとともにお断りしておきます(海外在住のため,日本語の原作が入手しにくい環境です。おそらく11月に日本に行く予定があるので,その時には手に入れられるものと思います)
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- bagnacauda
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話は飛ぶんですが、僕は中学生の頃まで蝶々のコレクターでした。 当時、なんとか採取したいと考えていたのは‘ヒサマツミドリシジミ’という緑色の鱗粉の飛翔能力が余り高くない、日本最希少種といわれる蝶でした。 やがて、このヒサマツさんは、その食草と生態が明らかになるにつれ、‘幻の蝶’とは呼ばれなくなったみたいなんだ。 その頃、もう僕は蝶に興味なかったけど、、、 音楽も文学も、想像の世界で遊んで「謎」のままでいるのも楽しいのかも? このオペラの台本は、当初はチャイコと‘お相手の男性’の二人で書いたみたいですね。 それにしても、ディアギレフもパリに出てからは同性愛とワインとケーキだけで暮らしたらしいし、音楽家とか芸術をプロデュースする人間って、凄い事考えるね! その演出は!反則です!(笑) ヒサマツミドリシジミの学名には、僕の記憶が正しければ、‘ゼフィルス’か‘ネオ・ゼフィルス’というものが入っていたと思う^^♪
- zephyrus
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調べることもなく、ぼーっとして考えてみたんですけど、 この演出はやはり、プーシキンからでなく、チャイコフスキーから引っ張り出されたものですね。 それにチャイコフスキーのは、三枝成彰氏などに言わせるとエロティック(色気)が足りないらしいし(笑) 『フィガロの結婚』を彩るケルビーノのような存在、 『薔薇の騎士』におけるオクタヴィアンのような妖しさが不足してるってことでしょうか(爆) アラン・ドロンを一躍スターにした『太陽がいっぱい』も、見方によってはソドミーの映画である。 オネーギンの「決闘」を「殺人」に置き換えれば「太陽がいっぱい」にならないこともない。 http://www.k2.dion.ne.jp/~ken1ro/texts/movie5.html プーシキンの韻文小説は 無為でデカダンな「余計者」としてのオネーギンと、 ロシアの美徳の象徴とも評されるようになったタチヤーナとの、 互いにすれ違う恋の顛末がほとんど唯一の縦糸になっています。 ここのところをよく示すのが、私見では、 小説第三章の「タチヤーナからオネーギンへの手紙」(タチヤーナの恋の告白)と 最終第八章の「オネーギンからタチヤーナへの手紙」(オネーギンの恋の告白)とが対置の関係になっていることです。(小説を読まれたときに判断いただければと思います) 今回たまたま見つけた下記サイト、これの特に「作品とあらすじ」の後半部分は 原作の文学史的意義と、オペラとの相違点が簡潔にまとめられていて感心したものです。 http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Tchaikovsky_Onegin.htm プーシキンはドン・ファンだったし、デカブリストの友人だったし、 もし万一ソドムの住人だったとしても、あらかじめ注意深く表現から排除したでしょう。 これより後年、十九世紀末に、時代の先端に立ち文壇の寵児であったオスカー・ワイルドが 一夜にして獄につながれた、あの有名なスキャンダルがあったほどですから。 キリスト教世界にあっては同性愛は長らく絶対のタブーでした。(イスラム圏も) おおやけに、かなり自由に語られだしたのは、ほんの近年のことですよね。 ま、それはそれとして、さまざまな解釈や可能性を探ってゆくというのは いわゆる、読み直しをやっているということで、それが妥当なものなら、 原作の間口をより広げ、深みを増すきっかけになる。 たとえばオペラの『ドン・ジョヴァンニ』で、 ドンナ・アンナはやっぱり最初にドン・ジョヴァンニに操をとられちゃってたのかな、 と考えるのは、まことに下世話な勘ぐりと取られても仕方ありませんが、 これは登場人物たちが織りなす心理的伏線となり、結果、ドラマの彫りを深めます。 そうしたことで原作がグズグズになるようなら、その原作は弱いということです。 作品に神聖があるというのなら、それは見いだされることによる神聖であって、決して初めから具えられている神聖ではないと思っています。 最後に、 プーシキンの日本語訳は原作の韻文に準拠した行わけの訳と、それにとらわれない散文訳とがあります。 入手しやすい岩波文庫版は池田健太郎の散文訳で、私もこれで読みました。 行わけの方は、たとえば『完訳エブゲーニイ・オネーギン』小沢政雄訳 群像社1996年があります。 以上すべて、まったくのご参考まで。
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こんにちは。 ノーマル版(ぉぃ)でも,タチアーナの手紙の場の音楽やレンスキーの決闘前に歌われるアリアをはじめとする音楽の美しさ自体は素晴らしいものだと思いますが,純粋で哀れなレンスキーに同情して,タチヤーナの高潔を称えて,いけすかないオネーギンざまあみろ・・・では,確かに少々エロティシズムには欠けるか?(笑) 原作とオペラの差異については読んでのお楽しみとして,演出家なりにそれを補おうとして,あるいは,違った視点から「オネーギン」を見るために,原作や音楽そのものには含まれていないであろう作家・作曲家の人格・性癖(爆)等を引っ張り出してきた,というのもあるかもしれませんね。 今回観た演出では,幕の構成も若干変わっていました。 単独の管弦楽曲としても有名な「ポロネーズ」は,通常の演出では場面転換のための音楽であり,ストーリーとは深い関係のない観客へのサービス曲という側面もあったと思うのですが,今回は,レンスキーを射殺した直後にポロネーズの勇壮なファンファーレがはじまり,何かしらの苦悩にのたうちまわるオネーギンの周りをゲイの一団が(わざとらしく伝統的なポロネーズのステップを使って)踊る,という演出になっていました。 音楽と情景のねじれ現象は,なかなか見ごたえがありましたよ♪ こういった読み替えに耐えうる,ということが,原作や音楽にそれだけの力があるということを示しているのかもしれないな,と。(質問にあたり調べていて発見したのですが,オネーギンがレンスキーを殺した後で,彼の死体とポロネーズを踊る,という演出もあるらしいです・・・) *ただ,ポロネーズのあとはブーイングを浴びてましたね(^^;。そのために来てる人がいたんじゃないかといういうくらいに完璧なタイミングでした(笑)。カトリックで保守的な街ですから,ある意味では当たり前の反応と思いますが。(ここまで狙った演出なら大したもの?^^) 最後に,訳本情報やドン・ジョヴァンニ・太陽がいっぱいの話も大変興味深かったです。 ご回答,ありがとうございました!
- bagnacauda
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#2です。 ■プーシキンやチャイコフスキーの人生と「エフゲニー・オネーギン」,妙にシンクロするんですよね。(シンクロというよりも,男色・決闘・既婚者への求愛,などなどが,当時のロシアでは普通によくあることだったということなのかもしれませんが) 演出家も,そのあたりいろいろと考えたのかもしれないな,とも思いました。 そんな感じなんじゃないかと僕も推測しています。 プーシキンの文学って、散文じゃないから、ロシア語がチンプンカンプンだと、どうしてあれほどロシアで評価されているか理解出来ない部分がありますよね。 トルストイもドストエフスキーもそれなりに理解出来るけれども、プーシキンは僕はわかりません。 結構ドンファンだし短慮で、僕には、あまり頭が良さそうな印象がない。(笑) でも、デカブリストに共感し、プガチョフの乱に対する肯定的見方など、貴族出身にかかわらず進歩的な考えを持ち、文学的にはトルストイやドストエフスキーが登場する礎を築き、ロシア国民に愛された。 ちなみに、ダンテスはネコちゃん(つまり、同性愛におけるパッシブな役割)だったそうです♪
お礼
こんにちは。 読書カテゴリに登場しておきながら,人が聞いたらずっこけるくらいに本を読まない人間ですので(恥),ロシア語以前の問題として,トルストイやドストエフスキーとの違いと言われてもチンプンカンプンなのですが(チャイコフスキーとプロコフィエフとショスタコーヴィチの違いならなんとなく分かっても),やはりオペラで観た事がある「戦争と平和」あたりも合わせて読んでみようか,とも思っています。(以前本屋で探したときは全部揃っていなくて買い損ないました・・・) 再びのご回答,ありがとうございました。
- bagnacauda
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随分と「渋い」質問ですねぇ。 僕はロシア音楽好きなので、ロシアオペラ(という言い方もしっくりきませんが)の題材としてプーシキンの作品がつかわれているので、随分前に、「プーシキン伝」池田健太郎著 中央公論社 昭和49年 という本を古本屋で買って読んだ記憶がありました。 で、書庫をゴトゴトしたら出てきました。 この本、目次が無くてとっても読みにくかったのを覚えています。 パラパラとめくり直しても、ご質問に係ることは直接書かれていませんね。 以下、僕の独断と偏見による推測です。 プーシキンンの決闘相手のダンテスは、彼の庇護者であった駐露オランダ大使フォン・ヘッケルン男爵と同性愛関係であったと言われています。 ダンテスはご存じの通り、モテモテで女好きな美青年。 ヘッケルンは一度も結婚していない。 プーシキンとダンテスの決闘の直接の理由となったとされる、手紙の中には、その同性愛関係を痛烈に皮肉ったといわれていますので、その辺りのことが舞台に反映されて脚色されているのかも知れません。 また、同書によれば、当時は上流階級の間で男色が流行していたとのことなので、そういったことも背景にあるのかもしれません。 いずれにせよ、国民詩人たるプーシキンの腹に風穴を開けて2日間以上も苦しませた挙げ句に殺したダンテスはロシアでは悪役ですし、その後83才まで生きて実業家としても成功してしまうんですから、悪は栄える?(笑) 良く分らないけれども、この同性愛的演出には、ロシア人にはわかる何か皮肉めいたモノがありそうな気もします。 とりとめないですね♪(笑)
お礼
こんにちは。 お褒めいただき(?)ありがとうございます。 回答者さまのロシア音楽好きは存じておりますよ♪ プーシキンが決闘で死んだ,というのは知っていましたが,そういえば相手のことは全く知りませんでした。ネットでごそごそ調べてみましたが,なかなかのツワモノ(?)ですね~,この人は。 憎まれっ子世に云々というのは,確かにこういう人のことかもしれませんね(笑) プーシキンやチャイコフスキーの人生と「エフゲニー・オネーギン」,妙にシンクロするんですよね。(シンクロというよりも,男色・決闘・既婚者への求愛,などなどが,当時のロシアでは普通によくあることだったということなのかもしれませんが) 演出家も,そのあたりいろいろと考えたのかもしれないな,とも思いました。 ご回答,ありがとうございました!
一応原作(岩波文庫)を読んだことがありますが、同性愛を示唆するような箇所には気づきませんでした。 印象には残っていません。 遊び人で女好きとしか・・・・。
お礼
こんにちは。 原作にはそのようなことを示唆する部分はないとお感じになったとのことですね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
こんにちは。 私も回答者さまにされたことがありますが,他の方によく分からないちょっかいを出すのはやめましょうね♪ 天才と狂気は紙一重というのは,よく言ったものだと思います。 (当方,どちらにもほど遠い凡人) > 音楽も文学も、想像の世界で遊んで「謎」のままでいるのも楽しいのかも? その通りと思います。 そうした遊びを許す余地があるかどうかというのも,作品の器の大きさによるのかもしれませんね。 「妄想」にならぬようお互い気をつけましょう(爆)。 ポロネーズのファンファーレ,交響曲第4番の冒頭にそっくりと思っている人は多いと思いますが,そういえばこの2曲は作曲時期がほとんど同じ。 友(愛人)を殺し,そして「運命の動機」ジャジャジャジャーン。 この後のストーリー展開を考えても,偶然の一致じゃないのかもしれません。 #・・・えっ,こういうのが「妄想」ですって?(^^; さて,クラシックカテゴリになってきつつありますので(あちらの質問は私の不徳のいたすところによりアレ?してしまいました・・・),このあたりで自粛しておきます。(手遅れ?) 三たびのご回答,ありがとうございました!