- ベストアンサー
実際の合戦で大差の戦力差がある時
実際の合戦は、敵味方全勢力でせーのとやりあう関ヶ原の合戦みたいなものより、砦を落としあうような戦いが多かったと思いますが、たまに、たとえば長篠の砦みたいな武田軍の大部分に囲まれても500人くらいでへっちゃら、徳川秀忠の3万軍に囲まれて真田家50人でへいちゃらとか、あるようですが、なんでそんなことができるんでしょうか? お詳しい方教えてください。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「長篠の砦みたいな武田軍の大部分に囲まれても500人くらいでへっちゃら」 というのはやや事実誤認と思いますよ。 長篠の合戦の直前、武田軍の包囲攻撃を受けた長篠城は本丸だけに守備兵が追い詰められ、長篠の合戦で武田軍が敗走した後に長篠城を視察した徳川家康が「長篠城は城壁が武田軍の銃弾で骨組みだけになり、崩壊寸前の状態。良く持ちこたえた」と書状に書いているような有様でした。織田・徳川連合軍の救援がほんのわずか遅れれば長篠城は落城していたでしょう。 さて「戦国時代の合戦史で、数倍の攻撃軍で囲んでも城がなかなか落ちない」ことが往々にしてあったのは確かです。この原因は、簡単に言うと「日本には大砲がほとんどなかった」からです。 戦国時代の日本では、火縄銃については欧州からの伝来後に直ちに国産化が実現し、関ヶ原の合戦の頃には、欧州全ての国にある火縄銃より日本にある火縄銃の方が多かった、という説もあるくらいでした。 一方、欧州では既に製造技術が確立していた青銅・鋳鉄製の大砲の製造技術はほとんど伝わらず、大砲の国産化は非常に遅れていました。西欧諸国は「日本人に大砲と西洋帆船の製造技術は絶対に教えてはいけない」と足並みをそろえていたようです。 大砲がないと、城を攻略するのは容易なことではありません。城というのは通常は高い所に築いて火縄銃、弓矢、石などを豊富に用意して、攻め上がって来る敵兵を狙い撃ちするものですが、攻撃側が損害を省みずに次々に兵を送り込む「力攻め」を行わないと城は容易に落ちません。何しろ、大砲を打ち込んで城を物理的に破壊し、城兵を殺す手段が取れないわけですから。そして、戦国時代の大名は「徴兵制度を敷いて領民を召集令状一枚で集めてきて、『退却したら軍法会議で死刑』という軍律で縛って突撃させる」までの権力を持っていません。「損害を省みない力攻め」は容易に行えることではありませんでした。 よって、羽柴秀吉が行ったような「兵糧攻め」「水攻め」といった形で城を落とすか、武田信玄が行ったように、城に対して坑道を掘って「水の手」を絶ち、城兵の飲み水を絶って降伏させる、といった手段が取られました。 関ヶ原の合戦の頃になると、国産または輸入の大砲が合戦に用いられるようになり、 * 関ヶ原の合戦の直前に西軍が大津城を攻撃した際、本丸に大砲を撃ち込んで落城させた。 * 関ヶ原の合戦で、石田三成隊は大坂城から持ってきた大砲を有効に活用し、攻め寄せる東軍部隊を相手に最後まで善戦した。 * 大坂冬の陣で、東軍は大坂城に大砲での攻撃を行い、一発の砲弾が天守閣に命中して淀殿の侍女何人かを殺したことが「和議受け入れ」の大きな要因になった。 といったことが出てきました。 なお、関ヶ原の合戦に際して中仙道を進んだ徳川秀忠軍は大砲を一切持っていなかったようで、上田城を巡る戦いで大砲が使われた記録はありません。
その他の回答 (3)
- k16399638
- ベストアンサー率33% (342/1035)
そのような状況だったら、 城にこもらない(重要拠点と主要メンバー両方が同時に攻撃されることになります) 情報収集 奇襲(できれば夜襲にする) 後方の補給線を脅かすゲリラ戦 しかないですが、これがうまく行ったのが、桶狭間の戦いでした。 まあ真田家などは後年のフィクションも混じったので、そのような印象が強いのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。いわれてみると、桶狭間はテロって感じですよね。やはり、兵力差があったら厳しいものは厳しいですよね。一騎当千の猛者がばっさばっさと敵兵をなぎ倒す、三国志のような世界があるのかなっとちょっと思ってましたが・・・・。
- aburakuni
- ベストアンサー率30% (470/1562)
日本の地形は殆どが山地であるという特殊事情があります。 欧州や中国は殆どが平地で生活が営まれ、主な城郭は平地に築かれました。 また城郭に到る道筋も平地なため、大型の攻城兵器を移動させる事も可能でした。 三国志の時代に大兵力を持つ魏が、弱小の蜀を攻めあぐねたのは、蜀が現在の四川省と言う山間地に位置して、大兵力の移動が難しかったからです。 兵力差という点では鎌倉幕府軍と対峙した楠木の千早城が有名ですが、この場合には完全な山城で後背地がさらに山であったため、落城しても逃亡してさらにゲリラ戦を続ける事ができました。
お礼
回答ありがとうございました。確かに日本に現存する街道とかは、道幅すごくせまいし、あんな移動手段でたくさんの兵移動したら何かあったらパニックですよね。銃が兵器として完成するまでは、少人数でもやりようがったということなのかな。
- Kon1701
- ベストアンサー率24% (1445/5856)
城は守るのに都合よくできています。ですから、攻める側は数倍以上の兵力で攻めるのが普通です。10倍位でもある程度持ちこたえることは可能です。 城、山城であれば高低差がありますから、矢を上から射ると長い距離飛びますし、石などを落とすだけでも数人に怪我をさせることが出来ます。堀や塀があれば矢弾を避けながら反撃しやすいです。 また、天守閣のあるような大規模な近世城郭になると、これは弓矢と銃では落とせないですね。(実際に落ちてないですし・・・) 但し、いくら城が良くても少人数ではどうにもなりません。”真田家50人”、優秀な人間でも限りがあります。攻め続ければ休息も取れないので半日もたたずに落ちるでしょうね。
お礼
回答ありがとうございました。真田家50人のソースは、真田幸村という日本歴史漫画です。幸村のおとうちゃんがベトナム兵ばりのゲリラ戦術でがんばってました。よく考えると普通にあの有名な真田の忍者隊のみなさんも出てたので、今考えると、フィクションかもしれません・・・。小学生のころ読んで、記憶に残ってました。
お礼
回答ありがとうございました。城って大したものだったのですね。砦は現存しているのは見たことないんですが、今も残っている城は結構こじんまりしたものが多いですよね。名古屋城クラスだったら何万人来ても持ちこたえるというのは、わかるような気がしますが、普通の城みたいなのでも手ごわかったんですね。 それにしても、大名は独裁者ではなかったのですね。びっくりです。