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仏教にとっての水子について

昨日ふらりと曹洞宗の寺の境内に入ってみたのですが 「水子供養~」ののぼりがたっていました。 私は水子は生まれる前に死んだ子供の霊魂だと思っており、 仏教(特に禅宗)では霊魂を否定していると思っていたので、水子供養をやっていることを知ってびっくりしました。 水子供養を行うことと仏教(特に禅宗)の教えは矛盾しないんでしょうか? それとも仏教にとっての水子は霊魂とはまた違うものなのでしょうか? 教えてください。

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  • kiramaki
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回答No.1

仏教の教えは矛盾しないんでしょうか? (@_@) 矛盾じゃ無いよちゃらんぽらんなだけだよ、 ★金儲けの為なら仕方ない、★ (?_?)今の坊さんに死後の霊魂の世界を聞くと人は死んだらそれで無になり何も無しと言う坊主といい加減に言う坊主が居るよ、始めの坊主は成り行き任せお布施坊主で後の坊主は葬式や法事のお布施を考えてあの世の事は何も解らず適当に言ってごまかして居る坊主たちだよ、 ^^; エホバの信者に人が死んだらどうなるのか聞いて見たら死んだらはいそれ迄よ後は何も無しだって言ってたよ、(>_<) 人が死んではいそれ迄よなら神も仏も要らないよ生きてる内が花だよ、それが本当なら神だ仏だと言って教祖に騙されて信者になってお布施払う馬鹿な人間が多すぎる。

Bipolar
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noname#25523
noname#25523
回答No.7

No6の人は、よくわかってますね。 感心しました。 一般の人でここまでわかっていれば、立派です。 仕事の一つと見るのも、間違いないです。 教義は、もちろん後ですね。 説明書ですから。 でも、質問者の人から見ると この寺院の、登りは違和感を感じて当然だと思います。 そば屋さんじゃ、あるまいしですよね。

Bipolar
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  • Willyt
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回答No.6

 宗教は心の悩みを救うのが大切な仕事です。ですから、水子供養は亡くなった子供を弔うよりも寧ろ、亡くしたお母さんの心の痛みを癒やすのが最大の目的ですから、これはお寺さんの立派な仕事の一つと認めていいのではないかと思います。  宗教は教義が先にあるのではなく、人を導き、癒やすことが先にあるのが本来の姿ではないでしょうか。

Bipolar
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noname#25523
noname#25523
回答No.5

霊魂を否定するのではなくて いる、いないを、問題にしないの方でしょうね。 霊魂があっても、なくても関係ないみたいですよ。 親として、これぐらいは、していきたいと 言う所だと思います。 子育ても同じだと思いますよ。 いい子になるか、悪い子になるか いつ亡くなるかわかりませんけど 親としては、これぐらいはしてあげたいと思うでしょ? 結果を求めるのではなくて そういう心を大事にしてきたのが、仏教のはずです。 No4も言ってますが、救われるとすれば、それは 親の心でしょうね。 親が子を思う心に、生きてる、死んでるは 関係ないように思います。 それと、悪いことがあれば水子のせいにする人は おりますが、いい事があっても水子のおかげです という人がいないのが、問題のような気が・・・。

Bipolar
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  • Reffy
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回答No.4

詳しいことはわかりません。仏教世界では魂を否定しているか?と言われたら輪廻の話がある以上、人間世界とそうではない世界を行ったり来たりしているものの存在はあるんじゃないかと思います。 それよりも仏者は生きていく人間の苦しみを救い導くことを是としているように思うので、水子供養というのは、授かった命をさまざまな理由でこの世に迎え入れてあげることができなかった大人たち(親になる人)の心の安らぎのために存在するのでは?と思います。 できちゃった、いらないから処置しちゃった、で済む問題ではなく、そういうことを経験したら誰でも辛い気持ちになるでしょうと思うのです。しかたがない事情があったとしても、かつて子供(一時は生命体として存在した)を殺生したことを反省し、思いやることで、自分は生きていかなくてはいけない親が救われるため、の意味合いが大きいような気がします。

Bipolar
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  • h-seria
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回答No.3

矛盾と言う解釈は該当しないと思います。 仏教だけにいえる事ではなく一つの宗教的な観念を考える場合必ずその中には教えとして世界観的解釈が存在します。 その中にあって必ず記述されている事として命・生命に関する項目というか観念がありますがそれらの教えは宗派を超えた源流・根本に根付いている解釈ですからその事を踏まえた上で考えると水子と言えども一つの命として供養する事と生命を尊び報われなかった命とその創造主(女性・夫婦)等の救済と言う観念から宗派を超えた次元で供養すると言う解釈自体に誤りは無いのでは思います。 法律の解釈が宗教の分離政策と言う形で介入した際に大きく歪んだ傷跡を残し神社・寺等の分離を行った経緯から随分考え方が変わってしまったと言う側面もあるのでしょう。 基本は心の救済であり水子に関しても水子となった報われない命だけでなく、その供養をする人達の救済もあるわけですから基本的に間違いや誤った解釈と言う事にはならないと思います。 かつて水子と言う悲しい経験をしてしまいそれでも必死で今を生きている人の救済は禅宗における重要な考え方ですから。 私はそう考えているのですが…

Bipolar
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noname#91724
noname#91724
回答No.2

たぶん、矛盾しているとは思います。 ですが正解もない、というのが本当のところだと思います。 正しい釈尊の教えはこれだ!というのがあれば当然宗派は一つしかあり得ないはずですから。 聖典がわりとしっかりしているイスラム教だって割れるくらいですからねえ。 キリスト教のキリスト像、仏教の仏像、これらもなし崩し的に存在するわけですし。 水子も近世に「発明」されたものですし。 やっぱり日本人は「八百万の神」が一番だ。

Bipolar
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