自分が率直に感じることだから自信有です。
話し合い、私も嫌いなときがあります。二人きりのときですら。
特に何度自分の私的意見だからと言っても私がその主張を全員に押しつけていると言い張る相手がいるときとか、同じ事を同じような言葉で何度も何度も説明してくる人がいたり、常識人なら分かり切ってることなのに懇切丁寧に説明してきたり、善行を良いことだからと強要してくるような人がいたりすると嫌で嫌でたまりません。
保育園の頃からそういう自分の性質を薄々感じてはいたのですが、中学生の頃「話し合い」をほとんど毎週学校側に強制されて無意味な話し合いがどれだけ時間と言葉の無駄かを思い知らされました。幸い(?)にも私は年々口が達者になっていったので場合によっては相手以上の理屈でもってやりこめるという方法をとっていましたが(でも後で呼び出し)。
それにpassagenさんがおっしゃるように大勢になると「良くて正しいこと」しか言わなくなる人が増えるのも事実。正論だから大衆の目の前では反論も出来ない。結果、決定事項とされ"しなければならなく"なる。「良くて正しいこと」を目標にするのはもちろんいいこととは思うのですが、それは自主性にまかされるべきではないかと思うのです。
それにテレビ番組、私もああいったものはあまり好きではありません。その場だけの実にならない話し合いが多いこともありますが、第一は自分が参加できないから。マスコミではないので傍聴席にいてもつまらないんです。
―――とつらつらと嫌いな側の意見を述べてみましたが、全ての話し合いが嫌なわけではありません。逆にちゃんと有意義だったり互いの好奇心や探求心が満たされる話し合いや集会などは好きです。
この教えてgooでも時々「貴方はどう感じますか?」といった感じの質問がありますよね(貴方の質問も近いと思うのですが?)。教えてgooは質問者も回答者も自主的に集まり自分も意見があれば参加できます。例え自分が参加しなかった質問でもそれは自分が参加しないと決めたのだから気分よく読めます。
余計なお世話かもしれませんが、passagenさんは話し合いで決まったことで不自由を感じていらっしゃる様子。では反論されたとき無気力にならずさらに反論することをお勧めします。その場しのぎではたとえその話し合いは終わってもpassagenさんが不満を感じる決定が変わるわけではありませんから。
理論武装したり、相手の粗をついたり、逆説的に考えたり、その議題に対し別の方面からの意見を提示したり、とにかく嫌と思ったらひとりになっても退かないことです。ろくでもない話し合いになるかどうかは議題にもよりますが、話し合いに参加する人間にもよると思います。「前のほうが仕事やりやすかったのに」と感じられたなら次の話し合いでそれを言ってみればいいんですよ。職場の他の人も同じように感じているかもしれません。そして失敗した決まりことの前例を1つでも多くつくる。そしたら話し合いの場でも「~~は悪影響だったじゃありませんか!」と反論できますからね。やや攻撃的でしょうか?
とりあえず全ての話し合いが無駄、というわけではありませんよ、と言っておきましょうか。逆に自分の意見を発言することだってできるんですから。どんなに馬鹿馬鹿しい話し合いだろうと、腹の立つ意見しか出てこなくても、話し合いという場である限り発言放棄は相手の意見を全面に受け入れることと同じですよ。
それと、話し合いで決められて職場環境がよくなることだってありますよ。少なくともうちの会社はそうです。話し合うことは少ないし嫌な気分にさせられることも多々ありますけどね。その辺は社会人として我慢です。
でも時折無性に胸がムカムカして嫌になるのは……人間ですもの、仕方ありません。八つ当たりとかせず、感じているだけなら本人の自由。
お礼
友達から、人生の迷子だねと言われたんだ。迷子になったことある?小さい時、恐かったよね、大阪の梅田駅で、人いっぱいいて、それで、お母さん、に見つけられた時ホットした。そこで、良くて、正しくて、美しい、美人な女優さんに、見つけられても、うれしくないし、ほっとしない。こんな感じで、自分にあう波長しか信じないようにしてます。小さい時、お母さんに、見つけられて、うれしかったみたいに、今から考えると、自分の親なんて、ろくなもんじゃないけど、良くて、正しいから、程遠いけど、ニーチェていう、哲学者がいたんだ、ツアラトウストラと言う本のなかで、大地に忠実であれ、そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、ていうのが、あります。地上を超えた希望が、良くて正しいことが、しばしばあるよね。人間、良くて正しい中では、生きていけないような、気がします。僕は、高校の時、みんな、いい人ばかりで、けんかもなく、そんな、すばらしい空間で、二人自殺しました。良くて正しいことが、窮屈な空間にします。小学生のときに、いつも遊んでた、はらっぱがありました。そこで、毎日、プラスチックのバットと、ボールで遊んでました。そこに、PTAのおばさんがきて、この公園、女の子も遊べて、小さな子も遊べるように、花壇なんて、作ったり、砂場作ったりして、良くて正しいと思う、花壇と砂場。でもしばらくしたら、だれも遊ばない公園になってた。これが、いまなら、前の方が、仕事やりやすかった。ていうふうになるのかな。デズニーランドってあるでしょ、あれって、アヘン中毒の妄想っていうのが、最新の学説らしい。自分の波長に合うことしかしたくありません