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篤姫が徳川の人間であるという証

先日の大河ドラマで篤姫が疑われ、徳川の人間であるという証に薩摩からもってきたものを燃やしていました。とても悲しかったです。 これは、当時の薩摩の女性の気質も含めて燃やすという行動をとったのでしょうか?それとも篤姫の立場なら、当時の女性はあのような行動にでているのでしょうか? どのようにとらえられますか?

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 当時の「武家社会」は、側室はともかくとして、正室は、一旦婚家に入ったら、一生涯その家で暮らす。そして、夫が死んだような場合は、同じく、一生涯を「菩提」を弔うことが仕来りでした。 当然、武家の「棟梁」である「将軍家」がその仕来りを破ったら、「武家社会」の秩序は乱れてしまいます。 従って、篤姫も夫家定の死後も大奥に残らざるを得ませんでした。 と、書いてしまうと、実も蓋もない。 「ただ、それだけの理由で?」と、言われそうですので、少し解説してみましょう。 (1)まず、篤姫の生まれた薩摩の気質として、やはり、どんなことがあっても夫に従う。と、言う精神は、幼少のころより植えつけられていたと思います。 (2)次に、前文に述べたように、一生涯を婚家で暮らすのだ、と言う心構えはあったと思います。 (3)篤姫は、家定との婚儀の準備ため、嘉永6年(1853)に江戸へ向けて出立しますが、出立の前夜、義父である島津斎彬より「次期将軍には徳川慶喜を推すよう、家定を説得するように」との「密命」を受けました。 (4)篤姫は、その時「なぜ、私が子どもを産めないのかしら・・・私が、男子を産めば、その子が当然、次期将軍になるのでは?」との疑問を持ったと言われています。 (5)ところが、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚式を挙げてみると、家定は、すでに30歳を過ぎていたにもかかわらず、政治能力も、子作りにしても、全くの「無頓着」で、ただ単に「将軍職」を受け継いだだけの人物であることが分かりました。 (6)しかし、篤姫は、そんな男でも、一旦、自分の夫となったからには、妻としての努めをし、家定も、次第に、篤姫を「心を許す」間柄となり、篤姫は篤姫で、「私が、守ってあげなくては・・・」という、強い信念を持つようになり二人の間に深い愛情が芽生えました。 (7)そんな矢先に、家定は「アッ」と言う間に死去してしまいます。安政5年(1858)7月6日のことでした。結婚生活わずか1年半でした。 (8)そして、次期将軍には、紀伊徳川家の慶福(よしとみ)が立てられ、家茂と名を改めて14代将軍になりました。篤姫は「天璋院」と名乗り家茂の養母として、大奥に残ることになりました。 (9)天璋院は、義父島津斎彬の「密命」を果たせず、おおいに落胆しました。 (10)やがて、家茂に孝明天皇の妹和宮が降嫁されることとなり、家茂と和宮は、文久2年(1862)2月11日に結婚をしました。 (11)しかし、ここにいたるまでには、天璋院が驚くべき事実に遭遇しました。和宮が大奥に入ったのは文久元年(1861)11月15日です。そこで、天璋院は無事到着の「お祝い」として、紅白の縮緬(ちりめん)を各1反ずつ贈りましたが、和宮からの「お礼状?」には、「天璋院を大奥から出して、別の建物に住まわせてください」と、いうものでした。 (12)ここですでに、和宮は、姑である天璋院からの指図を「断固として拒否」してきたのです。 (13)さらに、家茂と和宮が結婚式を挙げた後、家茂は、たびたび大奥へ入り、和宮との距離を縮めようとしましたが、徳川実記およびその他の著書から「公方様、度々、大奥にお渡りあるも、宮様には、ご気分優れずお会いなさらず・・・」と、いうように、和宮が拒否をし続けました。 (江戸時代、「将軍」のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼びました。) (14)天璋院は、先の「別の建物に・・・」とか、家茂と和宮が中々打ち解けないことに苦悩の日々がつづきました。そして、「ふるさとの赤味噌を送ってもらってください。薩摩の赤味噌でないと食べることができません」と、薩摩藩邸に手紙を出しました。 (15)ところが、天璋院は「聡明」「闊達」な人柄だったため、やがて、自分に「非」があることに気づきました。 (16)それは、まだ、「自分自身が実家に頼っている、これでは、当然、養母である自分自身がそうであるから、和宮も武家の仕来りに慣れようとしないのだ。私自身が徳川家の人間になり切れていない。これではいけない。私自身が手本を見せなくては・・・」と、気づきました。 (17)そして、「私は、最早、薩摩の女ではなく、徳川家の女なのです」と、いうことを見せ付けるために、薩摩からの品物に火を付けて、薩摩との縁切りを演出しようとしたのではょう。 ここが、重要。 実際には、ああいう史実は存在しませんでした。ただ、天璋院が、その後の人生で、徳川家の人間として、はっきり言って「千代田城無血開城」では、「表(=公方さまの政務)」よりも、それはそれは大変な「活躍?」をしますが、そのエピローグとしての「見せ場」を作ったものと考えます。この場面を「挿入」することで、天璋院が徳川家のために、これから大仕事をする・・・と、いうことを「印象付けるため」のものだ、と、思われます。 (なお、当時は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。) また、あの「燃やす」と言う行動が放映された時、チラッとですが「桜島」を描いた「掛け軸」が映りましたが、あの「掛け軸」は、無傷のまま、現在「徳川記念財団」に「薩州桜島真写図」として保管されています。数年前、NHKの「その時、歴史が動いた」で、その実物が放映されました。 その後の天璋院の人生については、 (1)知らされない方が良い。 (2)多少なりとも知って、見たほうが良い。 どちらか、を、お知らせいただければ・・・と、思います。 別に「もったいぶって」いるわけではありません。 一気に、書いてしまうと、「楽しみが半減した」・・・などと思われてもいけませんので・・・悪しからず。

hornby
質問者

補足

bungetsu様!お待ちしておりました。まずは、早速のアドバイスに感謝申し上げます。とてもうれしゅうございます。 恥ずかしながら最近歴史に興味をもった(おもしろさを知ったといいましょうか)者です。歴史に関して、無知に近いこのような私に、詳しく、そして、わかりやすく教えていただきありがとうございます。 あの「燃やす」と言う行動が放映された時、史実に存在しているのか、気になりました。大河ドラマは視聴者に興味を持たせるドラマでもあるでしょうから。そして、当時の状況から「薩摩との縁切り」を演出しようとした背景のことを探りたくなり、質問しました。 >江戸時代、「将軍」のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼びました 芸術から歴史に興味を持ったので、歴史の本を見ても歴史上の言葉などもわかりませんでした。 夢中になってアドバイスを読みました。楽しかったです。 その後の天璋院の人生については、もちろん「(2)多少なりとも知って、見たほうが良い。」です。 楽しみが半減しただなんて、今は興味を持ち吸収できる時ですので、知りたいことばかりです。 お礼か補足か迷いましたが、「どちらか、を、お知らせいただければ・・・と、思います。」とのことでしたので。 本を出版なさっているようですが、教えていただきたいです。 が、ここでは無理ですよね^^;

その他の回答 (6)

回答No.7

おはようございます。 とは言っても、もう11時過ぎですね> 「川の流れに身をまかせ 原野の中をさまよいて 文を読みつつ 月を見る」 これが精一杯の「WEB」への回答です。

hornby
質問者

お礼

篤姫ご覧になりましたか? bungetsu様のホームページを見つけているのですが、慣れていないのと歴史初心者ですので、時間がかかりそうです^^; 取り急ぎ「WEB」への回答ありがとうございます。 また、どこかでお会いできることを楽しみにしています。

回答No.6

こんにちは。 は~い、以前の「質問&回答」をみました。 あなたが「回答者」だったのですね。 あなたが歴史を好きになり始めた「動機」。あなたの回答がそのまま「原点」です。100点を取った男の子、今は、「歴史学者」にでもなっているのでしょうか・・・。 質問者の方が中学2年生でしたね。 実は、私の人生の中でも色々な経緯があって、私は、すでに「オジン」の部類に入りますが、息子は、今年中学1年生です。 私が、歴史好きのこともあって、息子も、私と一緒になって「篤姫」を見ていますし、クイズ番組「○○教育委員会」などと言う番組で、歴史上の人物の肖像画などが出ると、すばやく、「武田信玄だ!」などと答えて「満足そうな」顔を見せます。 >>日本の文化が生まれた平安時代のころが好きだと、“最近”自覚しました。 >>かな文字や大和絵、十二単、貝遊び等を好んでいたのです そうですか。平安時代・・・いいですねぇ。 何か「優雅」な気分に浸れそうです。 瀬戸内寂聴氏が現代文に直された「源氏物語」などもいいですねぇ。 私は、やはり、中学か高校の時、「源氏物語」を読み、宮廷生活ってこんな風だったんだ、と、感動したことを思い出します。 そして、「光源氏」が、「桐壺の君」とか「夕顔の君」、「若紫の君」などなど、何人も何人もの女性と「恋」をする・・・そんなに「色男だったのか?」、「ニャロメ」と、怒りながら・・・。 私が、このサイトで回答した幾つかを紹介します。少しでも「参考」になれば・・・と、思います。(主に、江戸時代です)。 ☆大奥で御台所が大老と対面する場面について: http://okwave.jp/qa4309780.html ☆和宮の降嫁ルートについて: http://okwave.jp/qa4284340.html ☆江戸時代の年号について: http://okwave.jp/qa4292154.html ☆江戸時代の大名はなぜ駕籠に乗るのか: http://okwave.jp/qa4263372.html ☆近代城郭建築について: http://okwave.jp/qa4258666.html ☆上杉鷹山について: http://okwave.jp/qa4226612.html ☆大河の篤姫をみて: http://okwave.jp/qa4212791.html ☆篤姫をみて: http://okwave.jp/qa4203054.html ☆江戸時代迄の洗髪に関して: http://okwave.jp/qa4139899.html ☆中間について: http://okwave.jp/qa4099296.html ☆お江戸と奉行の所轄地域の範囲について: http://okwave.jp/qa4094327.html ☆江戸時代では自殺幇助は罪になりますか: http://okwave.jp/qa4075073.html ☆参勤交代について: http://okwave.jp/qa4062636.html ☆江戸時代の吉原について: http://okwave.jp/qa3976258.html ☆忠臣蔵の47士はどうして牢に入れられなかったか: http://okwave.jp/qa3953008.html ☆江戸時代の小姓について: http://okwave.jp/qa3882218.html まだまだ「回答」したものはありますが、今回の「篤姫」等に関連した、と、思われるものを紹介しました。 ちょっと「自己ピーアール」が強すぎるかもしれませんが、「興味」がありましたら、開いてみてください。

hornby
質問者

お礼

bungetsu様のようなお父様をお持ちのお子さんが(奥様も)羨ましい限りです。 サイトでの回答、是非参考に致します。どうもありがとうございます。

回答No.5

追伸: >>bungetsu様!お待ちしておりました。まずは、早速のアドバイスに感謝申し上げます。とてもうれしゅうございます。 待ち望んでいてくださるとは、本当に、こちらこそ「嬉しゅうございます」。 どこかの「質問」でお会い?しましたでしょうか? >>芸術から歴史に興味を持ったので、歴史の本を見ても歴史上の言葉などもわかりませんでした。 芸術も奥が深いですよね。どのような分野かは存じませんが、私は、自分では、絵を描いたり、書道をしたりは、あまり得意ではありませんが、書画骨董品を眺めたりするのは、「一服の清涼剤」です。 私も、実は、日本史に興味を持ち始めたのは、そう、古くはありません。大学入試では、世界史を選択したくらいですから・・・。 と、言って、何が「きっかけ?」と、聞かれても、「さあ~、何でしょうか・・・」。 まあ、強いて言えば、実家を継いでいる長兄が、実家の「家系図」作りを「手伝って欲しい」と、言ってきたことから始まったのかもしれません。 そして、完全な転機となったのは、特に、現在住んでいる市が、関東でも有数の「歴史」の街で、どこから私の「情報?」が漏れたかは知りませんが、市長から突然に「市立博物館建設委員(市内の有識者15名位)」の1人に、若干32歳位で委嘱され、それから13年間位、市立博物館に関わってきました。その時に、この街をもっと知っておかねば・・・と、「勉強」のやり直しをしました。 しかし、私も、すでに人生の半ば「以上」を過ぎていますので、日本史の「研究??(研究などとは、少々、おこがましいですが・・・)」は、「ン十年」になります。 やはり、私にも「得意分野」があり、初めの頃は、豊臣秀吉に興味を引かれ、戦国時代に主眼を置きました。 やがて、金山がある島の生まれ(ここまで話せば、おおよその見当はつくのでは?)で、その金山にまつわる事象を調べるようになり、昨今では、江戸時代が、もっぱらの興味となりました。 あなたも、興味を持たれたことから、少しずつ視野を広げられていかれたら、「歴史って、こんなに、面白いんだ・・・」と、なると思いますよ。 疑問に思われることがあれば、自分で調べるのも良し、また、このサイトに質問されるも良し・・・ですね。 ただ、私も、結構このサイトで「回答」をしていますが、やはり、「確証」の無いものには、手を出しません。 一応、「歴史作家」と名乗るからには、きちんとした「裏づけ」を答えなければ・・・と、考えているからです。 「ある事実」があって、それに対する「憶測=私見」は、述べさせていただくことはありますが、単なる「憶測」だけの「回答」は、なるべく控えるようにしています。 まあ、おおげさに言えば、一応は「プライド」がある・・・な~んちゃってね。 >>本を出版なさっているようですが、教えていただきたいです。 が、ここでは無理ですよね^^; 私が、入賞した本も「島」に関係したことをテーマとして書きました。 そうなんでねぇ。私も、喉まで声が出掛かっていますが、このサイトで「自己ピーアール」をすると「規約違反」になりますので、とても、とても「残念」です。ホームページもブログも開設しているのですが・・・。 そうですねぇ・・・質問の表題に「bungetsuへの質問・・・」・・・でも、これも「規約違反!!」。 もっともっと、お話ができる機会があると嬉しいですよね。 by bungetsu。

hornby
質問者

お礼

追伸ありがとうございます。 「はい」どこかの(歴史)「質問」でお会いしております。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4264373.html(唯一歴史のカテゴリーで私が答えられた質問です)そして、歴史について検索していたところ、ご回答を参考にさせていただきました。まさか、私のこの質問にご回答いただけるとは思っていなかったのですが、「自称歴史作家です」と目にしたときには感激しました。 私も、初めて歴史に触れたといえるのは、大河ドラマの竹中直人が演じた「秀吉」をみて興味を引かれ、最近「家系図」作りに興味をもち…なんとなく私は、日本の文化が生まれた平安時代のころが好きだと、“最近”自覚しました。小さい頃から、かな文字や大和絵、十二単、貝遊び等を好んでいたのですが、歴史が苦てだった為、それと歴史とは全く別のものにしていたのです。今は興味があるので少しずつですが視野を広げています。面白くてしかたないほどです。 大河ドラマでも、屏風や着物についてとても興味があります。 bungetsu様が、「桜島の掛け軸」について触れてくださったことも心に残っております。苦手な分野でも、人との出会いで好きになれる事は恵まれていることですよね。bungetsu様に心より感謝しております。 ホームページ、探してみます!その時は、こんな私ですが、よろしくお願い申し上げます。

回答No.4

こんにちは。 私の「つたない」解説をお読みいただきありかどうございます。 私も、一応「作家」と名乗るからには、本が出版されました。 某社の文学大賞に「入賞」し、「本」として、世にでました。 しかし、色々な事情もあり、また、私の力量不足もあり、その「本」1冊で、現在は、鳴かず飛ばず・・・。でも、まあ、講演会の依頼などもあり、「かろうじて」生き延びています。 まず、最初に謝っておきます。 前回の(11)のところで、和宮が11月15日に大奥に入った。と書きましたが、ミステイクでした。 正確には、11月14日板橋宿に1泊し、15日に九段にある清水邸に入りました。これを喜んで迎えようとした天璋院が紅白の縮緬を贈り、その「お礼?」が、「天璋院を大奥から出してくだい・・・」でした。 和宮が大奥に入られたのは、12月11日です。 ごめんなさい。 さて、それでは、 >>もちろん「(2)多少なりとも知って、見たほうが良い。」です。 とのことですので、続きをお話させててただきます。 前回まで述べた通り、天璋院は、自分が徳川家の人間である、と言う行動をするようになると・・・具体的には、 (1)将軍家茂の養母であることを自覚し、家茂の相談相手となったり、大奥の話を取りまとめて助言をしたりしました。 (2)はたまた、和宮に対しても、武家に嫁いだからには、武家の仕来りに従うよう、徐々に武家の仕来りを教えていったりしました。 こうした結果、和宮も、多少は、確執があったものの心を開き、そして、若い二人にも「愛」が芽生えたようです。そして、夫家茂が庭に出ようとすると、草履を揃えてあげたり、自ら、夫にお茶を持ってきて差し出す、などをして、嫁としての自覚を持つようになっていきました。 (1)しかし、この頃はすでに、米国船や英国船、仏国船が浦賀に集結して、開国を迫っており、幕府もやむなく米国や仏国と「通商条約」を締結してしまいました。 (2)外国勢力の進出に憂慮していた朝廷は、和宮を降嫁させ「公武合体」をすることで、「攘夷」をもくろんでいいましたが、一向に進展がないことに、ついにしびれを切らし、文久2年(1862)10月、孝明天皇は勅使を江戸へ送り、強く咎めました。 (3)文久3年(1863)2月13日、家茂は朝廷への釈明のため上洛を決行。実に、将軍が自ら上洛するのは240年振りのことでした。 (4)家茂の京都滞在は、実に3ケ月にもおよび、18歳の若き将軍が朝廷の手玉にとられないよう、天璋院は、 「早く御所をおいとまし、無事にお戻り下さい。色々と難しい時期ですので、よく後先を考え、何事もうかつになさいませんよう、よくよくお気をつけ下さい」 と、書状をしたためています。 (5)しかし、家茂は孝明天皇に押し切られるようにして「攘夷」をすることを約束してしまいました。実行不可能な約束。天璋院の恐れていた方向へいってしまったのです。 (6)その後、江戸に戻った家茂でしたが、慶応2年(1866)夏、第二次長州征伐が開始され、幕府軍の総大将は家茂で大阪に向かいました。 (7)この時、和宮は、芝増上寺から「黒本尊」という「阿弥陀仏」を借り受けて、自分に与えられた幾つかの部屋の一室にその仏像を安置して、日々、「夫家茂が無事でありますように」と、お百度参りまでしています。朝廷や公家衆は、元来「神道」なのですが、和宮は、もうこの時、すでに武家に嫁いだことを自覚をし始めていたのです。 (8)ところが、慶応2年(1866)7月20日、家茂は、大阪城において病で急死をしてしまいました。 (9)家茂と和宮が結婚したのは、文久2年(1862)2月11日。結婚生活は、わずか3年余りでした。和宮は「薙髪(ちはつ=髪を短く切ること)」をし、尼頭巾を被り、静寛院宮と名乗り、この頃より、天璋院は、しきりに静寛院宮をなぐさめ、お互いが、強く接近するようになっていきました。 (10)やがて、慶応2年(1866)12月5日、15代将軍に徳川慶喜が就任するも、政局は安定せず、ついに、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争=ぼしんせんそう)が勃発。薩摩対幕府という、天璋院にとっては、実家が嫁ぎ先を攻める、と言う結果になり、 「嫁ぎ先を攻めるという薩摩藩に、情けというものはあるのか」 と、苦悩の日々が続きました。 また、和宮にしても、この鳥羽伏見の戦いを朝廷が後押ししていることを知り、天璋院と同じく、実家が嫁ぎ先を攻めることに対して、自ら1月13日に、慶喜の助命嘆願書を朝廷に送っています。 (11)このような動きの中で、老中や勝海舟が天璋院に「危険だから、城を出るように」と進言しましたが、天璋院はやおら懐剣を取り出し、自らの喉に当てて、 「一歩でもここは出ません。もし、無理にお出しになれば、私は、自害します」      と、裏切った「実家」を見捨てて、最期まで徳川家の人間である決意を表明しています。 後に、勝海舟の「回顧録」に、 「天璋院さま、貞女といおうか烈婦といおうか、まことに堂々たるお覚悟であらせられました」 と記しています。 (12)鳥羽伏見の戦いは、幕府軍が破れ、慶応4年(1868)1月12日千代田城に敗軍の将として戻って来た慶喜に、天璋院は祖母の立場で、また、和宮は養母の立場から、朝廷に対して「異心」がないことを告げる嘆願書を書かせたりしています。しかし、勢いに乗った討幕軍(薩長連合)は、 「慶喜の首を取らねば、幕府軍の息の根は止められない」 と、にべもなく断り、ついに、2月9日、倒幕軍は錦の御旗を押し立てて、(錦の御旗=みはた、とは、朝廷が幕府を倒すようにと「許可」したしるし。)京都を出発。東海道軍と中山道軍、北陸道軍と3つに分かれて進軍開始。倒幕軍の総大将は西郷隆盛。これを受けて幕府の意見は「徹底抗戦」の主張が多かったが、静寛院宮が老中を大奥に呼び、 「ただただ神君家康公以来の徳川家の家名が立つよう謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ徳川家が滅びることはないのです」 と、諭したと言われています。 (13)倒幕軍の、東海道軍は3月6日に駿府に到着。さらに、3月11日には多摩川を渡ったところで、中山道軍の到着待ちで進軍停止。中山道軍は3月13日板橋宿に到着し、北陸道軍と合流すべく進軍停止。千代田城総攻撃は3月15日と決定。千代田城まであとわずか2里半(10Km)の地点でした。 (14)そんな慌しい中、天璋院は一通の書状をしたためています。 「・・・勝った方にも家族はありますが、負けた方にも家族はあります。徳川家が永らえるよう、私の一命にかけて、なにとぞお願い申し上げます・・・」。 宛名は、敵の総大将西郷隆盛。 天璋院が家定に嫁ぐ時、次期将軍に慶喜を押し立てるよう島津斎彬の命を受けて、天璋院(当時は篤姫)と一緒に画策したのが当時江戸藩邸詰めであった西郷隆盛。その西郷が、今は、慶喜を討とうとしている。そして、自分(天璋院)をも討とうとしている。天璋院は1300字余りにも達する長い巻き書状で切々と訴えました。西郷はそうした竹馬の友とも言うべき同士からの手紙をどんな気持ちで読んだのでしょうか。 (15)3月14日。西郷隆盛は単身で千代田城を訪れ、勝海舟と会談。 そして、「その時、歴史が動いた!」 西郷隆盛は勝海舟に総攻撃中止を伝えたのです。 (16)慶応4年(1868)4月11日、千代田城無血開城。 (17)静寛院宮は、すでに4月9日には清水邸に身を寄せていましたが、天璋院は4月11日、倒幕軍が千代田城受け取りに正門から入る直前まで城内に残り、徳川家代々の宝物すべてで城を飾りつけ、江戸幕府の終焉の幕引きをして、身一つで一橋邸に向かいました。 (18)静寛院宮は、清水邸に身を寄せていましたが、その後、京都に呼び戻され5年余りを過ごし、すでに千代田城に移られていた明治天皇の勧めで東京へ。(明治元年(1868)7月17日に江戸を東京と改める。)しかし、32歳で脚気になり、箱根塔ノ沢温泉で明治10年(1877)8月7日から療養、一時は回復の兆しも見え、歌会などももようされたが、9月2日に死亡しました。そして、死に臨み、静寛院宮は、 「皇族としてではなく、徳川家の人間として葬って欲しい」 と、遺言をしたといわれています。 芝増上寺に家茂の「宝塔(=墓)」に寄り添うようにして、静寛院宮の「宝塔」が建てられました。 増上寺には、8基の宝塔があり、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が刻印されていますが、静寛院宮の宝塔だけには「菊」のご紋が刻印されています。 (19)城を出た後の天璋院は、共に城を出たお付の女中たち260人の結婚や就職先を探すことに奔走し、つつましい生活をし、困窮の余り、着る物さえ自分で繕ったと言われています。薩摩藩邸より金銭援助の申し出がありましたが、 「私は、もう徳川の人間ですから」 と、かたくなに拒み、明治16年(1883)11月20日に死亡した時、所持金は3円(約6万円)だった、と言われています。墓所は上野東叡山寛永寺にあります。 そんな天璋院でしたが、生涯にただ一度だけ旅行をしたことがあります。それは、静寛院宮が亡くなった箱根塔ノ沢温泉です。そして、 「塔ノ沢で和宮が亡くなった建物を見た。胸がふさがり、懐旧の涙が袖をしぼるほどにあふれるのを、私は抑えることができなかった」 と、「日記」に記しています。 そして、死んだ和宮に、 「君が齢(よわい) とどめかねたる早川の 水の流れも うらめしきかな」 と、和歌を捧げています。 (20)共に、将軍家に嫁ぎ、共に、夫に早く先立たれ、共に、実家から裏切られ、共に、激動の中を生き、そして、共に、江戸幕府に終止符を打った天璋院と静寛院宮。どんな思いだったのでしょうか、今は、誰も知るすべがありません。 これが、史実としての天璋院のその後ですが、TVでは、どのように「展開」していくのでしょうか。私も「興味深く」見ていきたいと思っています。 「史実」とは言っても、私も「実際」を見たわけではありませんから・・・。「講釈師、見てきたような、嘘をつき」です。 一応は、文献等によるものですが、物語をおもしろくする意味では、多少の「創作」も止むを得ないと思います。 あなたの「お役」に立てたでしょうか・・・。

hornby
質問者

お礼

早速の「続き」ありがとうございます。 >(16)慶応4年(1868)4月11日、千代田城無血開城 ジ~ンときました。興味を持ち調べれば調べるほど、奥が深く益々興味を持ってしまいます。 正直に申しますと、西郷との関わりもあやふやで、今回のお話で私にも理解できました。これも、お話の仕方が自然と私の知らないところを丁寧にサポートしてくださるからだと思います。 TVを見ながら、bungetsu様のお話を幾度も読み返すことでしょう。これからのTVの「展開」が興味深いですね。 >あなたの「お役」に立てたでしょうか・・・。 もったいないお言葉。心よりお礼申し上げます。

  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.2

なぜ、「当時の薩摩の女性の気質」や「(篤姫の立場なら)当時の女性は」というふうに類型化して、篤姫を当てはめようとなさるのでしょうか。燃やす行動を発見した御殿女中は、「天璋院様ご乱心」と慌てていました。当時の基準でも、型破りな振る舞いだったのです。 「あの当時の、あの出身の、あの立場の人は、あのように行動するものだった」という制作手法では、現代の私たちの心を揺さぶるドラマはできないと思います。篤姫は、要するに政略結婚させられた女ですが、「想定の範囲内」には収まらない人物として描かれています。「封建道徳通り、婚家に忠義を尽くした」という筋書きではないでしょう。 かわいい顔して、「女の道は一本道でございます」と言ってのける姫です。「そんな難しいこと、私に分かるわけないじゃないの。女ですもの」などと言ったりはしません。みずから退路を断ち、激動の時代を強い意志で進む、新しいヒロイン像だと思います。

hornby
質問者

お礼

>「天璋院様ご乱心」と慌てていました そうでしたね。 ご回答ありがとうございます。

  • leman
  • ベストアンサー率28% (418/1455)
回答No.1

たぶんもっと激しいことをするのではないでしょうか。それこそ懐剣を取り出してのどに突き立てるとか、その場で自害してしまうとかですね。つまり自分の命を証にしてしまうのです。 当時の気質から考えるとそこまでやれば色々問われることはないでしょうね。 あとは徳川の家紋が入ってしるものを積極的に受け入れたかどうかですね。家紋は言ってみればトレードマークのようなものですからね。いまでもスポーツの応援なんかにトレードマークが入ったグッズなどを身に付けたりするではないですか。あれはもうそれに成り切ってしまうことと同じではないでしょうか。

hornby
質問者

お礼

なるほど~。ご回答ありがとうございます。

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