こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
当時の「武家社会」は、側室はともかくとして、正室は、一旦婚家に入ったら、一生涯その家で暮らす。そして、夫が死んだような場合は、同じく、一生涯を「菩提」を弔うことが仕来りでした。
当然、武家の「棟梁」である「将軍家」がその仕来りを破ったら、「武家社会」の秩序は乱れてしまいます。
従って、篤姫も夫家定の死後も大奥に残らざるを得ませんでした。
と、書いてしまうと、実も蓋もない。
「ただ、それだけの理由で?」と、言われそうですので、少し解説してみましょう。
(1)まず、篤姫の生まれた薩摩の気質として、やはり、どんなことがあっても夫に従う。と、言う精神は、幼少のころより植えつけられていたと思います。
(2)次に、前文に述べたように、一生涯を婚家で暮らすのだ、と言う心構えはあったと思います。
(3)篤姫は、家定との婚儀の準備ため、嘉永6年(1853)に江戸へ向けて出立しますが、出立の前夜、義父である島津斎彬より「次期将軍には徳川慶喜を推すよう、家定を説得するように」との「密命」を受けました。
(4)篤姫は、その時「なぜ、私が子どもを産めないのかしら・・・私が、男子を産めば、その子が当然、次期将軍になるのでは?」との疑問を持ったと言われています。
(5)ところが、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚式を挙げてみると、家定は、すでに30歳を過ぎていたにもかかわらず、政治能力も、子作りにしても、全くの「無頓着」で、ただ単に「将軍職」を受け継いだだけの人物であることが分かりました。
(6)しかし、篤姫は、そんな男でも、一旦、自分の夫となったからには、妻としての努めをし、家定も、次第に、篤姫を「心を許す」間柄となり、篤姫は篤姫で、「私が、守ってあげなくては・・・」という、強い信念を持つようになり二人の間に深い愛情が芽生えました。
(7)そんな矢先に、家定は「アッ」と言う間に死去してしまいます。安政5年(1858)7月6日のことでした。結婚生活わずか1年半でした。
(8)そして、次期将軍には、紀伊徳川家の慶福(よしとみ)が立てられ、家茂と名を改めて14代将軍になりました。篤姫は「天璋院」と名乗り家茂の養母として、大奥に残ることになりました。
(9)天璋院は、義父島津斎彬の「密命」を果たせず、おおいに落胆しました。
(10)やがて、家茂に孝明天皇の妹和宮が降嫁されることとなり、家茂と和宮は、文久2年(1862)2月11日に結婚をしました。
(11)しかし、ここにいたるまでには、天璋院が驚くべき事実に遭遇しました。和宮が大奥に入ったのは文久元年(1861)11月15日です。そこで、天璋院は無事到着の「お祝い」として、紅白の縮緬(ちりめん)を各1反ずつ贈りましたが、和宮からの「お礼状?」には、「天璋院を大奥から出して、別の建物に住まわせてください」と、いうものでした。
(12)ここですでに、和宮は、姑である天璋院からの指図を「断固として拒否」してきたのです。
(13)さらに、家茂と和宮が結婚式を挙げた後、家茂は、たびたび大奥へ入り、和宮との距離を縮めようとしましたが、徳川実記およびその他の著書から「公方様、度々、大奥にお渡りあるも、宮様には、ご気分優れずお会いなさらず・・・」と、いうように、和宮が拒否をし続けました。
(江戸時代、「将軍」のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼びました。)
(14)天璋院は、先の「別の建物に・・・」とか、家茂と和宮が中々打ち解けないことに苦悩の日々がつづきました。そして、「ふるさとの赤味噌を送ってもらってください。薩摩の赤味噌でないと食べることができません」と、薩摩藩邸に手紙を出しました。
(15)ところが、天璋院は「聡明」「闊達」な人柄だったため、やがて、自分に「非」があることに気づきました。
(16)それは、まだ、「自分自身が実家に頼っている、これでは、当然、養母である自分自身がそうであるから、和宮も武家の仕来りに慣れようとしないのだ。私自身が徳川家の人間になり切れていない。これではいけない。私自身が手本を見せなくては・・・」と、気づきました。
(17)そして、「私は、最早、薩摩の女ではなく、徳川家の女なのです」と、いうことを見せ付けるために、薩摩からの品物に火を付けて、薩摩との縁切りを演出しようとしたのではょう。
ここが、重要。
実際には、ああいう史実は存在しませんでした。ただ、天璋院が、その後の人生で、徳川家の人間として、はっきり言って「千代田城無血開城」では、「表(=公方さまの政務)」よりも、それはそれは大変な「活躍?」をしますが、そのエピローグとしての「見せ場」を作ったものと考えます。この場面を「挿入」することで、天璋院が徳川家のために、これから大仕事をする・・・と、いうことを「印象付けるため」のものだ、と、思われます。
(なお、当時は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。)
また、あの「燃やす」と言う行動が放映された時、チラッとですが「桜島」を描いた「掛け軸」が映りましたが、あの「掛け軸」は、無傷のまま、現在「徳川記念財団」に「薩州桜島真写図」として保管されています。数年前、NHKの「その時、歴史が動いた」で、その実物が放映されました。
その後の天璋院の人生については、
(1)知らされない方が良い。
(2)多少なりとも知って、見たほうが良い。
どちらか、を、お知らせいただければ・・・と、思います。
別に「もったいぶって」いるわけではありません。
一気に、書いてしまうと、「楽しみが半減した」・・・などと思われてもいけませんので・・・悪しからず。
補足
bungetsu様!お待ちしておりました。まずは、早速のアドバイスに感謝申し上げます。とてもうれしゅうございます。 恥ずかしながら最近歴史に興味をもった(おもしろさを知ったといいましょうか)者です。歴史に関して、無知に近いこのような私に、詳しく、そして、わかりやすく教えていただきありがとうございます。 あの「燃やす」と言う行動が放映された時、史実に存在しているのか、気になりました。大河ドラマは視聴者に興味を持たせるドラマでもあるでしょうから。そして、当時の状況から「薩摩との縁切り」を演出しようとした背景のことを探りたくなり、質問しました。 >江戸時代、「将軍」のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼びました 芸術から歴史に興味を持ったので、歴史の本を見ても歴史上の言葉などもわかりませんでした。 夢中になってアドバイスを読みました。楽しかったです。 その後の天璋院の人生については、もちろん「(2)多少なりとも知って、見たほうが良い。」です。 楽しみが半減しただなんて、今は興味を持ち吸収できる時ですので、知りたいことばかりです。 お礼か補足か迷いましたが、「どちらか、を、お知らせいただければ・・・と、思います。」とのことでしたので。 本を出版なさっているようですが、教えていただきたいです。 が、ここでは無理ですよね^^;