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旧東海道はなぜ名古屋中心部を通らない?
旧東海道は、大都市である名古屋の中心部を通らずに、熱田から南下し、伊勢湾を船で渡ってしまうのは、なぜでしょうか。城のすぐ近くとはいかなくても、城下町なので、城近辺を通るのが一般的なのでと思うのですが。また、わざわざ船に乗るというのは、非常に面倒くさいと思うのです。教えてください。
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実はこの件、私も疑問に思っていましたが、最近回答を発見しました。「中世の東海道をゆく」という中公新書です。最近読んだ専門書以外の本の中では、もっともエキサイティングな本でした。 この本は、鎌倉時代以降の京都-鎌倉間を旅した人々の紀行文を元に、中世(鎌倉から戦国時代)の東海道のルートを再現したものです。その終章に、家康が海路を定めた理由が記されていました。 もともと、江戸時代までの東海道は、美濃から墨俣付近で木曽三川を越え、南下して熱田神宮(海に突き出した半島の上の神社だったそうです)の辺りで、干潮時のみに現れる海岸線を、対岸の鳴海まで歩く、というルートが普通でした。現在の名古屋市南部はまだ海の中だったわけです。東国からだと、熱田-(北上して)-墨俣の「美濃ルート」です。 これを変えたのが、家康です。家康が出した桑名宛の伝馬朱印状によると、「下は宮へ船路のこと」と記されていて、ここで初めて東海道の正式ルートとして、海上利用が規定されたということになります。江戸からですと、熱田-桑名-鈴鹿峠ですね。 理由は二つあったそうです。そもそも東海道の伝馬ルート(宿場)は、旅行者の便宜を考えるより先に、何よりも「軍事情報」の伝達ルートであったことです。このためには、確実に、しかも速く情報が江戸-京都・大阪間を流れる必要がある。何しろ、この伝馬朱印状が出たのは、関ヶ原の翌年、まだ豊臣家がバリバリで健在の時代です。 そうすると、まず第一に、美濃ルートには冬季に雪に閉ざされる危険がある。現在でも関ヶ原・米原辺りは新幹線がストップしますよね。 もう一つは、京都-熱田間の所要日数が伊勢周りの方が早いのだそうです。紀行文を読むと、京都から美濃回りで熱田まで行くと到着するのは、五日目だそうです。それに対して、鈴鹿峠を越えて、桑名から熱田まで舟を利用すると三日目には、到着したそうです。 ただし、それだけなら熱田を利用する理由は無いわけで、単純に距離の問題を言えば、岡崎辺りを出発してそのまま西に向かい、桑名よりも南部で鈴鹿峠に近い場所があります。ところが、そのルートだと、当時家康の子どもだった松平忠吉が入封していた清洲に情報が寄らない。 なるべく早いルート、でも、清洲(名古屋)に情報を入れる、という2つの条件を満たす方法として海上七里が決められたのではないか、とのことでした。 ですから、伝馬ルートとしては熱田(宮)-桑名が公式ルートですが、実際には江戸時代でも美濃ルートは使われていたそうです。特に大名行列や 朝鮮通信使などは美濃ルートを使うことも普通にあったとのことです。
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- tanuki4u
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建前としての東海道では無かったかと思います。 実際は、現在の東海道本線ライン、つまり 美濃路 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E8%B7%AF これを、物流は流れていたと。 大和朝廷=奈良時代=平安時代 古代は 建前の世界です このくらいの日本の地理理解に基づく支配原理は、畿内=太宰府軸による東国支配です。東国支配の軸として、山の中の東山道、海に沿った東海道を造りました。 なので、国名も みの=みかわ 野=川 しなの=するが 野=河 おうみ=とおとおみ 近い=遠い という位置関係で名前がつけられています。 全集 日本の歴史 3 律令国家と万葉びと という書籍で指摘されていましたが、細かい論考はありませんでした。しかし 結構 するどい直感だと私は受け取りました。 統治原理の軸として道が設定されているので、実際に本音がぶつかる軍事行動においては 源平の戦いも、墨俣川の戦いは起こっていますが、伊勢と尾張の間では起こっていない その後も、正面兵力の範頼は、尾張から美濃、近江へ進んでいます。 ※ 搦め手軍の義経は伊勢から南回り 承久の変では、尾張から墨俣を経て美濃、そして近江から京都へ 建武の新政の頃の北畠顕家も、美濃青野ヶ原で勝つには勝ったがへろへろになったので、やむなく伊勢経由で西上を目指します。 このように、軍事的に大量の兵員を合理的に進めるには、近江=美濃=尾張が 東西の主軸のようです。 逆方向京都から鎌倉に向かった十六夜日記でも、近江から美濃を経て尾張に入っています。 http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31531801 裏取りデータを見つけられなかったのですが、尾張藩の宗春は美濃路を名古屋城下を通すように変更したというような書籍を読んだ覚えがあります。
お礼
建前としての道と本音(軍事行動)としての道。 本音と建前の行動原理は古来からあるものなのですね。 ヒト、モノ、情報、そして軍事と、あらゆる要因が絡み合って 道は造られる。 現代と変わらぬ構図に、ほんとびっくりです。 ありがとうございました。
- toro321
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陸路を行っても、木曾、長良、揖斐3川を越さないといけないので大変ですよ。当時は橋もなかったしね。 中心部を通り、岐阜方面から中山道に入る手もあったと思いますが、鈴鹿超えの方が早かったのでしょう。
お礼
なるほど。大河が3つもありましたね。それで船舶による 交通が発達したということですね。 ありがとうございました。
そもそも東海道が最初に確立されたのは平安~鎌倉時代くらいじゃなかったけ? そうだとしたら「当時名古屋に城なんかない」ので無視して最短距離の海路を選択したとしてもさほど不思議じゃないです。
補足
ありがとうございます。 近世になり、繁栄した街を通るよう経路をつけ替えなくても 用は足りていたということなんでしょうね。
お礼
ありがとうございました。目から鱗です。長年の疑問が氷解し、鳥肌が立ちました。 道というものを、ヒト、モノ、情報の流通手段だけでなく、少なくても日本においては第二次世界大戦以前までは軍事の観点でとらえなければいけないのですね。 そして、今よりももっと存在感のあった京・大坂の情報をいかに早く江戸に届けるかが大切であった。 なんで天下の尾張名古屋の城下町に東海道が通らなかったのか。流通だけだったら美濃ルートが機能しているので何も困ったものではなかったのですね。 ありがとうございました!