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日常生活やインターネットその他での「乱闘」について
日本では(あるいは世界ではどうかわかりませんが)「乱闘」というのがほとんどない気がします。つまり、衆Aと衆B(あるいは衆Cの三つ巴もあるか?)というような、衆対衆という言い合い殴りあい殺し合い?がほとんど生起しない、生起しても暴力団などの特殊事情であるということがいえないでしょうか。 もっとも疑問に思うのはインターネットの世界で、主に掲示板などやこういうQ&Aで、当然さまざまな意見が存在してしかるべき議論が一方方向にだけ流れてしまう、某巨大掲示板などははじめから「アンチ」などと銘打って方向性が決まってしまい、衆Aだけが集うとか、ここで言えば一方の傾向の回答だけが集まるとか、なにか腑に落ちない。もっと、ある話題に関して、「乱闘」のような様相を呈してもいいじゃないかと思うわけです。 そういうことがないのはどういう理由なのでしょうか?
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日本人の性質もそうだけど、みんな飽きたんですよ。 それほどみんな暇じゃないってこと。 自分の価値観の合うところへ行くけど、そこが殺伐としていたら あまり身になることもなければさっさと他へ行きます。 ネット黎明期の頃はみんな掲示板でガンガンやりあっていましたよ。 2ちゃんねるとかヤフーとか そこしか集まる場所がなかったですし、刺激的でしたから。 まあ、今ではネットも当たり前になったし、 他にもコンテンツがいっぱいあるので論争なんか始まったら ウゼエって感じで他に行ってしまうんです。
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>>ある話題に関して、「乱闘」のような様相を呈してもいいじゃないかと思うわけです。 もっぱら聞き手にまわり自分のために情報を得る分には、乱闘サイトが核心に触れる部分が暴露されやすいので、個人的には良く見ます 一方知識・経験レベルの違いに気を使いすぎる日本的サイトはご近所の話し合いにしかならず、まあしかしそれなりの使い方はしています 節度のある乱闘サイトは日本人に一番欠けているものを補ってくれるのではないでしょうか
お礼
実感がわいてきました。私もそういうことを感じます。節度ある乱闘サイト、ありそうでなかなかありませんね。群れ対群れという構図が1番何か生まれそうなんですけど。
世界をたくさん知っているわけではありませんが、ご質問のような事については日本人には特殊な一面があると思います。 乱闘にしても、喧嘩にしても、日本人はスッキリ忘れて水に流す事が苦手な国民性であるような気がします。 西部劇によく見るアメリカ人は、気に食わない相手とバッタリ会ったら、いきなり殴り合い、地面を転がり合ってつかみ合いの喧嘩をしても、その後は立ち上がって肩をたたき合い、手を握って友人になるようですが、現実面でもそのような傾向があります。 一般的に言って、欧米人は喧嘩っ早くて、すぐ言い合いになりますが、後まで尾を引きません。 それに比べて、日本人は人と争ったり事を構えるのは好みませんが、一旦喧嘩をしてしまうと仇のようになってしまいます。 これは、小さい頃から様々な人種に揉まれ、隣に、自分と肌の色も考えも違う人がいて何かを共有し共存し合うという事に慣れていないからだと思います。 生まれながらにして、自分とは異質の人間と共存しなければならないとしたら、否応無く他を理解して受け入れざるを得ないと思います。 日本では個性的である事や、他人と違うという事は美徳ではなく、自己を強く主張しない事、その他大勢の中に埋もれて目立たない事が奥ゆかしく、出来た人間であるとされる傾向があります。 そのため、自分と違う意見の集まりに入って自己主張をする事は喧嘩を売ったと取られる傾向がある事を知っているため自然、衆A、衆Bとなる事が多いのではないでしょうか? たとえ匿名サイトと言えども敢えて冒険をして異質のところへ飛び込めば、イジメを受けて傷つく事もありますし、孤独を噛み締める事にも繋がりかねませんから。 しかし、日本人はもっともっと、討論というものに慣れて、反対意見にも耳を傾けるべきだと思います。 此処では乱闘は削除対象ですが、違う意見を述べる事は違反ではありませんので、勇気を持って反対意見の集まりにも参加すべきだと、私は思います。 個人のIDを名指しするのでなければ、多様な意見が飛び交うディベートは楽しいものではないでしょうか。
お礼
日本人の伝統的生活習慣や島国根性から、闘争を極力回避する傾向があるのは否めませんね。それによるプラマイはいつも存在するわけです。いい情報が出にくいです。馴れ合いからは空虚なものしかないわけですし。もっとも必要なのは、衆Aの中に衆Bの誰かた切り込んだら、すかさず援護することだと思いますね。そして、乱れ撃ちの中から、以上方がぽんぽんと飛び出してくること。
お礼
新鮮味がなくなったから、疲れるようなことはしないというのはもっともなことですね。結局、やり合ってもたいした効能や知識が得られるわけでもなく、無駄なエネルギー消費だという感覚も大きいのでしょう。つまり、インターネットの内容というものがほとんどない、質が低いということもありますね。