- ベストアンサー
日清戦争後の日本と清国の特殊な関係
日清戦争後の日本と中国の関係について質問です。 ネット上で「日清戦争後、日本と清国は特殊な関係を持つようになった」という記述があったのですが、これはどのような関係なのでしょうか? 調べてみてもよく理解できませんでした。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
これだけでは、その人が何をテーマとして書いたのかよく分かりませんので、その「ネット上の」文章とは、意図がずれるかもしれませんが・・・。 日清戦争後、日本には大量の清国留学生が入ってきました。陣瞬臣の「中国の歴史(近代編)」を読むと、清朝末期(つまり1900年代初頭)には、東京だけで10000人以上の清国留学生がいたとのことです。有名な魯迅も、その1人です。ただし、この人は東北大学医学部でしたけれど。 留学生には官費も私費もいて、早稲田・神田あたりには清国留学生会館もあったそうです。これは、近代化のお手本として同じ東洋の日本で、西洋技術・思想を学ぶという意味合いがあったようです。近いので、私費留学生などは、金がかからなくて良い、という理由もあったようですが。 ところで、外国に出てみると、自国の良さも悪さも分かるというのは、今も昔も変わらないことで、特に清朝の場合は体制自体が末期症状でしたから、留学生の間では清朝打倒運動がかなり激しくなります。さらに、変法運動の政治家(康有為や梁啓超)が亡命して、新聞を発行するなど、日本は革命運動の拠点になったわけです。孫文も数度にわたって訪日し、在日華僑から資金を集めると共に、清朝打倒の演説会などを催しています。 この時期の留学生として有名な人では、戦中に南京政府を作った王兆銘などもいます。彼は、清朝要人の爆殺計画を実行するなど、かなりの「過激派」だったようですよ。 で、さらに日本人でこの革命運動を積極的に支援した人達もいます。戦前右翼の親玉的存在だった頭山満、宮崎滔天などといった人達が知られています。日本人の民族主義的な右翼は、この革命運動にはかなり関わっています。 もっと言うと、政府自体がこうした革命運動に同情的というか、消極的な支持をしていた様子が見られます。清国とは外交関係がありますから、大使館を通して「留学生の革命運動取り締まり」について再三要請が政府に来ていたようですが、上で述べたように孫文の演説会も新聞の発行も事実上黙認されていました。 「特殊な関係」が何を指すかは、最初に述べたように分かりませんが、そういう意味では、日本は清朝と外交関係を結びながら、反清革命運動の拠点という特殊な国だったようです。だからその時期の中国人の対日感情はかなり良かったようですよ。
その他の回答 (2)
- googahaku
- ベストアンサー率17% (43/242)
日清戦争(1894)後、日露戦争(1904)を介して辛亥革命(1911)前後の20年~30年はに新関係において「空前絶後」の時代であったといえるようです。 No2 さんが指摘されている通り、日露戦争にも圧倒的に勝利した日本を近代化の手本として、多くの留学生が日本にやってきて相当に日本理解が進んだこと、孫文などの中枢的要人を支援して辛亥革命を成功させたことなど、日本が果たした中国近代化の第一歩は、申請中華民国をして好感を持って迎えられていたと考えられます。 南北戦争勃発で出遅れていたアメリカ合衆国が中国大陸での権益を求めて画策を始めるまでは、孫文でさえ日本の満州での権益を認めていたと伝聞されているほど、日清の関係は良好だったのです。 日清戦争後の「特殊な関係」とは前述の20~30年間の「空前絶後」の時代、を指すのではないでしょうか。 聖徳太子の時代から「日本が中国を利用した」時代はあっても、中日両国が理解しあって「親密」であった時代は、現代に至るまで、ありえなかったことです。
- wsws
- ベストアンサー率9% (256/2568)
満州のことではないですか。領土問題。 日本は条約を干渉で覆されました。臥薪嘗胆。 満州は口利きのロシアに取られました。 加えて条約以上の土地をフランス他に取られました。 ロシアが敵だと言う共通ではないでしょうか。 フランス他は清にとって敵ですが日本にとっては明治の立役者であるのです。
お礼
ありがとうござました! とてもよくわかり参考になりました。感謝します!!