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二代目以降の征夷大将軍
征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、 二代目以降について、 ・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、 ・朝廷が任ずるのか(任命) をご存じの方、よろしくお願いします。
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>二代目以降の征夷大将軍 > 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、 二代目以降について、 ・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、 ・朝廷が任ずるのか(任命) をご存じの方、よろしくお願いします。 徳川将軍について勉強させて頂きます。 2代秀忠、3代家光、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗、9代家重、11代家斉、13代家定、14代家茂は、将軍継承についてもめた将軍達です。まず、この将軍達から見ていきたいと思います。 2代秀忠は長兄である信康の死があり、また、家康が天下人となったということで、新たに後継将軍について家康が側近に諮問したという話が残っています。次兄の秀康が対抗馬でしたが、出頭人の本多正信が秀康を推した(正信の子の正純は秀忠を押す)のに対して、秀忠は譜代層の大久保忠隣が推し、最終的に家康が秀忠に決定というプロセスです。将軍就任前の官職は権大納言から直前に内大臣。 3代家光についてはかなり有名ですが、弟の忠長には秀忠の正妻のお江の方と譜代層が推したようです。これに対して家光には乳母の春日局や出頭人層が推したように見えます。(次の説によれば譜代層は家光よりですが)最終的には創業者の家康が決定し、秀忠が追認する形でしょうか。 別の説では、家光は早い段階から世子に内定しており、譜代層を中心として、春日局に近い人間を加味した側近層を形成していた(秀忠の指示であろうとは思いますが)との考え方もあります。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。 5代綱吉は、譜代層を代表する酒井忠清が宮将軍案を主張したのに対して、出頭人の堀田正俊は家綱の弟の綱吉を推して、論争になったとあります。この後がはっきりしないのですが、会議後、堀田は病床の家綱の同意を得てという説と、家綱は死んでいたとの説に分かれますが、江戸城中に綱吉を入れて、(生死は不明ですが)家綱に対面させて、継嗣を決めたとされています。養嗣子決定後、西の丸に入っています。 6代家宣は、綱吉と生母桂昌院及び出頭人中心の側近層が綱吉の嫡子徳松の死後、娘婿の紀州綱教を推したのに対し、水戸光圀や譜代層は綱吉の亡兄綱重の子家宣を推したが、綱教死後、綱吉の決断で将軍世子は家宣と決定し、西の丸へ入っています。将軍就任前の官職は権大納言。 7代家継は、父である家宣が死の床に就いたときに幼少であったため、家宣が将軍就任を危ぶんで、尾張大納言の中継ぎの将軍就任を考えたが、側近の新井白石(間部詮房も相談に与ったとの説あり)が譜代層を慮って反対したため、家宣の決断で家継の継嗣が決定下とされています。将軍就任前の官職は権大納言。 8代吉宗は、紀州家の当主であったが、家康直系が家継によって絶えた(実際は家宣の弟が存在したが)ため、御三家の中でもっとも家康の血統に近いものとして選ばれたとされていますが、家宣正室の天英院と譜代層は吉宗を推し、側室の月光院と新井白石・間部詮房などの出頭人は御三家筆頭であり、家宣の考えにあった尾張家を推したとされています。綱吉、家宣、家継3代は側用人を中心とする出頭人が政権の中枢に位置し、譜代層は中枢から外れたようなありさまであったため、譜代層の巻き返し的要素があったものと思われています。このため、吉宗は将軍就任後、老中を中心とする譜代層に気を遣った面が見られます。将軍就任前の官職は権中納言。将軍後見役。 9代家重は、言語障害や、身体の障害があり、老中の中には廃嫡し、弟の宗武を押す動きもありましたが、吉宗のが長子相続優先の考えにより継承が決まったとされています。将軍就任前の官職は権大納言。 11代家済は、10代家治の世子権大納言家基の急死を受け、実父である御三卿の一橋治済と、田沼意次の暗躍により家治の承認の元、養嗣子とされ、西の丸へ入っています。しかし、家基の急死は暗殺との説もあり、スムーズな継承ではない可能性があります。将軍就任前の官職は権大納言。 13代家定については、病弱で、脳性麻痺を疑われる言動等があり、父12代将軍家慶は徳川慶喜を後継にしようとしたことがあったが、老中の反対で家定を後継としたとされています。将軍就任前の官職は権大納言。 14代家茂は、井伊直弼などの譜代層・大奥の南紀派の推す家茂と、水戸藩や有力諸藩の一橋派が推す慶喜が争い、最終的には井伊直弼が大老に就任し、家茂に決定(養嗣子)。ただし、家定は諸大名を集めて家茂の後継決定を伝えているので最終決定は家定だったようです。将軍就任前の官職は前日に権大納言。 4代家綱は生まれてすぐに父家光により後継とされ、元服後西の丸へ入っています。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。 10代家綱は祖父吉宗にかわいがられ、嫡男であったので問題なく継嗣となる。幼名竹千代。元服後西の丸へ。将軍就任前の官職は権大納言。 15代慶喜は、前代の家茂の遺言が田安亀之助であったが、幼少のため、難局の将軍には無理があるとの家茂夫人和宮の主張で、慶喜-亀之助の順で継承することになったと言われています。 このように見ると、家光を除くと幼名に「竹千代」と付く者は、生まれながらにして将軍後継者であったことが分かります。ただし、幼児の死亡率が高かったために、家基のように竹千代の幼名を持ちながら将軍になっていない者もいます。 将軍が父親であった場合、生存した男子中の最年長者が途中経過は別として、父親の将軍によって最終的には選ばれています。この背景には、家光の継承時に、家康によって長子相続の原則がたてられた(祖法と考えられた)ことが大きいように思います。また、譜代層が概ね保守的で、長子を支持したことも背景としては重要のように思われます。また、養子を迎える場合も、将軍が健在であれば、その将軍の意向が最終的な決定権になっているようです。 前代が死亡した、もしくはそれに近い状態のときには、大奥、特に前代の正室が強い発言権を持っていたようです。これに、譜代層の支持があったことも見逃せません。 一般的に、将軍の継承者に決まった時には、諸大名を集めて発表し、西の丸に住むようになり、元服後権大納言に任官し、襲位を待つことになります。 手続きとしては将軍(正室)→老中→高家→朝廷に将軍任命の申請となることが一般的です。 朝廷が征夷大将軍に任命し、4代家綱以降は江戸に勅使を派遣して、辞令を渡しています。 (家康は伏見、秀忠・家光は京都、慶喜も京都であったと記憶しています) この時に、征夷大将軍の任命だけではなく、例外はありますが、同時に、内大臣、右近衛大将、源氏の長者、勧学院奨学院別当に任命されています。 以上、長くなりましたが参考までに。
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- augustinus
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日本は明治になるまで、国としての法律は奈良時代から整備された律令が残っていました。 この律令の中で、『征夷大将軍』は令下の官(りょうげかん)といって、律令に規定されていない臨時職です。 制度上は天皇が任命することになっていますが、正直貴族でなりたいという人はいません。 令外の官は、軽蔑される職です。 しかし、鎌倉時代以降は、武士の棟梁という立場を示すために、この職名が使われることになりました。 そのため、権威を利用するために権力者が、実質的に指名することとなりました。 ただ、権力者は他の回答にもあるように時代と共に変わります。 日本は不思議な国で、権威を利用するくせに、その権威自体は世襲にするということが習慣となっています。 貴族が政治の中心の際は、天皇が神輿となり、鎌倉、室町と、武士の時代は、将軍がお神輿となってかつがれました。
- oska
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>誰が手続き的な決定権を持っているか 指名は、幕閣が行ないます。 時の将軍の意向が優先しますが、次期将軍候補を指名しなかった場合は幕閣が決めます。 >朝廷が任ずるのか その通りですね。 幕府の指名に基づいて、朝廷が天皇の名において任命します。 朝廷には「拒否権」は、ありません。 以上は、江戸幕府の場合です。 鎌倉・室町幕府の場合は、時の権力者が次期将軍を指名しました。 特に室町幕府後半は・・・。 細川高国が10代足利義植指名 細川澄元が11代足利義澄指名 細川高国が12代足利義晴指名 細川晴元が13代足利義輝指名 三好三人衆(義継など)が14代足利義栄指名 織田信長が15代足利義昭指名 となってまして、朝廷は任命の見返りに莫大な援助を受けます。
- Scull
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初代だろうが15代目だろうが、形式的には朝廷、つまり天皇に任免権があります。実態は幕府内で決定しますが、幕府からの推挙によって朝廷が任免を行います。