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「最後の晩餐」の意味について
最近よく「最後の晩餐は焼き肉がいい」とか「卵かけごはんがいい」とかの 発言を目にして違和感を感じるのですが、 そもそもキリスト教でいう「最後の晩餐」は メニューを選べるような類いのものなのでしょうか? (同宗教については門外漢なので、もし質問に無礼がありましたらお詫びします。)
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こんにちは。キリスト教では、「最後の晩餐」というのは、イエス・キリストが十字架に磔にされる前、十二弟子と共に取った最後の食事のことで、メニューを選ぶような類のものではありません。(このとき、イエス・キリストの弟子の一人、イエス・キリストを裏切って引き渡したユダも一緒でした。イエス・キリストはユダの裏切りをご存知でした。) その食事は「過ぎ越しの祭り」(イスラエル人の先祖がエジプトの奴隷状態から救出されたことを忘れないよう記念し、感謝するための祭りです。エジプトのすべての初子が殺されたとき、イスラエルの家は過ぎ越され(通過され、)子供たちは難を逃れたことにちなみます。)を祝うためのもので、酵母菌を使わずに作られたパンなど、食べ物も決まっています。それぞれ象徴的な意味があります。 その食事を取っているとき、イエス・キリストが聖餐を制定されました。イエス・キリストの体を象徴するパンと、血を象徴するぶどう液を取ることにより、イエス・キリストに従う人たちが、イエス・キリストの購いを記念し、イエス・キリストに従う決意を新たにするためです。それで、今も正統なキリスト教会ではどこでも、聖餐の儀式を行い、キリスト教徒はパンと水(あるいはぶどう酒)を取っています。 ですから、ただ「この地上での最後の夕食」とは全く違うのです。わたしも、「最後の晩餐」という、意味の深い、神聖でさえある言葉が、他の意味に取って代わられ、軽々しく使われていることに違和感そして不快感を感じます。 「この世での最後の夕食」あるいは、No.1さんがおっしゃるように「人生最後の晩御飯」というふうに言ってほしいものです。 ご理解のお役に立てば幸いです。
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- nemosan
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>最近よく「最後の晩餐は焼き肉がいい」とか「卵かけごはんがいい」とかの >発言を目にして違和感を感じるのですが、 こっちの意味の「最後の晩餐」は、キリスト教は直接は関係ありません。 TV番組『ニュースステーション』の人気対談企画のタイトルでは? 『最後の晩餐―久米宏対話集』 http://www.amazon.co.jp/dp/4087743861
お礼
アドバイスありがとうございます。 同テレビプログラムは私も視聴したことがあります。 テレビの影響力は多大ですよね。 このプログラムの題名になったおかげで 誰も訊いていないのに質問のような発言を自らする人が増えたことは明らかだと思っておりました。
- pri_tama
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>そもそもキリスト教でいう「最後の晩餐」は >メニューを選べるような類いのものなのでしょうか? イエスがパンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の血」として弟子たちに与え、「これをわたしの記念として行え」と命じたとされますから、選択の余地は無かったのでは…。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90
お礼
アドバイスありがとうございます。 リンク先、拝見しました。 空腹を満たすための食事ではなく、弟子達に教えを伝えるための出来事だった と理解しました。 メニューはその教えを伝えるために必然的に選択されたもので 選択の幅があるものではなかった、とも理解しました。
- elizabeth
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単に、人生最後の晩御飯って意味でつかっているのではないですか? 裏切り者がいるわけではないでしょうし。
お礼
早速のアドバイスありがとうございます。 質問文が簡単すぎたかもしれません。 人生最後の晩御飯のメニューを自分で選ぶことができる、という 楽観的な感覚と死への無自覚さに違和感があり 専門的に見た場合、どういう出来事だったのかと思い 質問させていただきました。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 門外漢にも子細が正確に理解出来るようにご説明いただいたことに感謝いたします。 この事跡についてはダ・ヴィンチ作の壁画の印象しかありませんでしたが あの壁画に描かれている一つひとつにこのような意味があるのだと判り、 多くの方が信仰されているキリスト教の奥深さに、ほんの少し触れられたような気がします。 私は特定の教えに帰する者ではありませんが、 自分が信じているものごとを軽々しく扱っているのを見聞きするのは 決していい気分ではありませんし、 自身の言動によって不快になる人がいることに想像が及ばない人には失望もします。 回答者様のお気持ちを理解し、もしこの言葉に触れる機会がある場合は 信者さん達がご気分を害さないようにしたいと思います。