こんにちは。キリスト教では、「最後の晩餐」というのは、イエス・キリストが十字架に磔にされる前、十二弟子と共に取った最後の食事のことで、メニューを選ぶような類のものではありません。(このとき、イエス・キリストの弟子の一人、イエス・キリストを裏切って引き渡したユダも一緒でした。イエス・キリストはユダの裏切りをご存知でした。)
その食事は「過ぎ越しの祭り」(イスラエル人の先祖がエジプトの奴隷状態から救出されたことを忘れないよう記念し、感謝するための祭りです。エジプトのすべての初子が殺されたとき、イスラエルの家は過ぎ越され(通過され、)子供たちは難を逃れたことにちなみます。)を祝うためのもので、酵母菌を使わずに作られたパンなど、食べ物も決まっています。それぞれ象徴的な意味があります。
その食事を取っているとき、イエス・キリストが聖餐を制定されました。イエス・キリストの体を象徴するパンと、血を象徴するぶどう液を取ることにより、イエス・キリストに従う人たちが、イエス・キリストの購いを記念し、イエス・キリストに従う決意を新たにするためです。それで、今も正統なキリスト教会ではどこでも、聖餐の儀式を行い、キリスト教徒はパンと水(あるいはぶどう酒)を取っています。
ですから、ただ「この地上での最後の夕食」とは全く違うのです。わたしも、「最後の晩餐」という、意味の深い、神聖でさえある言葉が、他の意味に取って代わられ、軽々しく使われていることに違和感そして不快感を感じます。
「この世での最後の夕食」あるいは、No.1さんがおっしゃるように「人生最後の晩御飯」というふうに言ってほしいものです。
ご理解のお役に立てば幸いです。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 門外漢にも子細が正確に理解出来るようにご説明いただいたことに感謝いたします。 この事跡についてはダ・ヴィンチ作の壁画の印象しかありませんでしたが あの壁画に描かれている一つひとつにこのような意味があるのだと判り、 多くの方が信仰されているキリスト教の奥深さに、ほんの少し触れられたような気がします。 私は特定の教えに帰する者ではありませんが、 自分が信じているものごとを軽々しく扱っているのを見聞きするのは 決していい気分ではありませんし、 自身の言動によって不快になる人がいることに想像が及ばない人には失望もします。 回答者様のお気持ちを理解し、もしこの言葉に触れる機会がある場合は 信者さん達がご気分を害さないようにしたいと思います。