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子供時分の個性的「嗜好」に対する世間とのギャップ

世に、メジャーなもの、評価されるもの、一般代名詞的なもの、いわゆる、名作とか名店名選手「美人」女優の評価その他もろもろの「メジャー」代名詞を与えられる物事人物に関して、「いや、自分はどうもそうじゃない、こっちが好きみたいなんだけど、あまりこういうのがすきというのは世間では言われていないなー」という感覚を子供時代に持ってしまうことはどうなのでしょうか? これがある程度年齢が行っていて、自己と社会との相克というかある程度の距離感を感じられるようになってからならいいのですが、まだ1桁台の年齢のときとか、結構怖いことではないでしょうか。自己不信や社会不信を招きかねない気がするのです。 わたしも結構あったと思います。それがどういう影響を子供心に及ぼしあるいは後々まで続くのか、知りたいと思いました。

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  • hakobulu
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回答No.1

>それがどういう影響を子供心に及ぼしあるいは後々まで続くのか :というよりは、なにかそれまでに受けた影響が記憶に刻まれているわけで、その影響によってそれ(個性的「嗜好」)が選択されるのかな、という気がします。 >1桁台の年齢のときとか、結構怖いことではないでしょうか。 :それはありますね。 あ 俺ってなんか違うみたい・・・、といった感覚でしたら私もありました。 良いにつけ悪いにつけですが・・・。 しかし、案外こういう人は多かったりするかもしれません。 そこから迎合的になるか独立独歩的になるか自然と枝分かれしていくような気も、漠然とですがします。 >自己不信や社会不信を招きかねない気がするのです。 :これもわかります。 その 個性的「嗜好」に対して、どのような評価を周囲が与えていたか、ということは重要な要素となるでしょうね。 その後の人生を左右するかもしれません。 しかし、どんな評価であれ環境からの刺戟であれ、咀嚼するのは自分自身なので、はなはだ楽観的ではありますが、その意味で人生は面白いということは言えると思います。 他人(一応、親は別)に責を求めてしまうと、うまくいった場合にも他人のお陰となってしまうのでつまらない。 というケチな考えを私は持っています。  

garcon2000
質問者

お礼

嗜好が先か、経験が先か、卵が先か鶏が先かという感じでもありますね。いずれにしても、なにか圧迫感とか居心地の悪さを覚えることです。 おっしゃるとおり、多くの人にあるのかもしれないけれども、その後「迎合的」になっていって、気づいたらすっかり染まっているということも多いのでしょうね。どうしても、それに染まれない、抵抗が多いという場合、独立独歩なにかきつい方に行ってしまいますね。 周囲の評価は期待できない方が大きいでしょう。やはりそれは、統計学的に、「世の多数派」理論の餌食になってしまいます。ちゃんと自己の嗜好やその客観的立場を平静に保っていられるか疑問です。 上手くいくことというのは、本当に満足することならば、やっぱり自分のおかげ要素が大きいのではと。