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霊とは…
どうもこのカテゴリーの諸氏は「霊」とくると、異常な反応をおこされる。(その証拠は、その論拠はと、理詰めでこられる。) その実、お墓参りには何の抵抗もなく行っておられる。まるで、大槻教授と、某たま出版社のTVタックルのようである。 「愛」とは何である。「無償の愛に生かされている」その具体例を示せ、などなど。結局、その人当人が体験しないと解らないと思わずにはいられません。 そこで、みなさまにお聞きしたい。 あなたは、灰になったら全て終わりなのか、 それとも、とわに続く、たましいの修行場なのか、と。 「 」 余りにもお粗末な質問をさせて頂き、恐縮しています、それに、このページが削除されない事も、切に祈っております。
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<<あなたは、灰になったら全て終わりなのか、それとも、とわに続く、たましいの修行場なのか、と。>> 私と言うシステム・構成要素は、五感と意識の六根。または色・受・想・業・識のシステムの相互関係。 これ以上には発見できません。 そしてこのシステムはそれぞれが原因・結果となり、法則性をもって流れていく様子もなんとなくは理解できます。 その中で、正しい方法で精進しなければ、苦しみの増す方向へシステムがいきやすいことも解ります。 苦しみを滅していく道・正しい方法の精進も自己の理性の度合いによって確認できます。 肉体はいずれ壊れるでしょう。壊れてもこの巨大な力を持つシステムが消えてなくなる事は考えにくいです。次のなんらかな結果となると憶測いたします。 それが輪廻と言われるものでしょう。それが変わらぬ「私」かはちょっと解らないです。「私」自体何なのか発見できません。「私」と思っているものがあると感じているだけで、常に変わり続けるシステムですから…。常に違うものに生まれ変わっていますから。 輪廻を信じようが信じまいが、この世で自分のためにもなり他人のためでもあることをすべき。理性的な道徳的な人間になるべき。と言うことは同じだと思います。 その論理的道徳的に反論の成り立たない道である「八正道」を多く実践し、心明るく笑顔で暮らすために精進することは、いかなる生命にとっても役に立つことでなすべきことではないだろうかという見解を愛好して大事に持っています。 霊については、「そんな生命がいても何もおかしくない」との見解を持っています。科学教の方々は論拠なく、論拠がないとその題を否定しているのですから理性的ではありませんし、科学自体をどれだけ理解しているのでしょうかね。かたくなに見解を押し付けたり決め付ける人も同じ。理性的とはいえませんね。 解らないものは解らない。どの範囲でこのような結果がみられたからこのようなものではないかと言う見解を持っている。その上で理性的に論理的に柔軟に話す人こそ、他人と自分の自由を重んじる尊敬すべき人といえるでしょうね。
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- shift-2007
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それじゃあ私の考えをひとつ、 あの世の話はこの世の諸問題を解決する助けにはならないから この世の問題はこの世の言葉で解決するべきじゃないでしょうか。
お礼
また、ご教授をお願いします。 ご返答有難う御座いました。
補足
ご説ごもっとも。 よく人の顔を見ろといいますよね。 その目を見たら普通の人間だったら判ると思いますよ。その人が大体どれほどの人か。 「目は口ほどに物を言う」ってね。 でも、目でも口でも表わせないものがあるんです。 それは、善行です。 今、私はみよりも無い人の介護をしているのです。 この先どうなるのか、分りませんけど、死ぬまで面倒をみようって思っているのです。その人は精神障害者ですけど、放ってはいけないと私は思っています。 そのことで、私は何のメリットもありません。ここで、手を離したら、私はにんぴ人です。死んでお詫びが出来ません。 お父さんに怒られます。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
ひとつ聞いてもいいですか、 無記:釈迦(しゃか)が、他の諸宗派からの形而上学的な質問に答えを与えなかったこと。 これにが本当なら釈迦の意図は何だと思いますか。
お礼
文明が興るとき、それに見合う弟子がいなかった。 形而上学といっても私には解りません。 ただ、「慈悲」を説いた。 イエスも「愛」を説いた。 それは解かります。こんな私ですが、またご教授いただけませんか。 ご回答まことに有難う御座いました。
補足
釈迦の到達した境地を理解した仏弟子は、誰もいませんでした。それが証拠に、当時の仏弟子は、如来界には一人もいません。これは、キリストにも言えることです。 だから釈迦は、一人ひとりが分る範囲で、教えを説きました。それが故、釈迦の本心が解らず、後世まで、いろんな邪説がはびこったのだと思います。 現在は、釈迦の本心とは裏腹に、仏弟子と称している無神論の輩の、邪教がはびこっているのが現状です。 ですが、釈迦の揺るが無き意図は、今も引き継がれています。
- taro1121
- ベストアンサー率43% (178/409)
私の考え 全在:すべてある 愛も霊も「そこ」にある。「そこ」は人それぞれ異なり、それを議論しあっているだけ 霊とお墓参り 日本人が無意識にはんのうしている誤解から生じている 宗教と信仰の違い 信仰心は厚いのだが、宗教心は拒否する 宗教はメンドクサイモノが定着した結果ではないでしょうか そして「霊」という単語が宗教的言葉を含むので、種々の反応を引き起こす 「灰になったら全て終わりなのか」「とわに続く、たましいの修行場なのか」 一個体としての生命活動は「全て終わり」であるが 個体が残した「モノ」「カタチ」は存続する 命とは何か、死とは何か そういった命題に似ていますね そして、まだ言葉・カタチになっていない「何か」が、まだまだイッパイ存在しているように思えます その言葉にならない「何か」にいきどおりを感じていらっしゃるのではないでしょうか
お礼
ご回答有難う御座いました。またのご教授をお待ちしています。
補足
まだ言葉、形になっていない「何か」が、まだまだ一杯存在している。それは、精妙な波動なのか。未だ地下深くに我らがしらぬ、新たな鉱物が生成されているのか。 それを使って半重力装置を創れということか。または、霊界通信機を創れということなのか。是非そうであって欲しい。その妙なる天使の歌声を、多くの人々に聞いて欲しい。 出来ればその第一声がシューベルトの「アヴェ・マリア」であって欲しい。そのメゾソプラノの歌声が、天地に響き渡るとき、人々は目を覚ますであろう。 愛しき地球に生まれて来たことを、涙することであろう。そしてこの地球の次元構造も判るであろう。地上での戦火が終わる時、その日は必ずやってくる。
- dogendd
- ベストアンサー率15% (2/13)
キリスト教にも仏教にも愛には発展段階があるとおもいます。一点に留まった愛は堕落を生む。 ゆえに愛は高めていかなくてはならない。ここに愛と智(悟)は融合するのだ。 なんとなくでした。
お礼
つまらない私のファンタジーを書かせて頂きました。 ご回答まことに有難う御座いました。
補足
「なあ。もういい加減にして、ここいらでその古い玉葱の皮も取ってしまいましょう。大丈夫だって、ね。貴方が消えて無くなる訳じゃなし、そう心配はしないで。この宇宙の創造主様は、純粋な愛と叡智な御方なのです」 「愛は愛するものを求めて止みません」 「そしてより高みへと、より進歩させようと、創造主様は思われているのですよ。だからこそ不完全なままの人間を創られたのですよ。始めから完全な人間を創られていたら、人も宇宙も進化しません。そしてそれは無限の愛でも叡智ともいえません。創造主のお心とは違います。だからこそ敢えて、私達に未熟さを残し、至高な愛への道のりを残されました。そうは思われませんか」 「おい、聞けってなあ」…
- dogendd
- ベストアンサー率15% (2/13)
やはり愛とは何かについての説明にともない、霊やあの世の 存在の必要意義というものがある、ともいえるのではないでしょうか。 慈悲を説明するとすれば、当然あの世の存在が不可欠となるわけでしょう。(この場合)そうすると結果、慈悲も霊も証明不可能となる。 霊の実在性を強調しすぎるとかえって、執着になる。 なんて考えてみました。
お礼
大変おそまつな補足で、お時間をとらせ、申し訳ありません。 ご回答有難う御座いました。
補足
知の理論では、紐理論でしょうか。 理の理論では、他者を排斥しない、 では梧の世界では、何でしょうか。 与える愛、これに尽きます。 大変おおざっぱな意見でしたが、前々から申していた通り、前回は、誤字脱字だらけで、何とも、おばかさんで、これで小説を書いているなどと知れたら、それこそ噴飯ものでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私としては、人間と人間との間の義務感からかの書き込みでした。 それに、持ち上げも、落としもしておりません。 禅問答をごぞんじでもなく、ご理解もされておらないようです。 私のものはそんなものではもちろん御座いません。 ご勘弁は・・・ おいやならそうします。 拙い書き込みに礼儀のあるお言葉とともに、容易だの、難解だの、心理は容易であるはずであるとかいわれたので、ここまで書いてまいりました。 お互いに、私はこの年、寝覚めの悪い引っ込みをさせていただきます。ご迷惑をおかけしました。
お礼
この星に人類型生物が降り立ってのは、射手座(イエス・キリスト)、白鳥座(孔子)、蟹座(モーリア)、そしてマゼラン星雲から10億人、ペガサス座から20億人との説があります。 現在に地球系霊団の総霊人口は440億人。 ご回答有難う御座います。
補足
それは、とても悪いこをしてしまいました。お許し下さい。前項のかの女性の落ち込み方を見て、気もそぞろ、御貴殿のご回答を、眼光紙背に徹し得なかった事を、お詫び申し上げます。 さて、私も人間と人間との義務感から申し上げます。私たち人間は、はるか昔から、永遠の生命を持って生きております。そして、何度も何度も、地上に生まれ変わっては、人生修行を積んでいるものと思っています。 寝覚めの悪い引っ込みはさせたくありません。今一度、ご教授をお願い致します。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
○いやいやご立派なご意見でしたよ。○ 実は意見ではなく、勉強と精進の認識でして、ご質問に参考にしていただくためでした。失礼しました。 ○知性と理性と悟性が、 実はこの「知性と理性と悟性」については私たちの勉強カリキュラムではその発生、源由、そして機能と限界、その性格と本性を認識し、その使い方とコントロールの訓練もその内容としております。そういう機能に翻弄されて、人間はとりとめなく、うら悲しくもそ歩みをしてまいりました。 「知性と理性と悟性」の拠って立つ基盤、もの。その認識とともに、その主人である自分というものを見定める、意識化することがその訓練でもあります。 欧ではカントとラートブルッフしか、そして和漢の文化多少しか親しんではおりませんが、法律でもカントでも、認識とか当為というものの範囲と性格、その用具の検討、有効である世界。このことを知らずして、科学と科学知識に信仰していても、標榜する知なる人間がわらわれてしまいましょう。 アプリオリの用具の向こうにまでいくのがヒンドゥ古代の伝統です。 私たちのグルがいろんな方の中でのお一人として観せられることを潔しとしないのは、私たちの勝手ではありますが、たぶんご質問者さんがお生まれになるずっと前、マハサマディ(地上のお役目を果たして、肉体をでておられます)に入られております。 私の中学二年くらいです。そのころはまだ、下村湖人やロマン・ロラン、出隆、三太郎、百三や禅宗の解説、入門くらいに夢中でしたが。 ですから今、グルに洗脳されているなら、これ以上の本望はありません。そう思えば、お言葉に感謝しなければなりません。 近所の立正佼成会の立派な支部長さん宅から、夕暮れ、大勢のおばぁさまが出てこられました。「お隣のお爺さん、いつもお掃除ありがとう。ご苦労様」そのときは意外な思いでしたが、「お隣の」が気に入りました。孔丘とは誰の・・おらが隣の丘(いみな)のことかを思い出してきまして。「お爺さん」も「(わしかい)少は之を懐かしみ、友は之を信じ、老は之は安んず」という孔子のことや老子のことを思い出して、今はあのおばあさまの言葉が励みになっております。 きっと、この洗脳という言葉も大事な大好きなことばになるでしょう。
お礼
貴重なお時間を割いてのご返答。有り難く受け止めました。 ありがとうございました。
補足
いやいや禅問答のよになってきましたね。 持ち上げて落とすという展開ですか。 またグルですか。もう勘弁してくださいよ。
- dogendd
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この世は諸行無常ではあるけれども、 悟りをひらけば分かると思います。
お礼
諸行無常であるから「慈悲」がある。 そう思っています。 ご回答まことに有難う御座います。
補足
はい。解ります。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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━━ただね。 いろんな見方が有って良いと思うのです。━━ はい、いろいろな見方があってもよろしいでしょう。 どれが自分の感性、フィーリングに合うか、 どれが一番自分が理解していくのに適合的か。 どれが一番自分が包括、総合的に、はじめから最後まで理解していくのに適合するか。 で自分で選んでいる。何かのご縁で選んでいる。いろんな訪問の末に選んでいる。 ということですね。 私たちは人間とその知覚能力、認識経験能力、判断認識能力、行為と生命の機能、そして意識自体についても一定の原理の中の被創造にかかるものとして、万能であるとは必ずしも考えてはおりません。そういう機能と能力を超えた、存在と世界のことについては、上記のものは無理であると考えております。 それを単にカルト的な、あるいは盲目的な手法によって行おうとすることはまことに悲惨なことであります。このことを理解しての私たちの認識と実現なのです。科学の限界を宗教や信仰、その他の非科学や、似非科学で何とかしようということは悲しいことです。 その前になによりも、人間とこの世界というものとはどういうものなのかが知的好奇心としてではなく、真摯に求められるべきでしょう。
お礼
いろんな人が、いろんな所で、いろんな仕事をすることが、理想です。 ご回答ありがとうがざいました。
補足
知性と理性と悟性が、バランスよく成り立つ世界が、理想です。今はそのトライアングルが、少しゆがんでいるように思います。 現代は、知の時代で、そこに悟性が突出すると、おかしな人と思われます。 やはり、知性の次は理性的な世界が、出現するのが自然だと思うに至りました。 でも知の時代が長引くと、漱石の草枕にもなりかねません。 「知にはたらけば角が立つ…」そう想うこのごろです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
貴兄はあくまでもお会いできない方への敬称です。 詳しすぎることを申し上げました。 私自身を緞帳や幕の後ろに隠すことを潔しとしないで、正体をさらけ出すことが誠実な仕方だと愚考したのです。そして私の言っていることの出典典拠を申し上げる義務感からの、露出でした。もしご関心をお持ち下されれば、ご自身で直接あたられることのほうがいいと、私自身の占有をしたくなかったからです。 しかれども、おしつけがましい、独断、というようなことになれば、まことに悲しみながら反省します。 同じ信仰の同士の間のことを、仮令、公開されているとはいえ、そして行法ではないとはいえ、中身の基本のことを、ことばの端端から信頼申し上げ、お話申し上げたことを反省しなければなりません。 今まで私は、同じ信仰ではないのに、このサイトでもあまりに高度な方方とのやりとりができていた幸運を感謝しながら、今後の戒めにいたします。 自分たちの真珠は自分たちで大事にするべきなのが本当ですね。 主観的に自分が真珠だと思っていることを、見境なく、ささげていっては、思った気持ちは必ずしも通じるばかりではないことは、当然です。誰がどうどいうことではありません。 どうかもうお忘れください。私の思慮の浅さの故です。 数十年来の旧友の中の多くは、話す相手でもないことを思い出しております。申し訳ありませんでした。
お礼
緞帳の中にいないで、まばやく光の中にいて下さい。 ご返事有難う御座いました。
補足
いやいやご立派なご意見でしたよ。 今の時代、何も信じられない人が多い中、あなたは、あなた自身の信念のもと、揺るがない信仰心をお示しになられた。 なかなか出来ないことですよ。自信を持って下さい。 ね。
お礼
お忙しいお時間を頂きましてのご返答、有り難く思います。
補足
久々に古里へ帰った感じが致しました。 青葉若葉の間を通る、すがすがしい皐月の風の香り、とでも言うのでしょうか。 「ああ、何という懐の深いお方なのか」「情けのあるお方なのか…」 という懐かしい古里の感じが致しました。