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その人の価値は何?

Aさんという人がいるとします。 Aさんの長所は「人に優しいところ」です。 ではなぜAさんが「人に優しい」のかと言うと、 それはAさんの親の教育が良かったためだとします。 誰かが「Aさんは本当に優しいですね。これも親御さんの教育が良かったからでしょうね。」と言ったとします。 この場合、僕にはAさんではなくAさんの親だけが褒められているような気がします。 じゃあAさんには褒められるところはないのかと思ってしまいます。 「人に優しい」のはAさん自身なのに。 ある人の長所の原因が親(必ずしも親でなくとも、本人以外の何か)だとしたら、 原因に価値があって、その人自身には何の価値も無いように思えてしまうんです。 確かに、人は親の教育で性格もかなり左右されると思います。 この例にしても、Aさんが人に優しい原因は親の教育のためでしょう。 「だから親には感謝すべき」という理論も分かりますが、そういう問題ではなくて… Aさんには何の価値も無いのかと。 具体例を出します。 僕の身の回りでも、すごいと思える部分を持った人はいます。 その人がなぜすごいかと考えたときに、「親の教育がよかったから」ということになったら 僕は落胆します。僕はその人をすごいと思いたいのであって、その人の親をすごいと思いたいのではありません。 本人には何の価値もないんでしょうか??? 変な悩みだと自分でも思いますが、答えていただけたらありがたいです。 年代・性別で考え方が違うと思うので、年齢と男性か女性かも良かったら書いてください。よろしくお願いします。

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回答No.1

当方20代前半,男. そのような考え方が分からないでもありませんが,その考え方に固執するとネガティブになっていってしまうかもしれません. では「何に価値があるのか?何をすれば価値があるのか?」という“~ある”という視点でものを見るのもいいかと思います. 話はさておき,あなたの考え方について考えてみます. これまで育ててこられた外的要因によって,Aさんは“優しい”という他人からの支持を得た,ということですね. しかしそれは与えられたものであって,与える人に価値がある,つまり原因にもっとも価値があるという考え方です. すると本人には価値が無いということになります. しかし,では純粋に価値がある人などいるのでしょうか? 多くの人は,誰かから与えられたり奪われたりする価値の中で生きているのではないでしょうか? 私は以前そんなことを毎日考えていました. 例えば,児童虐待やアルコール依存症などは世代連鎖をすると言われています. これは負の価値が親から子へと伝わっていく現象ですね. 一方,どこかの会社の社長の下に生れた人間は社会的に成功しやすいといいますか,例えば金を儲ける方法など親から自然に教わって身につけるわけです. これは正の価値が親から子へと伝わっていく現象といってもいいかもしれません. このように,自分の生活している周りに居る人というのはおおよそ自分と同じ価値を与えあったり奪い合ったりしている人間なのではないかと思います. 類は朋を呼ぶといいますか,やはり似たもの同士は居心地がよく,いつまでも一緒に居るものです. こうやって見ると,価値は結局先代から受け継がれてきたり,周りから教えられたりして得られるものごとの方が多いですね. そうなるとあなたの言い分だと,価値のある人は大元を辿らない限り居ないという事になります. しかしです.先ほども言いましたが,大元になる人間には価値があったのではないかと思われます. そのような人間は外的要因に全く影響されずに内的要因から自ら価値を生むことが出来た人間なのではないでしょうか? これを例えば“天才”などというのではないでしょうか? 先ほどの大方の人間についてもそうですが,人は外的要因だけでは決して価値を得ることは出来ません. 価値を得るには必ず内的要因があってこそ身につくのです. ですから,あなたが例に挙げた“親から与えられて優しい”という人は価値の無い人ではないと私は思います. 確かにその様な優しさという素晴らしい価値を与える人が周りに居た事は幸いとしかいいようがありませんが,やはり自分でも優しくなろうと思う内的要因がなければ決して“優しい”人間になれなかったと思うのです. 話は変わりますが,私は塾で講師をしております. 生徒を教えていてつくづく思うのは,幾ら講師がいろいろな知識があって丁寧に分かりやすく教えても,生徒側が講師へ手を伸ばそうとしない限り知識は単なる情報でしかなく,定着されないということです. これを先ほどの話に照らし合わせて言うならば,外的要因がどんなに豊かであったとしても,本人の内的要因が乏しければ決して本人は価値を得ることが出来ません. 同様に,我々は他人から価値を与えられて自分の物にしているように見えますが,価値を得ることが出来た人というのは皆,内的にも努力した人たちばかりです. 即ち,価値を沢山持っている人というのは内的にハードな心の運動をし,日々の喜怒哀楽の苦しみと楽しみの感動の中で,沢山の価値を身につけようと努力した人でしょう. ですから,Aさんには価値が無いのではありません. 人に優しく出来るということは,親から与えられた優しさという知識を自分の中に取り込み,実践できる智恵に変えることができたということだからです. そして価値が無い人などはこの世に存在しません. 価値を決めるのは,価値を与えてくる人間が投げかける価値を自分が受け入れることができるか出来ないかによって決まるものです. 数学で三平方の定理という価値を,その生徒が自分の中へ受け入れなければ価値の“か”の字にもなりません. 価値を決めるのは常に受け入れる側の人間の問題です.特に内的要因がそれを決めます. このような考え方をするならば,この世のあらゆるものに価値を見出す事が出来る人間こそが,実は価値のある人間なのだということが分かるのではないでしょうか? 話はだいぶ逸れてしまいました. これが私がいままで考えてきて到達した考え方です. あなたも自分自身であなただけの考え方をして,私とは違う考え方をしてみて下さい. 新しい価値を自分の中から生み出してみてはどうでしょうか?

noname#60325
質問者

お礼

こんなに長い文章で回答していただけるなんて。 すごく参考になります。ありがとうございます!

その他の回答 (17)

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.8

先ずは、親の教育が良かったというのは、変な話です。その親も、親がいるし、その親も、親がいるのですから。親の教育が良かったということを否定しているのではなく、その考え方を否定しています。 私は坂を見上げて「これは上り坂だ」と言い、その坂を登って振り返り「この坂は下り坂だ」と言ったのです。 次の日、私はただ単にその坂を通り過ぎました。 評価は、その者の立場に変わりまし(相対的)、関心がなければ評価はありません。

noname#60325
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#117439
noname#117439
回答No.7

もしも質問者様が社会人で居てもなおこのような悩みをお持ちなら、自分自身が親に対してコンプレックスを持っていることだろうと思います。 そのような場合悩んでいる事そのものが問題なので心理学カテの質問です。 まだ学生なら良くあることで心の発達段階のひとつです。 哲学的に考えるのではなくていつの間にか通り過ぎる階段です。

noname#60325
質問者

お礼

ありがとうございます。 親に対してコンプレックス…あるかも知れません。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.6

30代、女性です。 「育て方がよかった」というのは日本人特有の表現だと思います。日本では「イエ」制度を重視し、そして親の存在を神聖視する時代が長く続きました。核家族化した現代でもそういう心的な遺伝?はまだ潜在的に残されていると思います。 虐待が増え続ける現代でも、世間は親を子より勝るものと捉えているところがあるでしょう。たとえば結婚式などは、育てて「くれた」親に感謝する儀礼的なシーンは変わりません。涙を浮かべて互いの両親に花束を贈呈する。そういう偽善に耐えられず、 「てめぇら、幼い頃からことごとく私の正常な成長を阻み、人としての自由を奪いやがって。ことあるごとに『誰が食わしてやってる』と言われ続けたことだけは忘れないねえぞ!」 と内心思ってても、自分を祝福する場で恨みつらみを爆発させることはちょっと勇気がいりますよね。その親の葬式ならなおさらでしょう(笑)。 逆のケースとして、たとえば素行不良の青年に対してよく耳にするのが「親の育て方が悪い」という常套句です。「よい子に育つのは親のおかげ」という命題がそれでは矛盾してしまう。というよりただの反語ですが、そのような狭い見方しかできないということは、他の評価も簡単に手のひらを返すことができるということでしょう。またこれはたとえばある意味での偏見と差別につながる社会心理だとも思います。 (余談ですが、私が中学生の頃だったかなあ。某ワイドショーでその頃売れていた某女優の特集がありました。そのコーナーが終わり、某司会者の某女優のコメントが「きっとお母様の教育がよかったのでしょうね」と耳にしてからこのような疑問を思うたび私はずっと疑問に思ってました) 「親の教育がよかったから」と第三者に言われて、自分自身が「そのとおりです」と答える人は逆に親に自我を抑圧されてきたいわゆる「いい子」である危険性が高い場合もあるでしょう。 たとえば一昔前の企業の面接で「尊敬する人は?」と尋ねられて「両親です」と答えるのが常識だったなんて信じられません。つまり、スーザン・フォワードのいう「毒になる親」のなんと多いことか。ということです。 たとえば発達心理学では「遺伝か、環境か」というのは普遍のテーマです。私見ですが私は遺伝より環境が重要と考えます。さらに環境は魂に勝ると考えます。 ひどい虐待を受けて育ったのなら通常心身に悪影響を及ぼしますが、まったく精神疾患を発症しないケースもあるそうです。もうこれは魂が強い、強すぎるとしか思えないのです。魂それ自体が宿命といえるようなものと思うのですが、ひとつの魂が小宇宙だとして、親や環境というのは自分が生きる基盤となる地球とします。地球に同化する魂もあれば、親や環境の影響を超えて何らかの使命を果たすのなら、遺伝や環境というのはそれを超えると思います。 劣悪な人生背景を背負った痛みの意味を、人に奉仕する仕事が使命と悟ればその人の道となるわけです(実際心理職や福祉の仕事についている人の動機に多いそうです)。自分の存在を危うくさせるものにすら負けず、強さに輝く、それが「その人の価値」であると考えます。 「親」というのは「子」が超えるべき存在と課題の対象であると思います。また親から与えられたものでは感謝すべきところは素直にありがたいと思う素直さも大切です。 もちろん愛情にあふれた家庭で育ち、心から自分の親に生まれてよかったと思えるほど幸福なことはありません。でもやはりお互いまったく別の人間です。顔や性格が親に似ているというのは遺伝子の影響かもしません。だからといって性質的な複写ではありません。 「人に優しい」のは親に似ている、といっても、人に優しくするのが「親切レベル」が精一杯の親と、そんな親を反面教師にして自分を賭しても人に優しくする愛情豊かな子ではまったく違います。 >変な悩みだと まったく思いませんよ。私もまったく同感です。

noname#60325
質問者

お礼

ありがとうございます。 >私もまったく同感です。 同じ事を考えてる人がいて安心しました。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.5

あなたが、その人の何を「すごいと思いたい」のかを考えてみたらいかがでしょう。 親から励まされ教わった「なま卵を上手に割る方法」ができることをすごいと思うのなら親がすごいというのも分かります。 でも、それを生かし利用しているところをすごいと思うなら本人のすごさとも言えます。 「人に優しい」ということも同じです。 人に優しくしなさいと教わってきたとしても、どのような場面でどのように誰にやさしくするのかは本人の選択です。 どんな生き方をするかは本人が選び決めていくことだと思うのです。 ですから、 Aさんの長所の原因が「本人以外の何か」に影響されて育まれてきたものだとしても、Aさんだからこその長所と言うべきだと思います。 ただ、言う側からすれば、その視点が「親」に向く場合もあるでしょうし「恵まれた環境」に向く場合もあるでしょう。それは言う側の勝手です。

noname#60325
質問者

お礼

ありがとうございます。 >ただ、言う側からすれば、その視点が「親」に向く場合もあるでしょうし「恵まれた環境」に向く場合もあるでしょう。それは言う側の勝手です。 確かにそうですね。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.4

>誰かが「Aさんは本当に優しいですね。これも親御さんの教育が良かったからでしょうね。」と言ったとします。 >この場合、僕にはAさんではなくAさんの親だけが褒められているような気がします。 別にそう思う理由は存在しません。 親御さんが、Aさんと全く同じ育て方をBさんにしたとして、Bさんも優しくなるとは限りません。 つまり、Aさんが優しくなった「原因の1つ」として、「親の教育」があるわけだから、 ・親だけが褒められている(=全ての原因は親にある) と考える必要は、ありません。

noname#60325
質問者

お礼

ありがとうございます。 >親だけが褒められている(=全ての原因は親にある) と考える必要は、ありません。 そう言われると気持ちが楽になります。

noname#194289
noname#194289
回答No.3

価値というものは価値を決定する人の都合でどのようにも変わります。極端にいえば価値そのものが実在しないようなものです。人にやさしいという例でいえば、戦場で人にやさしいというのはどういうことでしょうか。それほど極端でなくてもいわゆる利害関係がむき出しになっている局面で複数の人が絡んでいる場合、人にやさしいというようなことに不変の価値があるはずはないと思います。またやさしい人をほめるのもその親をほめるのも教育方法をほめるのも、その評価を決定する人の意図によって選ばれるものだと思います。また人ではなく優れている道具を考えた場合、その道具をほめるか、その道具を作った人をほめるかではどうでしょうか。コンテストがあって優秀賞をもらうのは道具でしょうか、その作者でしょうか。

noname#60325
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そういう考え方は僕の中にありませんでした。ただ、優しいと言うのはあくまで一つの例なので、問題は本人の価値は何なのかということです。 せっかく答えてくれたのに反論するようですいませんが…。

回答No.2

Aさんの中に価値はありません。 あなたが、「優しい人は価値がある」 「Aさんは優しい」「だからAさんは価値がある」と 勝手に思い込んでいるだけです。 あなたが「Aさんは価値がある」という印象を持っているだけです。 「価値」はあなたの頭の中にイメージとして存在しているだけです。 Aさんはすごいと思っても、育てた親が立派だと思っても すべてはイメージにすぎません。 こだわるほどのことではありません。

noname#60325
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 しかしbagus3さんのご意見だと、世の中の誰もが何の価値も無い人間、という事になってしまいます。 質問文にもあるように、僕の身の回りの「すごい」と思える人の「すごさ」の原因が本人以外にあるとしたら、その人のことをすごいと思えなくなります。それが何か寂しいなと思ったので。 あと、「価値」という言い方も語弊があったと思いますが、他に適当な言葉が見当たらなかったので…。

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