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お仏壇に死者は来てるのですか
私の家にはお仏壇があるのですが、祈りたいとは思わないのです。 でも仏壇がある以上祈らなければいけないような気がしますが、死んだ人はお墓や仏壇に来るのでしょうか。私は生きているので死んだ人のこともわからないし、見えもしないので供物など供えようという気が起こらないのです。 どうしたらよいのでしょうか。
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こんにちは。 ぼくが聞いた話ですが。 「位牌」はこの世とあの世をつなぐ扉みたいなもんだそうです。 死者の魂(霊)が位牌を通して、お供え物の気を取り入れるということです。 ですから、生きている人と同じように「ご飯」「お茶」などを朝晩お供えするのだそうです。 「仏壇」は、その位牌の「家」のようなものです。 仏壇にお供えするのではなく、位牌を通して、向こう側(あの世)にいる亡くなった方々に食べ物をお上げするという風に思った方がいいようです。 つまり「祈る」のではなく、生前と同じように、朝なら「おはようございます」、夜なら「おやすみなさい」、食事(お供え)の時には「召し上がれ」と挨拶をするのが人としての礼儀だと思うのですが。 肉体があるかないか、見えるか見えないかの違いだけで、接し方に区別する必要はないと思いますよ。 亡くなった方の生前を思って、礼をつくして接すればいいだけのことだと思います。
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- 1116yokomiki
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おもしろいですね。日本人って、形だけの仏教だから、基本的な事を知らない人が大多数で、しかも、お坊さんでさえ、いい加減な内容を平気で人に説くんですよね。(仏教では、嘘の教えを人に説くと地獄に行くと言われているのに…) 仏教では、【人間(を含む、あらゆる生き物)は死んだら、49日の間に必ず、どこかの世界(六道と言われる、地獄、餓鬼、動物、人間、阿修羅、天界の六つの世界)に生まれ変わる。】と説かれているので、日本に伝わる【仏壇】は本来の仏教では、存在しません。何故なら、『お釈迦さま等の高い悟りを開いた人のみをお祭り(信仰)している』のではなく、主体が既に亡くなった血縁者になっているからです。チベットなどの家庭には、仏壇がありますが、純粋に前述した、『お釈迦さま等の高い悟りを開いた人のみをお祭りしている』のです。それは、自分と血縁関係にあった亡くなった人達は、ほとんどが地獄、餓鬼、動物、人間といった低い世界へ生まれ変わっており、お祭りする対象では無いからです。 生きている間に、多くの生き物(害虫も含む)を殺していた人は死後、それらの生き物を殺したというデーター(業って言います)の精算の為に地獄の世界へ生まれ変わらないといけません。自分以外の生き物に生前、どのような行為をなしたか、によって死後の世界は決定します。これは、あまりに、厳密なので、信仰心の深い者は非常に戒めて生活しているはずです。 この世の中の多くの人は、ほとんど、因果応報(良いことも悪いことも自分がなした事は、全て自分に返る)を信じる事がないので、自分が苦しむ原因を多く積み重ねて生きています。言葉で人を傷つける、恋人や、配偶者がいるのにその他の異性と関係を重ねる、生き物を殺す、人の物を盗む、などなど、行った事全てが、いずれ、自分に返ります。 これらは、私が幼児の頃から両親に聞いても、かなり曖昧な仏教の説明を受け、非常に納得が行かなかったので、本などで調べて解ったことです。昔から個人的に、生き物を殺す、などに非常に反感があり、よく、母親と泣きながら口論したものです。ですから、前の生で、信仰していた人かもしれませんね。ハハハ…。 解りにくかったら、ごめんなさい。つまり、低い世界に生まれ変わったご先祖に、いくら、ご飯やお花を供養しても意味が無いんですね。心が『生き物を殺すぞ~っ』と煮えたぎった人(地獄の人)に供養しても、そのデーターが自分に移行してきてしまうだけです。お釈迦さま、などの高い悟りを得た人に供養するのは、逆に心が穏やかで、どんな事にも動じることのない、慈愛に満ちたデーターを受け取る因になります。 そんな訳であなたが、仏壇に対して祈るのを躊躇する、というのは、本来の仏教から見れば正解です。ビンゴです。お祈りする必要は全くありません。
お礼
ご回答有難うございます。 なんていえば良いのかわかりませんが、形だけ祈っても無意味だと思うのでしばらくやめようと思います。 時が経てば祈りたくなるかも....
- epson01
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返答を拝見しました。 いろいろな境遇の方がおられるのは事実です。 そういうことでしたら、お祈りする必要もないと考えます。 あなたが「ご結婚」されお子さんができたときに「心」の変化があるかもしれません。そういうことになった時でも遅くはないし、永久的にそうならなかったとしてもかまわないことだと思います。 何も義理でする必要もないし、貴方の人格が疑われるわけでもありません。 あなたが「そう」思うことを実行すればいい訳です。つまり、「そう思わない」ことは実行しなければいいのです。 もしも、そのことを「グチグチ」言う人がいたとすれば、その人こそが「形式的な、何も感情を解っていない」つまりは人格を疑うに値する人ですから。
お礼
2回も有難うございます。 家族に本当の気持ちをはっきり話します。
- epson01
- ベストアンサー率12% (120/933)
私は無宗教者ですが「お祈りすること」は悪いことだとは思いませんし、私自身、仏壇やお墓にお参りしています。それは「霊が帰ってきているからだ」とか、そういうことからではありません。 お墓にお参りするのは、その中に、実際、私を育ててくださった両親が入っているからです(骨ですが)。年に何回か、そのおうち(お墓)を綺麗にしています。 仏壇を拝むことについては、(両親が浄土真宗であったことから「過去帳」が「位牌」のこととはなりますが)そこに両親の魂がある訳ではなく、私の心の中に両親の魂があると考えていますので(つまりは私の心の持ちよう)そのシンボル的なものとして置いている訳です。 私が言いたいことは、形式的なことにとらわれず、あなた自身が過去のお世話になった方々(ご両親やおじいちゃんおばあちゃんやご先祖さま)のことをどう思うかと言うことだと思います。なにも思わないのであれば、何もする必要も無く、ましてや強制的にさせられる必要もなく、形式としても行う必要もありません。ただ、亡くなった方々に今も感謝をしているのであれば、形にとらわれず、また、シンボル的な物が無くても、拝む心一つでかまわないと思います。供物についても同様で、お墓に入った「貴方の心からの理解者」に対して、貴方が「生前これを食べて喜んでいたな」って思って置いてあげるのであれば別段不思議なことは無いと思います。例えば、タバコが好きだったから「タバコ」をお墓に供えるのもそういうことだと思います。
お礼
ご回答有難うございました。私もそのような気持ちを持ちたいのですが無理なんです。本当はもっと感謝の気持ちを持ちたいのですが持てないのです。 うまく言えませんが、自分の気持ちに矛盾を感じているのです。
- lekyai
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見えないから祈る気持ちにならない?? 多分、あなたが実際に知ってる人が御仏壇に入っていないから、実感が湧かないのではないでしょうか。あなたのお父さんやお母さんが亡くなれば、祈る気持ちも出てきますよ。もし、実際に知っている人が亡くなってるけど、祈る気持ちが起きないというのなら、あなたに仏壇や位牌は必要ないということです。
お礼
ご回答有難うございました。正直言って私には仏壇など家にないほうが気が楽なのかもしれません。でもこのような自分が情けなくなるのです。 いい思い出はありませんから。
- anaank
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こんんちは。我が家にも仏壇があります。ご先祖様たちが仏壇にきているか、きていないか。私にもわかりません。 でも、多分私たちの心の問題だと思うのですよ。私は、爺さん、婆さんにかわいがられたものですから、仏壇に爺さん、婆さんが来ていると思いたいんですね。 心の問題ですよ。
お礼
ご回答有難うございました。私の場合、冷たい態度をとられてきたので心の通わない形だけのことしかできないのです。心の中で面倒だなーと思ってしまう自分が嫌なのです。
お礼
ご回答有難うございました。私はお仏壇にいる人たちのことがあまり好きではないのです。だから冷たくしてしまうのです。もっと私にやさしくしてくれていたら きっと心からお給仕が出来たと思います。 素直でなくてごめんなさい。