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「翻訳」の限界?もしくは稚拙?
今はどうだかあまり知らないのですが、昔の翻訳ものって言うのは、ものすごく読みにくかったと思います。何だコリャという文章が、大手出版社から堂々出版されて、なんら反省するところがなかったようでした。私が読んだのは、やはり西欧もので、小説やら学説的なのやらありましたが、うんざりしました。 外国語(英仏)をちょっと読めるようになってから、多少原典とか、向こうのオリジナルな文章を読んでみると、そのまま読んだほうがずっとわかる気がしました。 考えてみると、学校での外国語の授業っていうのは、読解はとくに、訳すということを主体にしているため、実にのろのろずるずる分かりにくく難しいものだと感じました。それは結局、翻訳者の苦労、あるいは限界とかつたなさを感じていたのだと思います。無理して訳すことないじゃないかと思いました。日本語に置き換えようとするから、すごく難しいことになる。 それは何でかと考えてみると、西欧の文章(料理のレシピとか取り説とか以外のちょっと文学的なもの)は、日本語の構造とかなり違うんじゃないかと。そこで、その西欧文を、その構造を残して尊重したまま訳そうとすると、なんとも難解なもの不自然なものになってしまう。つまり、もう一工夫要るのではないかと感じました。西欧文の構造をとりあえず日本語に置き換えたものから、今度はそれを、自然な日本語になるように、意味を殺さずに均してやるというか、組み替えてやる、作り直してやるという作業が必要なのに、昔の翻訳というのはそれを省略して、「さぁ訳してやったぞ、ありがたがって読め」みたいな高圧的な姿勢だったのではないかとさえ思います。これから良くなっていくのでしょうか? そこで質問は、なぜこんなに西欧文を日本語にすることは難しいのでしょうか。やはり、文章の書き方あるいは考え方が、そのまま日本語には無理な構造を含んでいるということなのでしょうか?
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>そこで質問は、なぜこんなに西欧文を日本語にすることは難しいのでしょうか。 翻訳とか通訳って英語と日本語が喋れる、書ける だけじゃプロとして仕事できません。 特に英語から日本語に翻訳する時、日本語のスキルが高くないとできない。 直訳されたものを、そのまま使っても、英語もイデオムがあり、直訳すると意味がわからなくなってしまうものが多々あります。 でも翻訳者がイデオムを知らなければ、そのまま直訳してしまい、翻訳者自信も、「何故主人公はここで???」となってしまう。 例えば I finished it at the eleventh hour, なんか文法おかしいけど、直訳するしかない としたら、「私は11時にそれを終えた。」 私が意訳すると「セーフ! 締め切りに間に合ったよ」です。 上下の文章次第ではもっと真面目に訳すでしょうけど。 聖書という物語の英語バージョン。 「And those who had been hired <at the eleventh hour> came and received a denarius each. ここから来てるんですね。 ギリギリという意味であって11時という意味じゃない。 昔の翻訳ってあまり読んだことないですが、ある小説のレビューを読むと、ある読者が、「文章が古い。よく見たら翻訳者は昭和一桁生まれ、どうりで古臭い意味のよくわからない文章になっているわけだ」と言っていた。 私 読みましたけど、別段 古い文章だと思いませんでした。 「語彙が古い? いや 別に・・・ 表現が古い? ええ、そりゃあ 感動的に人に伝える部分は、現代では使わない日本語を使って訳していますが適切」って思いました。 じゃないと感動的なシーンが表現できない。 表現するために恐らく原作者は古語を使ったので、翻訳者も古語を使ったと思えました。 映画の字幕にしろ、翻訳にしろ、英語が話せる人なら誰でもって時代が長く続いたようなんですね。 映画の字幕にしろ翻訳にしろ、仕事が安定して高給だったら、優れた人材は育ったと思います。 ところがそうじゃなかったので、その分野が発達しなかったと思えます。 この前 ラテンのドラマ見ましたけど、とにかく字幕がひどい。 何を考えているんだ と思えるほど、めちゃくちゃな日本語。 真剣な場面も字幕のせいで、大笑いしてしまう。 まじに翻訳しているのか それともウケ狙いでシリアスものを笑うというのがこのドラマを見る時のポイントなのか? とかいろいろ疑ってしまいました。 が、単に翻訳のマズさゆえに、笑う場面じゃないところで、視聴者は翻訳者の翻訳のマズさによって笑わされている と思えました。 日本で映画の字幕を入れる仕事をする有名な方いますよね。 テレビにも出て、芸能人が来るたび通訳としてぴったりくっついているあのお方。 さぞかしと思いきや、うーーん 直訳して日本語に訳していないが、あまりにも省きすぎた通訳、、、、と思っていました。 芸能人がせっかくポイントを話しているのに、はしよってそのポイント部分を訳していない。 芸能人は自分のポイントに対して、まわりが何か言うだろうとじっと見るが、省略されているので伝わっておらず、それについて何の反応も無い。 芸能人の目が宙を彷徨っていました。 「あれ? 僕が今言ったポイントについて何の反応もない どうして? え?」って。 私が会場にいたら「あなたの出た映画を日本語に翻訳した人は、今あなたの横にいて、あなたの発言内容を通訳して司会者は会場の人に伝えた人ですが、その人はあなたが言ったポイントをまったく通訳しておりませんので、会場で英語がわかる人以外、あなたが何を言ったのか知りません。あなたが自分が言った事に対して反応を期待しても無駄です。 」というでしょうね。 その通訳者、ロードオブザリングでとうとうバレてしまいましたね。 翻訳のマズさ。 今まで字幕の女王だったで、誰も文句は言えなかったでしょうけど、海外にはその権威は通用せず物言いつきましたね。 何故まずい下手な字幕をそのまま流さざるをえなかったのか? 1つには締め切りというものに追われたからだと思います。 それとプロ魂が欠落していたから。 例えばですね、期限通りに品物を納めることで、信頼関係を継続できますよね。 でも、品物が腐っていると判明したらどうするか? 大丈夫かもしれない と信頼関係を損ねないように黙って納入するか。 それとも、この品物は腐っていてとても製品として出せませんので、申し訳ないですが時間をください と言うか。 今まで腐ったものを出してもクレームがつかなかったから、今回も大丈夫だろうと出したところ、食中毒発生。 原因は腐った食品だった。 取引先は責任問題を問われ倒産寸前。 取引先は納入者を信用したため、検査をしなかった。 納入者は信頼関係 ビジネスの存続を望み本当のことを言わなかった。 で、日本映画界の大御所が翻訳ミス多数の製品を納入した結果 どうなったか。 日本の翻訳業界は世界でもとても低レベルだ。 となった。 プロってなんでしょうね。 時間とおりに収めさえすれば品質は粗悪でもいいのか? 昔は翻訳って専門職はなく、大学教授がサイドビジネスとして出版社から請け負っていたそうです。 大学教授だから当然 両方ともネイティブか? 文法を生徒に説明するのはそのプロですから教えることに関しては問題ないでしょう。 でも、外国の文学作品を読者に読み聞かせ感動させる技術を習得しているとは限らない。 文学は読み手の心を動かすことでなりたつ。 その文章を日本語で書けなければ、まずいわけです。 だから、日本の小説家で、英語やフランス語を原書で読む人がいたら、大学教授に仕事をまわさず、日本の小説家に翻訳の仕事をまわす。 で、馬鹿売れする。 そりゃあ 日本語のプロですから、読者の心をいざなうのがうまいわけです。 ってことで、翻訳って日本語が喋れるだけじゃできないんですね。 日本語の文書を書いて読者の心をいざなう技術をもっていないと。 で、翻訳って水物ですから、コンスタンスに仕事があるわけじゃなく、翻訳に1年とか3年とかかかりますから、本業でそれだけで生計を立てるのは難しいのも、翻訳の質の向上につながらないのかもしれません。 で、日本の小説家に仕事奪われてしまって、、、ねぇ。 ただ、専門分野は確かに大学教授とかの方が翻訳はうまいと思います。 どうしてかというと、コンピュータがわかる人と、全く触ったことが無い人が、コンピュータのマニュアルを翻訳した場合、歴然と違いが出ますよね? コンピュータを触ったことが無い人の翻訳文書を読んでも、一体なにをどうすればいいのか さっぱりわからない。 コンピュータを日頃使っている人が翻訳した文章だと「はあ はあ あ、、、できた。で 次は~」ってなるんですね。 そういうわけで、商業翻訳の場合は、その方面が専門で外国語が読める人に任せたほうが無難。 文学作品だと小説家にまかせたほうが無難。 というわけですね。
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- ismael
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こんにちは いささか短絡的に言うと、昔の翻訳は、原文の意味を訳すのではなく原文の単語を単純に日本語に置き換えたものが多かったということです。 また、翻訳を担っていた人たち、翻訳書の市場などにも問題があり、つまり構造的な理由でよい翻訳が生まれにくかったのだとおおもいます。 この問題は山岡洋一という翻訳家がしつこく追求しています。 この問題を含め翻訳の様々な問題を扱った翻訳通信のバックナンバーが ↓で読めます。 http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/
お礼
わかりました。まだ、未成熟な時代が続いていて、現代も夜明けは遠いということだと思ったほうがいいのでしょうね。
>そこで質問は、なぜこんなに西欧文を日本語にすることは難しいのでしょうか。やはり、文章の書き方あるいは考え方が、そのまま日本語には無理な構造を含んでいるということなのでしょうか? 日本語に翻訳するとき、一般的には日本で存在するものを頭に浮かべると思いますが、あなたは如何ですか? うるさいことを言えば、ドイツ語でVeilchenと呼ぶものと”すみれ”は本当に同じもなのでしょうか? 汽車とか列車、電車と言っても、我々が日常乗っているJRのものと ドイツ鉄道のそれらとは、中身も、外観も異なるものです。 ですから、日本語に翻訳されたものは、原語版と”100%同じ”のものではなく”かなりの精度”で似ているものと考えたら如何でしょうか? 実は、学生時代ドイツ語で書かれた短編小説を輪読しました。有名なユダヤ系の作家で、翻訳者の名前は当時その作家の翻訳で名前の通った大学教授でした。前以て原文を読んだ時、どうしても理解出来なかった文章があり、皆に聞いたら、やはり難しくてね、、、。とのことでした。それで、日本語訳を見付けて、皆で原文と付き合わせたのです、それで 原文の意味が分かりましたが、その翻訳文が間違って居る事も見つけたのです。ある出版社の世界文学全集の一冊で、翻訳者先生自身が100%翻訳したものではなく、学生のバイトではないかと推測しました。 そんなことは当時ざらだったようです。何しろ”誤訳”なんて本がベストセラーになったのですから。類似の本が結構の数出版されて、訴訟まで起きて、話題になったくらいです。 又、最近”星の王子様”の新訳本が何種類か出ましたが、その内で”星の王子様”の題名を使っているものが幾つか有りますね。しかし、原題は”小さな王子様”ぐらいではないでしょうか? グリムの童話も全集が何種類も出ていますが、翻訳者の読み方が異なることで、色々な翻訳がでるものと思います。ただし、新しい物ほど品質が高いかと言えば、そうとは言い切れませんね。また、使われている日本語の表現の好みによっては?マークを付けざるを得ない最新訳も有り得るのではないでしょうか。 取り留めの無いことを書きましたが、要するに翻訳は原文の100%の コピーではないが、非常に参考になるものだと思います。原文の原語を知らない時には頼りにせざるを得ませんね。
お礼
やはり、その言語に深く長くかかわってないと、読み込めないものだと感じます。しかも、日々努力を怠ってはならず。一種の芸術行為ですから。頭の中で、各々の文化を比較し、すり合わせ、どう言葉を選ぶかという、頭脳フル回転の作業でしょうから、なかなか素人に手が出せるものではないと感じます。
- nishikasai
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通訳です。 昔はネイティブ並に英語を話せる者が少なく、学者が一生懸命勉強して英語を理解できるようになった。そういう人が第一人者であった。だから翻訳は硬い表現になっていた。今はネイティブ並に話せる人が多く、その中から翻訳者が出てくるのでやわらかい表現ができるようになったのだと思う。 >なぜこんなに西欧文を日本語にすることは難しいのでしょうか。やはり、文章の書き方あるいは考え方が、そのまま日本語には無理な構造を含んでいるということなのでしょうか? そうです。日本国憲法を読んでもわかりますが、文章の構造が違うからなんか変です。仕方ないことです。
お礼
学者さんの頭はどうしてもやわらかくできないのかもしれませんね。そこが弊害でした。今はいい時代なんでしょうか。外国語精通者の量が増していけば、角が取れていく問題かもしれません。 日本国憲法、読みましたが、これもそうだったんですね!言われると変です。
- yuzu_tonbo
- ベストアンサー率23% (47/197)
私も翻訳小説は苦手ですが、時代によって良し悪しが分かれるといった感じはしません。 一昔前の訳でも読みやすいものもあれば、最近のもので読みにくいものもありますし、もちろんそれぞれ逆もあります。 訳者の力量によるのではないでしょうか。 「昔」というのはいつのことをさしているかわかりませんが、それこそ昭和初期などの文学などは日本語でも多少読みづらいことがあります。 それもあって「昔」の翻訳のほうが読みづらいということはないでしょうか? そういう意味であれば、これからのほうが読みやすい翻訳が出てくると思います。 ただ、これは受け売りなのですが、翻訳に必要なのは語学力はもちろん、国語力だそうです。 語学力は上がっているが国語力が下がっている訳者が増えてる・・・と嘆いてらっしゃる方もいると聞いたことはあります。 似たような文化、似たような原語であれば比較的翻訳は楽だと思いますが、日本語は文法的に類似した原語が少ない原語です。 西欧文に限らず、日本語に訳すのは難しいと思います。 でも多かれ少なかれ、どの言語も表現に特徴と限界があります。 どの言語も一対一で訳すことはできませんから、訳者の個性が出てきて原文と違ったニュアンスが加わってきます。 英語の映画をドイツ語字幕&吹き替えで見たとき、それをしみじみと感じました。 そこが「翻訳」の限界であり、また面白さではないかと思います。
お礼
やっぱり「国語力」なんですね。 外国語の骨組みを残して意味だけ取ったものを、どう「国語力」で再構築するか、そっちのほうがずっと手間がかかることなんじゃないでしょうか。稚拙なあるいは荒い訳が多すぎるのではないかと感じます。 日本語は、西洋語とは、考え方も文法も反対でしょうから、難しいんでしょうね。中国語ならまだ親和性がいいのか?映画も然りですね。適当に変えていかないと実におかしいつながりになってしまいます。会話の進み方、考え方自体違うんです。
No.1です。 失礼しました、読めるのが「英仏」なんですね。 じゃあ英語とフランス語だけではない、と(^^; イタリア語とかスペイン語とかスウェーデン語とかノルウェー語とか。 確かに読みづらい訳書は今もあります。 でも別に偉そうなのでなくて、自分の日本語感覚と合わないということもあるのでは? 日本語としてもう少しどうにかならないのだろうか、というのは日本語が稚拙なのかもしれません。 日本語能力の問題だと思います。ものによってはプロの翻訳者が訳していない本もあるみたいですし。その分野の人で英語が読めるからといって、日本語として上手く訳せるかというと別なので。。。。 学校(大学は知りませんが、少なくとも高校まで)でやるような「和訳」と「翻訳」はイコールではありません。 学校の外国語授業がまずいのと、翻訳の問題はちょっと別だと思います。 でも・・・・質問者さんのような感想は、読めるようになってきた人だから思うことでしょう。 読めない人間には翻訳書は便利ですよ。読めないうちはそうじゃありませんでしたか? 前述したように誰もがマルチリンガルになれるわけではありませんし。 私も英語の小説はたまに読みますが、翻訳はできませんね。 そんなに理解できてないので。 No.1に挙げたような精読や翻訳の本を読むと、嫌になってきます(笑) 面白くもありますが。 まずい訳書がある一方で、読みやすい訳文もあるんですけどね。 浅倉久志さんなんか素晴らしいのにな・・・・。
お礼
外国語に精通してない人が、とりあえず読みたいという需要にあわせるはずなのに、その訳が非常にわかりにくい、悪文だとしたら、幻滅するんですね。実際そういうものがかなりあったと思います。日本語の精通が必要ですね。
でもそれを言ったら、一般の日本人にはロシア文学もフランス文学もドイツ文学も何もかも読めないことになってしまいますよ。 文学は英語だけじゃありません。 英語だって誰でも読めるわけではないですよね。 誰かに訳してもらえるのは有り難いと思っています。 (逆に最近は村上春樹やよしもとばなな他、日本語の小説が各国語に翻訳されています) >昔の翻訳というのはそれを省略して、「さぁ訳してやったぞ、ありがたがって読め」みたいな高圧的な姿勢 そんな訳者ばかりではないと思いますが・・・・。 ただ、翻訳は時代とともに古くなってしまうので、ときどき新訳が必要になるようではありますね。 村上春樹氏もそのように言っていましたし、日本文学でも『源氏物語』なんかはそうですし、ロシアものも亀山先生が『カラマーゾフの兄弟』を新訳して話題になりました。 『ティファニーで朝食を』は素敵ですが、古い訳で読むと、やはり日本語が古いというか、、、 (当然、源氏物語や枕草子、徒然草なども、原文を読んだほうが味わいはあると思います。でも現代訳も目安にしたいと思いますが・・・・) 日本語への翻訳が難しいのは、やはり構造の違いや、表現の違い(考え方の違い)だと思います。 文化の違いもあるかもしれません。ヨーロッパ人同士なら理解できること、アメリカ人なら知っていることが、日本人は知らなかったりするでしょう。逆も然りですけれど。 英語では単語1つで現せることが、日本語には無かったりもしますし。 でも、解る気がするのと、正確に訳せるのとはだいぶ違うと思いますよ。 プロの翻訳者でも誤訳はありうるそうですが・・・・そういうのは改訂や新訳が出るときに修正されるようです。 真摯な翻訳者が多いだろうと思うんですけれど。 http://www.amazon.co.jp/%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E6%95%99%E5%AE%A4-%E6%9F%B4%E7%94%B0-%E5%85%83%E5%B9%B8/dp/4403210880 http://www.amazon.co.jp/%E6%80%9D%E8%80%83%E5%8A%9B%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%8F-%E8%8B%B1%E6%96%87%E7%B2%BE%E8%AA%AD%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E8%96%AC%E8%A2%8B-%E5%96%84%E9%83%8E/dp/4327451614
お礼
構造の違い、文法的にも、考え表現的にも違うということで、処理が難しいようですね。時代とともに古くなるから、今読みにくくなっているのものあるでしょうね。
お礼
そうですか!たいへんよく現状がわかってきました。 ひどい逸話もあったものです。ポイントが伝わらない!おちがない!それでも通訳か!そうじゃありませんね。お粗末もきわまりきったものです。 文学作品には、日本語のプロを、芸術なんですから誰でもできるはずがない。専門知識が表に出ている分野なら、そっちの専門家を使って文学表現は期待しない。これは適材適所でしょう。 要は、お気軽にできるものではなく、プロが頭をフル回転させ琢磨したものを持ってしかできないものという、怖れを忘れてはならないと思います。