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教会行かなくてもキリスト教徒?
個人的なことをかくと、 キリスト教凄い、聖書は素晴らしい。 と思ったらカルトだった。→ふざけるなよとカルトやらキリスト教批判。 傷は深く、神は信じたいが、教会など大嫌い。 正統な教派一覧を見たら、自分ところはキリスト教扱いすらされてない。 なんだよ、いままで。自分はキリスト教徒ですらない。 しかし。その気になれば、キリスト教否定も肯定もできる。 で。本当に教会が大嫌いな私ですが、キリスト教徒の方に話をきくと 必ず、教会へ。ということになります。 いつかはどっかに行こうかなぁ、とも思いますが 大前提として、別に教会行かなくてもキリスト教徒ですか?
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- nabayosh
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キリスト教徒というのは、ぶっちゃけて言えば「イエスこそキリスト(メシア)であるということをを信じている者」になると思います。 このどこに「教会」という文句が入っているでしょうか。 信仰と教会は別物です。 内村鑑三のように無教会主義というのもありますし、教会は本当に必要不可欠なのかと言われると、ちょっとわかりませんね。 しかし、教会というのが今までどのように機能していたか、ということを考えてみる必要はあると思います。 教会というのは、教えを絶やすことがないように受け継いでいくということに大きな役割を果たしています。 仮に教会というものがなかったら、イエスや聖書の教えなど、すっかり忘れ去られていたことでしょう。 また、自分の思うままに聖書を解釈したりして、独善的になったりすることを避けるのにも役に立ちます。 ひとり閉鎖的であっては、それはキリスト教の名を借りた自分教です。 信仰に飢えている人には惜しみなく分け与える、そういう共同体が教会だと思います。 (しかし、現実問題、そうなってない教会というのがあるのも事実ですが) カルトに当たってしまったのは不幸ですが、いろいろ教会を訪問することを「毛嫌い」しているのは、結局自分の好き嫌いを優先しているわけですから、自分教です。 仮に教会を訪問しても揺るがないなら、それが立派な信仰なはずなんですが、なぜ教会を避ける必要があるでしょう。 自分が間違っていると指摘されるかもしれないという恐れがあるんじゃないかと思いますが。 まあ、どこかの教会に属したからといって、表向きは信者だけれども、全然信仰などない人だっていますから、あんまり気にせず教会を訪れてみてもいいんじゃないでしょうかね。 教会に来る人だって完璧な人ばかりじゃないですから。
- zenzen_w
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両親は子を育てる その子は育ちまた結婚し両親となり子を育てる 両親は生きた経典として躾や道徳をもって子を育てる 生命の木も実践されて始めて生かされる 善く実践された社会では経典は要らない 深淵を観るのはお互い様 解っている事を書き残す必要もない 宇宙の反映 自然に直結している
- kigurumi
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>キリスト教凄い、聖書は素晴らしい。 そうかなぁ・・・? 独自のものじゃなくて、借り物というかパクリが激しく、あっちこっちの神様をつぎはぎした人間が作った被造物だと思うんですけど。。。。 (正直なところ) キリストってギリシャ語で救世主って意味ですよね。 ヘブライ語のメシアをそれに該当する適切なギリシャ語が無かったので、ギリシャ語のキリストをメシアの翻訳の際に使用したんですよね。 メシアって油を注がれた者って意味ですよね。 聖別された人間って意味ですよね。 で、ヨシア記のヨシア つまり イエスのように他も民族を蹴散らし自分達を救ってくれるものを期待して、イエスに「メシアなら つまり ヨシアのようなメシアなら、その証を見せてください」ってなったわけですよね。 (イエスってヘブライ語だとヨシア もっと発音を近づけるとイエーシュア とか イエーホシュアなんですね。 あのヨシア記のヨシアと同じ名前。聖書読んでたらヨシアのイメージわきますよね。他の民族を蹴散らす強い王のイメージですよね。) ギリシャのキリストといてばユピテル。(ゼウス) ちなみにキリスト教では神のことをデウスと呼び、恐らくゼウスも同じ意味だと思うんですね。 で、碑文に救世主ユピテルに捧げる詩があるのだそうです。 ユピテルとは何者か。 この名前で思いつくのが、ハドリアヌスがエルサレム神殿にユピテルの像を設置しようとしたとき、とうとうユダヤ人が切れて、ローマ帝国に対して反逆したという事件。 これを景気にユダヤ人はローマ兵に対して何度もテロを起こしてユデアの地からローマ兵を追い払おうとするようになった。 最終的にユダヤ人とローマ人が大激突し、エルサレム神殿がローマによって破壊され、2千年近くユダヤ人は放浪することになった。 他には、、、、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%94%E3%83%86%E3%83%AB 『ユピテルという名はDieu pater即ち「父なるディエウス」が訛ったもの。本来は天空の神、転じて気象現象(特に雷)を司る神とされた。通常は英語のジュピターで呼ばれている。 ローマ神話においては主神として扱われ、古代ローマではローマ市の中心にユピテル神殿が建立されて永くローマの守護神として崇められた。』 つまり古代ローマで信仰されていた神様だったわけです。 何故彼が救世主 つまり キリストとされたのか。 ローマ神話に疎いのですが、恐らくデウスが犠牲となり死んで蘇るとなり、それが冬至の12月25日となり、イエスとユピテルが習合して、他の神話を自分のところに取り込んで自分の民族の神話とするのが得意だったローマ文化により、ユピテルがイエスになったんじゃないかと。 で、キリスト教はイエスをデウスと呼ぶようになったんじゃないかと。 >大前提として、別に教会行かなくてもキリスト教徒ですか? 一応、キリスト教徒はイエスをこの世の創造主だと認定することが第一に根本的なものですので、そうあなたが認定していたら、あなたが教会に行かなくてもキリスト教徒になると思います。 ところで、国とか宗派とかとにかく団体ですが、その団体以外がその団体を個だと認定することで、個として成り立つわけです。 日本だって、他の国が独立した国家だと認めているので、日本って個がなりたっているわけです。 台湾などは中国が台湾を独立国家と認めていないので、中国からすれば、台湾も中国になる。 政治的名ものがあって、確か日本から台湾に行く場合、中国に行くって扱いになるんじゃないかと。 ということは、あなた以外の人が、あなたをキリスト教徒だと認めれば、あなたはキリスト教徒になるわけです。 他人次第。 で、あなたがイエスが6千年ほど前にこの宇宙を作ったと信じています と周りの人にいいつづければ、あなたはキリスト教徒だと他の人は思うわけです。 本当にそう思います???? あれは比喩? いえ 比喩じゃないですよぉ 聖書を正確に遡れば、宇宙の始まりは6千年ほど前になるんですから。 聖書通りならね。 聖書がすごい? 確かにすごいです。 日本の方が宇宙の誕生より古いので、日本の方がすごくないですか? と、からかう場じゃないので、、、、苦笑。 ただですね。 どれも うさんくさいって私思うんです。 あなたもそう思いますよね? だから教会に行けないというか その教会に属しますと誓いを立てられないで今に至っているわけですよね? キリスト教会は本当にイエスに従っているのか? 怪しいですよねぇ。 ということで、どこの教会を見てもイエスではなくキリスト教の初代教父 とりわけ イエスに会ったこともないパウロを創造主だとして崇めていると思うのでしたら、彼らはイエスじゃなくパウロに従うものなので、彼らについていってしまったら、確かにキリスト教会という名称かもしれませんが、中身はパウロ教なわけで。 その団体の創造主はイエスじゃなくパウロ。 でも、ひとまず、キリスト教徒だとてっとり早く他の人に言えるようになるために、どっかのキリスト教として国に登録している宗教団体に入った方がいいと思うのなら、その方が証明せよと言われたとき、楽に証明できる。 宗教団体は他の他の民間企業と違う税率なんですね。 だからあなたが法的にキリスト教徒だと認定され、他の人に有無を言わせないためには、キリスト教の宗教法人を国に登録している団体の会員名簿に載れば、他の人が否定しようと、あなたは書類上キリスト教徒になります。 国も認めたってわけですので、安心ですよね。 どの教会もうさんくさいが、イエスを神として信仰したい? 別にそれは自由だと思います。 他のキリスト教会があなたをキリスト教徒だと認めなくてもいいじゃないですか。 彼らが必ずしもイエスに従うものかというと、そうとも言えないし。 信者や神父や牧師が犯罪を犯すと、すぐさま手を切られ、「あそこはキリスト教系じゃない。うちとは関係ないです」ってなる危うい状態はどの教会も一緒。 たとえ法律が認めようと、自分達が認めないってわけですね。 その程度ですから。 お互いが認証しあってお互いの間でキリスト教の団体だってなっているだけ。 国だって申請されて基準を満たしていれば、宗教法人だと認め、税金の優遇措置をするが、確かめて本当に信仰が正しいか、細部まで調べないで申請が来て問題なければ判子押すじゃないですか。 犯罪を宗教法人が犯したところで、解散命令は出さないじゃないですか。 その程度のゆるーい基準ですから。 そのゆるーい基準をクリアした団体の名簿に載ると安心感が得られるのなら、どこだっていいじゃないですか? それにA教会 B教会と渡り歩く人もいますし、どっちにも属している人もいるでしょうし。 だから日本の宗教の信者数は人口の倍になるんですね。 これはキリスト教に限らず他の宗教も多数に席を置いている人がいるから、無信仰が多いと思える日本なのに、宗教者の数は人口の倍になっちゃうんですよね。 節操ないですが、、、、、、 節操ない人がやっているので、大したこたあない。 その大したことはないのにものにメンバーになったところで、、、何かいいことがあるのでしょうか? ファンクラブとどこが違うのか、、、って思いません?
お礼
回答ありがとうございます。 教会の文書に自分の名前をそんなに載せたいのか? 紙切れがそんなに欲しいのか? 聖書などパクリ文書だろ? もっともです。返す言葉がありませんね。 私もわざわざこうして質門してまで キリスト教と関わる理由が自分でもよくわかりません。
- ANASTASIAK
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イエスの教えを実践する人がキリスト教徒です。 砂の上に家を建てる人は教会に属していてもクリ スチャンとは呼べません。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。ただ肩書きだけクリスチャンでは 本当のクリスチャンと呼べませんよね。。
★ 大前提として、別に教会行かなくてもキリスト教徒ですか? ☆ ほんとうに こういうご質問ですか。 これは 洗礼の問題であろうと考えます。 パウロは はっきり書いています。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれ るために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗 礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる ものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中か ら復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるな らば その復活の姿にもあやかれるでしょう。 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、 罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると 知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたち は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる と信じます。 (ローマ書6:1-14) 例によってアウグスティヌスですが バプテスマによって罪に死なないような人はひとりもいない。 (《信仰・希望・愛》3・1・2 赤木善光訳) と述べています。この箇所について 訳者が註を書いています。 この書においてアウグスティヌスは 何ぴとも原罪の赦しを受けなけ れば 救われないこと またその赦しを受ける通常の手段がバプテスマ であることを主張している。しかし他の著作においては バプテスマの 執行が不可能な場合は 殉教や信仰 さらに回心がそれに代わり得るこ とを認めている。(《罪の報いと赦し》1・23 《洗礼論》4・29) (著作集・4) このようです。あとは お任せです。 * ほかのところで 回答をされていて ものすごいことを書いておられますね。びっくりです。
お礼
回答ありがとうございます。 今回は教会の必要性に重点を置いてみました。 必要か?といえば必要でしょうし。 ところで、私はなにか驚かれるような回答したんでしょうか?(汗)
- yohta
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自分なりの見解ですが、ご容赦ください。 キリスト教徒とはもともとイエスの教えを信じるものと考えます。 教会は聖書の解釈を助けたりする役目がありイエスの死後に登場していきます。 16世紀の宗教改革では教会の権威が否定され聖書が最重視されます。その主張は聖書を拠り所にするものはキリスト教徒とされたのだと思います。 現代において、イエスの教えを信じるのであれば内面的にはキリスト教徒と呼べるかもしれませんが、所属教会がなければ周りの人に自分はキリスト教徒だというには弱いかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。 いくら、内面を重視するといっても 社会を生きる上で、きちんとした教会の役割がありますからね。 教会は大事なものだと思います。
- cyaboe
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洗礼を受けたらキリスト教徒です。 洗礼を受けるためにはどこかの教会に所属することになりますが、そのあとのミサ、礼拝には行かない方もいますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 私の場合、まずきちんと洗礼してもらう必要ありますね。
お礼
回答ありがとうございます。 無教会主義なんていうものがあるんですか…。 でも、教会は必要なものですよね。教会を否定はできないです。 まぁ、私のわがままのせいになると、もう何も言いようがないです。 個人的にキリスト教とは、もっとフツーに出会いたかったなぁ という感じです。