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靖国神社の英霊に係る霊魂観について
あまり詳しくないのですが、 神になった英霊は、合祀後には分割されることなく、一体のまま存続していき、一定年数後に生まれ変わりのために抜け出るということもない(一体不可分、分離不可能、無復活)と想定できますが、解脱できない場合に輪廻転生の中で循環していく霊魂観とか、審判の日まで眠り続ける(?)霊魂観とは、全く違います。当該死者の信条とは関係なく、神格化して合祀されてしまうという乱暴な感じを受けてしまいます。 英霊に係る霊魂観について、教えてください。
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> 単一霊の面もあり、塊となった英霊にも属しているという面も > あるという、人知を超えた感じだと思いました。 こちらが正しい理解ですね。 「面」という言い方を私はしていませんが、そういう言い方でも同じです。 > この回答へのお礼 「あの世」には、単一人の霊もあり、塊に > なった英霊もあり、自然霊もあり、ばらばらに共存していると > いうイメージで理解しました。 こちらは、間違いです。 「○○中佐」の霊と「英霊」は、同じものを違うように認識した結果ですから。
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- amaguaeru
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鎮魂の意味は参拝しているその人の心を鎮める意味と捉えていいのではないでしょうか。
お礼
参拝者側の鎮魂という意味だったのですね。 すごく、納得しました。 ありがとうございました。
- amaguaeru
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靖国神社は共同墓地みたいなものなのではないでしょうか。 今生きる人々の深い悲しみや憎しみや恨みや様々な感情を 訪れる人の心に呼び戻す。 これが戦争というものであると。 合祀の賛非両論はこのままずっと続いていけばいい。 合理的な理由付けなどいらない。 それでこそ 今に生きる人々を戦争に向かわせない。 卒業式という門出を祝う神聖な場で 歴史を刻みそれを背負った国旗を掲げ 君が代を歌い 心を澄まし 戦争を回避する教育がされたかどうか 心に問いかけ確認しても 社会にでれば学校で学んだことも薄れていき 様々な場面で戦いに向かわせる感情が興るかも知れないけれども 様々な感情が入り組んだ 靖国神社を神聖な場として参拝するとき 諸々の感情を超え戦争の悲惨さを呼び戻し 人の心を澄んだ境地へと導く 靖国神社は鎮魂の社であると共に 戦争の悲惨さの象徴であり続ける。
補足
その気持ち、よく分かったつもりです。 でも、「共同墓地」、「鎮魂の杜」なんですね。 死後(死者)の霊のイメージが強すぎるのですね。 私がききたい霊魂は、生死を問いません。 「霊」=死後(死者)の魂 狭義の「魂」=生存中の魂 と定義すると 広義の「魂」=精神、心、心意気 と考えています。 (多分、靖国神社の見解とは違うと思います。) ゆえに、霊魂観とは、「心意気」と置き換えられると思います。 そうなると、各人の信条、信仰と共存できる感じになります。 「英霊」と言っているので、死後限定のイメージが強調されていると思います。こんな風に考えてもいいのかどうか迷っているところです。
- nacam
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靖国神社は、「国家神道」という本来の神道とは全く別のシステムにより造られた宗教です。 国家神道というのは、国民は全て天皇の奴隷と同じで「天皇のために死んだ者は、英霊となり天皇を守る」という概念を持っています。 そこには、輪廻転生の考え方も、最後の審判的考え方もありません。 当然日本古来の神道における生死観も仏教における極楽浄土観もなく、死んでからも当然天皇の臣下としての勤めを勤める事となります。 つまり、「生きている間も、死んでからも日本国民は、天皇の奴隷にすぎない」というわけで、それは、日本国民の義務であるから、死者の信条とは関係無く義務をはたす事を求めるのです。
お礼
補足の補足です。 ここで想定していた霊魂観は、幽霊とか亡霊のイメージの強い感じです。 補足に書き忘れたので、付け加えさせていただきます。
補足
国家神道は、本流の神道から見れば、確かに全くの亜流だと思います。 ただ、生死を問わず「天皇の奴隷」と同様というのは、よく分かりません。また、「死んでからも臣下」というのもよく分かりません。 個々の英霊が、日本国民(死後も国民?)の義務として現世の天皇のみを加護するということでしょうか。それとも、明治憲法下の天皇(死亡した3名)限定で英霊が臣下(臣民)として仕えているというような想定でしょうか。 私は、そもそも霊魂の実在を懐疑しています(霊魂を想定したり、装置として発明された概念程度に思っています)が、英霊が働いていると本気で思っているのでしょうか。
- phj
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そのような違和感を覚えるのは、現代人が宗教というものが一神教を基準にものを考えてしまうからでしょう。 一神教の「神」と日本の「カミ」を同じに考えるべきではないです。 元々日本の祀るという行為は、人だけでなく洪水を起こす川とか、噴火する山とか、そういうものもすべて「カミ」として祀ってきました。 川も火山も祀ったからといって存在が消えるわけではありません。 人間も死んで魂になったから祀られるわけではないのです。 たとえば幕末に日本に西洋医学を確立したポンペ博士などは、帰国してしまった後、その功績をたたえてられて、神社に祭られてしまいました。つまりまだ生きているのに、もう逢えないから、感謝する行き場所として神社ができたのです。 靖国神社の英霊に対する考え方もこれに似ています。ここで行っているのは、神道形式に則った感謝をささげる儀式であって、英霊個人をひとつずつ「神様」としてあつかっている分けでは有りません。 輪廻転生とか審判の日と考えると、個人の特定が必要になりますが、これは英霊でも各人が自分のお墓に入っているわけですから、キリスト教徒の英霊なら、キリスト教式のお墓に眠っているでしょう。 各人のお墓と日本を守った英霊を靖国で祭るのは、多神教である日本の「カミ」の考え方からは矛盾しません。 ただ一神教であるキリスト教から見れば、どんな「カミ」でもあるいは「神」でもキリスト教が認めていない祭りかたは許されないといえるのでしょう。
お礼
神の考察の際に、「死」をことさらに強調しない(関係が無い)という視点は、大変参考になりました。ありがとうございます。
補足
「自然崇拝」を基にする「畏敬」の対象としての神・・・川の神、山の神など 純粋に「感謝」の対象としての神(個人の「顕彰」)・・・ボンベ博士 英霊個人(分割した感じ)ではなく、集合一体とも言うべき英霊(不分割、一体不可分)という「想定」、「装置」という英霊観を基にする「感謝」の対象としての英霊・・・国家儀式上の戦死殉難者の群 というようなまとめ方でよろしいでしょうか。 また、当時実在した各個人の信条(仏教、キリスト教など)を無視して強制神格化とでも言うべき霊魂の扱い方をするのは、個に着目しない、集合的霊魂観とでも解釈すれば、良いのでしょうか。
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お礼
お礼の文を投稿してから、よく見ると変なことに気付きましたので、補足で修正させていただきました。 具体的な、例示が理解を助けることになりました。 ご回答のとおりです。ありがとうございました。
補足
英霊の「霊魂観」としては、「多面一如」とでも名づけるようなものと理解しました。ただ、死後の「霊」に重心があり、存命中の「魂」の方とのバランスがとれていないようにも、感じました。生死を問わない、生死を通じた、連続する霊魂観を期待していました。 「幽霊や亡霊」という観念に取り込まれて、偏見を形成しているようにも思いました。日本政府が、「霊」について何か断定したという話も聞いたことがありませんが、暗黙に前提しているのでしょうね。色々と考える機会になりました。ありがとうございました。