ベストアンサー 現代美術はなぜ哲学的になったか 2008/01/26 21:18 現代美術の主題の多くが、哲学論、社会論、芸術論、その他いろいろな分野からの批判的提示という形をとっているかと思います。 そういう流れがどういう必然性から起こったのでしょうか? みんなの回答 (5) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー alexsey ベストアンサー率27% (12/43) 2008/02/01 20:41 回答No.5 芸術はもともと哲学を造形で表現したものであると考えます。哲学は哲学知識ではありません。「いかに賢明に生きるか」 言葉で表現すると、哲学。芸術も哲学もシンクロしていると考えます。音楽も絵画もその他、哲学も表現の違いはあれ根源は同じ。人間としての創造、また語る人間の個性によって表現は、芸術的にもなり、そうでもなくなります。時代背景、環境によっての最大限の表現でしょうか? 絵画では、....古典主義-デッサンに開ける...印象派-後期印象派-色彩に開ける、...シュールリアリスム-内的(心理的)要素までモチーフを拡張....などの表現が変化、これは使用する素材の変化、そして要素(線や色彩)の可能性を最大限に生かすこと、これが歴史に残っていますから、芸術はこれらを学びさらなる新しさ、可能性を探ります。それは芸術家にとっての哲学そのものです。 質問者 お礼 2008/02/02 18:20 大変よくわかりましたし、納得もしました。そうですね。芸術単体で発展したわけではなかったものです。傍系もあったでしょうが、哲学と常に連動してたものが核としてあった。現代の社会意識と、多かれ少なかれ連動している姿が今なのでしょう。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 その他の回答 (4) nekoaji ベストアンサー率18% (25/134) 2008/01/27 20:39 回答No.4 ・クレメント・グリーンバーグのモダニズムと抽象表現主義 ・1960年代以降~ポップアートVS.ミニマリズム このへんの流れが肝ではないでしょうか。 質問者 お礼 2008/02/02 18:21 肝ですね。その肝の分析をしたいです。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 nemosan ベストアンサー率22% (582/2598) 2008/01/27 17:01 回答No.3 本能的・直感的に美しい!とは思えないモノを、「美術品」と言い張り客に信じ込ませるのに (へ)理屈が必要だったから・・・ 質問者 お礼 2008/02/02 18:22 そうですかね。それほど詐欺的じゃないと思いますね。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 noname#78143 2008/01/27 00:15 回答No.2 面白いからでしょう。 質問者 お礼 2008/02/02 18:22 面白いというのが、実は現代の最も重要な要素なのかもしれません。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 harepanda ベストアンサー率30% (760/2474) 2008/01/26 21:33 回答No.1 美術が芸術論を伴っていたのは、昔からのことです。ルネサンス絵画の時代が終わると、古典的な写実性と理想美を目標としたルネサンス絵画に取って代わり、極端なデフォルメや象徴化を特徴とするマニエリスムと呼ばれるタイプの画家が登場してきます。さらに、破綻のない古典的要素を大切にしながら、あえて解剖学的正確性から逸脱したアングルのような新古典派絵画も登場してきますし、新古典派とロマン派の対立というものは、絵画だけでなく音楽でも見られるパターンであると言ってよいかと思います。 現代芸術に特に哲学的、芸術論的作風が多いのは、カメラの登場により写実画を描く意味が減ってしまったこと、美術に写生を超えた要素が強く求められるようになったことなどが原因として思いつきます。 質問者 お礼 2008/02/02 18:23 芸術の発祥から、己自身を懐疑するそして変化発展していくという流れがついにここまで来たということもありますね。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学美術 関連するQ&A 現代美術 あまり芸術論などには詳しくありませんが、美術が好きで、 美術館には時々行っています。 現代美術の中にはただ額を黒く塗りつぶしたものなどがありますよね。 またはただゴミのようなものを置いただけのものなど この前イギリスかフランスの現代芸術の作品の一部のゴミ袋を清掃員が捨ててしますという珍事もありました(笑 極端に言ってしまえば小学生にもできそうな芸術。といのはその芸術家が製作して全くの無名の作家(たとえば私でも) の名義でその作品をコンクールなどにでも出品したら、その芸術家が出品した場合と同じ評価が与えられるものでしょうか? ジョンケージの4分33秒なんかどうなんでしょうか? 現代美術? 奈良美智さんの活動は現代美術ですか?美術史の流れからして、何アートってことになるんですか?アメリカのポップアートの影響なんて今どきおかしいし、なんとなく日本では周りの人たちの押し上げられただけのような気がするのですが、スター性と芸術的理念は違うように思われるのですが・・・ 文明批判テーマの現代美術の観点 私の観た限り、現代美術の主流は、文明批判的なもののような気がします。社会的な妥協、こじつけ、都合あわせ、迎合、ことなかり主義などを、痛烈に皮肉る、あるいは、純粋な観点で切り取るというもののように思います。 それらの観点は、成熟した人間の態度なのか、未成熟なそれなのか、よくわからなくなります。そもそも、現代芸術そのものが、そのような「にごり」に対する挑戦とか警鐘とか、そういう方向をとることに、一般的な理解共感がえられるという感じなのでしょうか。それとも、あくまで異端的なのでしょうか? またなぜ、芸術というのは(特にこの現代芸術の主流は)、「にごり」に対する「純粋」という形を取るのでしょうか?なにか美しいものへの憧れなのでしょうか?美しいものを願うのは、未成熟なのか成熟なのか、高知性なのか低脳なのか? どういうことなのでしょうか? 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 現代美術にみられる「ギャグ」的な要素 私の印象なのですが、現代美術にはそれまで見られなかった「笑い」の要素があるものがあります。またはその精神が市民権を持っているように見受けられます(たとえばパフォーマンス芸術なんてほとんどその要素ですよね) これはどういう歴史的社会的な流れの中で生まれてきたのでしょうか? たぶんに抽象的な表現で申し訳ありません。 現代政治哲学者のベスト5は? 現代政治哲学者の重要度について… 色んな哲学者さんによって分野も違うし、序列をつけることにあまり意味はないかもしれませんが、仮にランキングをつけるとしたら、 現代政治哲学者のトップ5ってどういう人の名前が上がりますかね? 世界文学ベスト10!みたいなやつです。 おそらくNo.1はロールズではないかと思いますが… ノージックは、消化不良ぎみではありますが一応読みました。 ノージックより極端な、完全な無政府社会を論じる論者は、現実離れしすぎているという意味で序列は下がるのではないか、と思っていますが… 色々な人がいるので、誰の書籍から優先して読むか、参考にさせていただければ、と思います。 哲学はいろんな事に応用が可能でしょうか? 現代思想とか、今の潮流の哲学を理解出来れば、 現代の経済とか、 現代の産業とか、 現代の芸術とか・・ その他様々な分野を理解する飲み込みが早いのでしょうか? 様々な分野は全て、抽象的なレベルでは似ていて、 似ている事は思想家や哲学者の考えが当てはまるのかなー、と思い質問しました。 よろしくお願い致します。 過去の哲学者が現代に生まれたとしたら? 過去の偉大な哲学者が、もし現代に生まれたらどうなるでしょうか? 現代の知識をもとにしてより高度な哲学を生み出すでしょうか? もし、ソクラテスやプラトンが現代に生まれたとしたら? 知識や情報は哲学を助けるのか?関係ないのか?逆に阻害するのか?をお聞きしたいです。 1)自然科学などの様々な情報をもとに、より高度な哲学を生み出すことができる。 2)哲学に情報など関係ない、時代に関係なく、偉大な哲学を生むだろう。 3)情報は哲学の邪魔である。情報に邪魔されて哲学するのは難しくなる。 4)その他 およそ多くの学問は過去の蓄積の上になりたっていますので情報があるほうがより高度な領域に達することができると思います。その一方、現代の哲学者で有名な人というのは思い浮かばない。かえって、雑音みたいなものがない状態で純粋に思索したほうがいい哲学ができるのか? いわゆる現代美術のどこがいいのか分かりません 銀座にある現代美術専門の画廊には数度いったことがあり、そのときはそれなりに、やはり存在感のあるものだなと思います。 ただ大きな展覧会場などにいくと、いわゆる抽象画や(わざとらしくとしか私には思えないのですが)デフォルメされた絵のコーナーは素通りか、まちがって見てしまったときなど(笑)、おもわず目を背けてしまうとういうのが正直なところです。 現代のアメリカでいえば、たとえばワイエスなどの絵や、日本でいえば福井良之助の絵などは、すなおにいいものだと思います。 で、たとえばステラやポロックの絵(?)を、正直いって(!)どうしても「いい」とは思えません。ポロックが一心不乱に絵の具をまき散らすのは、本人は真剣に絵の道を探求しているのかもしれませんが、それを見て「すばらしい」という気持ちが分かりません。ピカソもみていいと思ったことは一度もありません。絵の前に長く立っていようとは思いません。親が我が子の落書きを見て素晴らしいと思うというほうがかえって分かります。 現代美術の理屈は何となくわかります。絵が分かりにくくなってきたのも歴史の必然なのかもしれません。でも、です。同業者や大学の美術関係の先生から、いくら現代美術は素晴らしいと解説されても、それは所詮内輪(業界?)の評価というやつでしかないんでないの?と思ってしまいます。 「それは、おまえさんが、絵をたんにぶりょうの慰めにしか思えない弛んだ精神をもつからだ」とおっしゃるかもしれません。 でもです、どうも、分かりません。建物をラップしてどこがいいのでしょう。 物をして物に語らしめる、自己目的としての存在、それは何も芸術のお世話にならずとも、ふだんの茶碗や投げ出された靴において出会うことができます。 以上は愛好家にとっては不愉快な言い方でしょうが、そこで、どう素晴らしいとお思いなのか率直なところをお聞かせ願えないでしょうか。 共産圏に芸術が育たないのは? 特殊な分野を除いて、「芸術」「文化」が貧しくなるのが共産圏の特徴です。目立つところでは、政治社会批判的な「現代美術」はほとんどないと思います。 どういう理屈でこういう現象が起こるのでしょうか。 ギャラリーフェイクの現代美術(現代アート)についての評論に関して ギャラリーフェイクというコミックでは、現代美術(現代アート)について以下のように評されていました。 「歴史をさかのぼれば、20世紀前半に生まれた抽象芸術運動が、それまでの美術のありかたを解体した!」 「ポロック、ロスコー、デ・クーニング!」 「彼らは、ひいきの評論家たちとタッグを組んで、哲学やらイデオロギーやら抽象概念(コンセプト)やらを絵画に持ち込んだ。」 「視覚的(ビジュアル)であるはずの絵画表現に、"難解な言葉"を持ち込んだのだ!」 「そもそも、人間の脳の言語野と視覚野は別々の座位にあって─」 「そんなこざかしいお芸術は理解不能、難解にならざるをえない構造になっているのだ。」 「言葉では語りえない何物かを伝えるのが、絵画であり彫刻であるはずなのにな─」 「現代アートの世界は未だその愚行から脱せず、言葉に振り回されている人間たちが少なからずいるのさ!!」 これには少なからず納得する部分もありました。美術に精通している皆さんの意見も聞きたいので宜しくお願いします。 社会主義と現代芸術 社会主義共産主義国家には、現代芸術ははやらないようです。 私自身の考えですが、現代芸術とは、多分に、社会批判性文明批判性というものを取り上げていると思う。それだからこそ芸術の価値もあると思うんです。これが、昔の貴族中心の芸術はそんなことはなく、ただ綺麗に作っていればよかったわけですが、時代の要請とともに芸術の質も変わってきたと。 しかし、疑問なのは、なぜ社会主義共産主義国家は、このような社会批判文明批判的なものを廃さなければならなかったのでしょうか? ソ連や東欧の芸術は、言っては悪いですが、たいへん乏しいものに思えました。 哲学の入門書を教えてください このたび大学生となり、ほぼ間違いなく哲学科に入学することになりそうです。そこで、授業が始まる前に読むべき本などのアドバイスをください。 これまで人文学(特に言語論や近代科学批判)を中心に読んできたのですがよく考えると哲学分野における知識が受験レベルしかないことにきずきました。 京都大学を志望していたので読解力は人並みにあると思います(思い込んでいます笑)。また、考える事が好きなので可能であればとことんやってみたいという思いもあります。しかし、もちろんどの分野にもいえることでしょうが、他の分野にもまして終着点が見えないのではないかという恐怖心(?)もあります。 最新の話題物や定番的なものをいろいろ教えてください。また、今現在哲学を研究対象としていらっしゃるかたなどおられましたらその醍醐味等も教えてください。 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム (長文です) 建築は哲学ですか?など 趣味の芸術としての建築には興味があるですが、全くの素人です。 無秩序に多くの質問を並べた上に、抽象的過ぎて成り立っていない質問も削除せずそのままにしています。 乱文です。 質問として非礼ですがご回答を頂けると嬉しいです。 もちろん一部のみのご回答で結構です。 よろしくお願いいたしますm(__)m 建築のデザインには設計した方の哲学的なアプローチがあり、建設物はその産物なのでしょうか? そうであれば、その考察を文章にすることは可能なのか、可能であれば文章にするとどういった感じになるのか、建築家の例をあげて教えていただけると嬉しいです。 また、その哲学的考察は文学や詩や絵画のように、(建築の)批評家による批評が成り立ちますか? さまざまな制約から建築物に設計者の哲学を表現できなかったとしても、設計者はそれに不満を持ち、自分の頭の中では常に考え続けているのでしょうか? 一般的に、建築物の“装飾”や“外観(フォルム。狭義での“形”)”には『意味』や『根拠』が必要ですか? サッカーではプロよりも素人のほうが試合中に無駄にテクニックを披露したり、そういったブラジル人選手が批判されるように、「ただこの形が美しいと感じたから」といった突き詰めていないものはどのような分野でも批判があると思いますが、建築の場合も批判があるのでしょうか? 「奇をてらった」外観、またはそのような建築は存在しますか? 海外建築家による、アルミの筒を並べたような銀色の美術館がありますが、あの外観はどういった考えに裏打ちされた外観なのなのでしょうか? また、その建物を写真でしか見たことがないのですがとても美しいとは思えません。どこが評価されているのでしょうか?また、建築を写真だけで判断するのはナンセンスですか?その場合、なにがどうナンセンスでしょうか? 例えば、“偉大な建築家!”などと呼ばれる場合、彼らは芸術の分野と同じく、“新しいこと”をしているのでしょか? 建築における“発想(または、新しいコト)”とはどういった人によるどういったものがあるのか、例をあげていただけませんでしょうか。 ●●氏は、~を上から吊るすことで、~な効果を出し、その後の~の建築に影響を・・・等。。 (コルビジェ、バウハウス、の存在は知っています) また、その“新しさ”は絵画や文学やファッションや音楽などの他のあらゆる分野における新しさとは何が違い、例えるなら“他のどの業界の新しさ”に似ていますか? 芸術家によくあるように新しいアプローチがなければ「あの建築家はパクりだ」「新しいことを何もしていない」というような辛辣な批判があるのでしょうか? 全国の大学生の卒業制作のコンテストの本をパラパラと見たのですが私の理解できないようなことを考えている様子でした。また、たくさんの模型やイメージ図がありました。 しかしあんなにも多くの学生ですら持っている多種多様なデザインの建築が現実に存在しないのはなぜですか? 佐藤可士和さんのようなアートディレクターや佐藤卓さんのようなデザイナーによる空間デザインと建築家による空間デザインはどこがどう違うのでしょうか? 建築に、文学や絵画やファッションのように建築家の“世界観”を体現しようとするのは幻想ですか? 建築に“共感”は成立しますか? 成立する場合、どのような存在の仕方がありますか? 建築科(建築家の間違いではありません)が文系では成立しないのはなぜですか? (幅広い回答を得られるよう、美術のカテゴリでも質問しています) 古い芸術は現代も色褪せませんか? 先日、バルセロナにあるピカソ美術館に行ってきましたが、 確かに、インパクトのある絵(キュビズム等)など面白く感じますが、 現代ではこれに近い表現や恐らくこれを昇華させた表現、全く違う表現など芸術と感じる表現は非常に多くあり、あくまで、個人的な感想ですが、「昔は確かに斬新で凄かったんだろうなー」と言うのが率直な感想です。 現代美術と比較した場合、むしろ、日本のアニメDVDなどの方が芸術性は高いとすら感じています。 ただ、日本人の感覚でも、ピカソは芸術家では今でも最高峰の部類というのが一般的な認識だと思います。 私と、世間一般の、この差は一体何なのでしょうか? また、本当に多くの日本人が、今でも現代美術と比較してピカソの絵を価値ある物と思っているのでしょうか? 哲学・現代思想は科学や芸術をどうとらえているのでしょうか?? 初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。(違ったらすいません) (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑状態に陥ってしまったと思っているのですが(すべては差異だとか戯れだとか)、哲学・現代思想は、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?人それぞれだと存在している意味がない) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。 あと、根本的に解釈が間違っていたらご教授して頂きたいです。 学習院大学 哲学科 美術専攻 質問を見ていただいてありがとうございます。 わたしはいま高校3年生なのですが、 大学で学びたいことが分からくて困っています。 学校は中堅校で偏差値は54程で 学年ではBEST10以内の成績です。 大学は指定校推薦でいくつもりです。 でも最初に言った通り学びたいことがないんです。。。 だから一番自分が勉強しやすい科目が現代文なので 文学部の日本語専修を取ろうかと思っていたのですが、 いろいろな大学のパンフレットをみて、 「哲学 美術専攻」というものに少し興味をもちました。 指定校推薦の中に学習院の哲学科があったので まだいけるか分からないけど、行ってみようかなと思いました。 美術は好きだし、歴史もすきです。 だけど美術館など、自主的に行ったことはないし、そこまで興味はないといった感じです。 それにこのような分野は高校では全く触れていないので 大学でどのような事をするのか沢山調べましたが、まだ少し曖昧です。 実際に美術専攻をとっている方がいたら どのような授業をするのか、教えていただきたいです。 大変ですか?? わたしみたいな「なんとなく・絵がすき・”美術専攻”って響きは面白そう」 とかこのような考えで入ったら後悔すると思いますか?? なんだか変な質問でごめんなさい。 回答お願いします。。 哲学について初めて触れます。 哲学について初めて触れます。 伊坂幸太郎さんの著書「重力ピエロ」が大好きで、時間さえあれば多くの小説を読みたいと思っています。 同時にその著書の中で、アインシュタイン・ニーチェ・ガンジー・バタイユなど人物の言葉の引用があり、 興味本位ではありますが、一度”哲学”というものに触れてみたいと思いました。 (間違っているかもしれませんが、「アフォリズム」という表現方法(?)に惹かれました。 ガンジーの「非暴力・非服従」がこれがあたると思いますが、こういった言葉に、 シンプルにかっこよさを感じ、その根本の考えを知ると、自己満足ではありますが、賢くなった気がしておもしろいと思いました。) 私はごく普通の高校生男子と自負しております。 試しに、まずは何かしら読んでみようと、図書館で「ニーチェ」という本を借り、読んで見ましたが、さっぱり訳がわかりません。6ページぐらいで、ギブアップです・・・・ 高校の現代文は、苦手科目であり、論理力というかそういった類の能力について、私はきっと良いものをもっておりません。 ですが、やはり少し”哲学”の考えについて、ちょっとだけでも覗いてみたいです。 繰り返しますが、興味本位であり、これからやっぱり興味ない、何てこともあると思います。 なので、貴方様のご存知の本で、理解しやすく、親しみやすい、哲学の本を教えて下さい。 出来れば、上記に挙げた人物であるのが好ましいですが、もしこれがオススメというものがあれば どの時代の、どの人物であろうと、是非教えて下さい。 又、「哲学」とは多くの分野にわかれ、色々系統・傾向などがあるだろうとは思いますし、 哲学を知りたい、と漠然としすぎている、と指摘されると思いますが、 どうかその辺は、ご理解いただけるようお願いします。 哲学・懐疑論の人たちは科学や芸術をどうとらえているのでしょうか?? 哲学初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。 (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑論状態に陥ってしまったと思っているのですが、懐疑論の人たちは、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。 美術と社会、美術と学校教育 私は現在高校三年生です。私はある大学の教育学部を目指しているのですが、受験勉強の一環として、美術が現在の学校教育の中でどのような役割を果たさなくてはならないのか、また、現代社会の中で美術とはどのような役割を果たしているのかを調べています。 近年、少年犯罪などが増加し、子供たちを取り囲む社会、教育のあり方が問われていると思います。私は学校と社会の連携が大切で、芸術がその繋ぎ目をしなくてはならないと思っています。質問の率直な答え、身近な所で行われている美術活動を教えてください。お願いします。 現代における審美の可能性 審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など
お礼
大変よくわかりましたし、納得もしました。そうですね。芸術単体で発展したわけではなかったものです。傍系もあったでしょうが、哲学と常に連動してたものが核としてあった。現代の社会意識と、多かれ少なかれ連動している姿が今なのでしょう。