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デカルトは認識の客観性をどのように説明したか。
レポートの課題なのですが、まったくわかりません。 いいサイトや本などご存知の方がいたら教えて欲しいです!!!
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- kigurumi
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デカルトは自分が認識するものは幻ではなく真理であるとどうやって説明しようとしたか。 神は存在するとすることで、説明しようとした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88 一人称の観点からしか、人間は認識できませんよね。 で、それが夢なのか真実なのか、一人称の観点からでは確認できない。 <この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。又、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。更に、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は悪い霊で、自分が認める全てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられる事になる。> では、第三者的立場にどうすればたって客観的にそれが夢ではなく事実だとわかるのか。 つまり客観的に見れるのか。 神は真実のみしか示さないとすればいいわけです。 『悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。』 つまり嘘を人間に見せて人間をからかう神じゃなく、神は正直で真面目で誠実であり、その神様が存在すれば、自分が認識するものは第三者的 客観的に真実であるとできる。 『悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。』 ↓ 『物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、 すなわち「延長」こそ物体の本質であり、 これは解析幾何学的手法によって把捉される。 一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、 与えるものがまずもって存在しなければ ならないから、物体は存在することが確認される。 しかし、存在するからといって、感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。 明晰判明の規則は存在証明によって確信をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。』 デカルトにかかると犬もロボットになっちゃうんです。 で、延長にある現象の元を辿ると神にいきつくか。 すわなち真理の神は存在することをデカルトは証明できたか。 できてません。 すなわち「もし 真理の神がいたなら」という仮定に基づき、バナナはバナナであるということが真理だとでき、主観の感覚と客観(真理)が一致するとしたわけです。 『機械論的世界観 デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。』 というわけで機械論を持って説明したわけですが、そうなると生命の存在も価値が低くなり、人間は万物の頂点にたっており、それ以外は機械だとして、なにやってもいいという非情の世界を招くことになり、とっても危険な思想なんですね。