- ベストアンサー
物質世界で「善く生きる」方法は?
今まで漠然と、愛と慈悲にあふれた世界は素晴らしい。利己を持たず、全てが調和した世界が(私はみんなで、みんなは私)理想だと思っていました。今でもそう思っています。理想の世界は、個々が「清く正しく美しく」生き、他を愛と慈悲を実践する対象ととらえれば可能だと思っていました。 しかし、よ~く考えてみると、そんな理想の社会は実現と同時に破綻しないでしょうか?皆が分け与え、弱いモノを助け・・・もちろん他の動物も慈しみます。(お米をかじるネズミを駆除するのは人間の利己ですから、「お米かじらないでねご飯ちゃんとあげるから」) 人口と動物がどんどん増加しますよね?みんな一生懸命働いて世界を賄おうとします。みんな利己的ではないのでお米が足りなければ少しで我慢します。でも動物は我慢できません。みんなが幸せに生きられるようにどんどん宇宙に出て行って(もちろん宇宙人とも仲良し)・・・。でも限りがあるように思えるのです。 そこで本当に倫理的な思考は自らが生きていくことを止めようとはしないでしょうか? 人間には愛も慈悲も備わっていると信じられます。 でも肉体の中に生きる限り、物質世界に存在する限り、実践は不可能ではないでしょうか?本当に「善く生きる」ことは精神世界(肉体のない魂?だけで成り立つ世界)だけでしか叶わないのでは?と悲しくなってしまいました。早くこの考えを否定されたいです。 肉体を持つ私達はこの世でどうやって善く生きていけばいいでしょうか?
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
倫理は人間の間だけで議論していれば良いのです。人間がどの動物を殺そうが何の問題もありません。特定の動物を殺しすぎて、生態系が狂い、特定の生物が絶滅しそうになったり、人間にまで悪影響が及んでこない限り、地球上の生物と資源は、全て人間のものとして、使いたい放題にすることに、何の倫理的問題もありません。 宇宙人と出会うまで、この態度で全く問題ないと思います。
その他の回答 (6)
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「善く生きる」という願望、または欲求が確かに人間にはあります。 それが動物とは違う点で、この超自我的欲求により(良くも悪くも)人は人たり得ていると言えます。 ただ、他の生命を犠牲にしなければ肉体を構成する物質を保持することができない、ということも事実で、これは生存するための基盤である本能的欲求として厳然と存在しているはずです。 この時点で、全ての生き物にとっての絶対的な善というものは存在しないという前提が提示されたことになると思います。 この質問自体が、他の生命の犠牲の上に成り立っていると捉えると良いのではないでしょうか。 そうすると、「善く生きる方法」ではなく「少しでも善く生きる方法」を模索したほうが実効性に富むような気がしてきます。 この【少しでも】のキャパシティをどこまで広げることができるのか、ということがすなわち超自我の可能性の行方になるわけでしょう。 私たちの最も身近な精神性はいわゆる自我と言えます。 崇高な精神性を実行されている方もおられるでしょうが、殆んどの人間はそうでしょう。 自我とは結局、己を大事にする精神性ですが、何が大事かというと、その基本は先に挙げた本能的欲求と超自我的欲求で、それら対立する概念としての両者の調整をしつつ現実世界に「我」を主張し続けていこうとするものを自我と呼んで差し支えないように思います。 自我の役割は本能的欲求と超自我的欲求の【調整】と述べましたが、ここに「少しでも善く生きる」鍵があるようです。 本能の基本は「快」で原理は「湧出」です。 超自我の基本は「善」で原理は「抑制」と言えます。 そして、両者を統合する立場の自我の基本は「得」すなわち「自己利益」の原理が働いています。 これらのバランスが崩れると人間の健全性は崩れると解釈して良いのではないか、と思われます。 本能のみに従って生きることや、自らの欲望や自己利益を一切無視した善、逆に自己以外を一切顧みることのない欲得。 それぞれ、ひとつひとつはある意味おぞましいものですが、これらが互いに牽制し合い、あるいは協力し合い、バランスを取ってこそ健全性が維持されます。 ご質問の意図に沿ってまとめると、結局、極力、『不要な(無駄な)生命の滅少を起こさなくて済むような知恵』を可能な限り開拓していくこと。 誠に抽象的でお恥ずかしいですが、こういった当たりが「(少しでも)善く生きる」方法ということにつながるのかもしれない、という気はします。
お礼
ありがとうございます。生を受けてしまった以上(矛盾を感じなくてすめば「生を受けられた以上」としたいところです)生存本能と自らが善とするものとを、本当にバランスよく取っていきたいです。 世界の人がすべて崇高な精神を持ち、、『不要な(無駄な)生命の滅少を起こさなくて済むような知恵』を可能な限り開拓できたとしたら、 この世は破綻しないでしょうか?法を必要としなくなり、「国」という概念もなくなり、愛と慈悲のあふれ、自身をしっかり律して生きていけるような人ばかりの(素晴らしいと思います)世の中では、ものすごく人口が増えることになりませんか?(そして全ての人が飢えていないのです)それだけの人を自然は賄えるでしょうか? それとも崇高な精神をもつ人間は、簡単に子供を作ることをしないのでしょうか?(私は崇高な精神の持主ではありませんが、子供を作ることを考えてしまいます)もしそうならば、この世は『理性』が生まれてきたい場所では無いと言うことになってしまいますが。 自己利益 についてもっと考えてみようと思います。 ありがとうございました。
補足
超自我とは私の知っている言葉では「理性」だと思って大丈夫ですか?
あなたのようによく生きることはなんだろうかと常に問い続けて 生きていくことだと思います。 ただ漫然と生きている私も見習うべきですね。
お礼
ありがとうございます。 問い続けた先に何か見えるといいのですが。 それが希望であれば尚よいです。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
地球上には60億の人間がいます。 それぞれが、理想を持っていると思いますが、 質問者さんはなぜ、自分の理想を善と定義できるんですか。 そして、そのほかの60億個の理想はどう処理するのですか。
補足
先ほど「破綻しますよね」とおっしゃっていたので 私の「理想」を「理想」として受け止めていられるのだとばかり思ってしまいました。 人間の理性で導き出す「理想」がそんなにも差があるモノならば そもそも倫理という言葉も生まれないと思うので、そこは処理しません。 ご回答してくださる皆様へ 「善く生きる」ことそれ自体が疑問のかたはスルーでお願いします。 こう考えればもっと矛盾無く理想と言えるのでは?等を求めていますが、無理だよ、も歓迎です。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
質問タイトルからして、おかしいんですよ。 1.「この世は物質世界(マテリアル・ワールド)である」という前提のもと、 2.その物質世界でいかにすれば「善く生きる」ことができるか。 ということなんですが。 「善」とは物質ですか? 物質だとはつゆ聞いたことがありません。観念でしょう。 物質世界という捉え方をするなら、どうしてそこに観念の入る余地があるでしょう。 善というものがあったとしたら、物質世界は純粋な物質世界として成り立ちません。 物質世界ならば、善や倫理や愛や慈悲など、あろうはずもありません。 私に言わせれば、世界は形而下のものと形而上のものの混合で成り立っているので、純粋な物質世界を想定すること自体どうかなと思いますが。
お礼
ご指摘ありがとうございます。 肉体と理性を持つ人間が「善く生きる」方法はありませんか? でしたらわかりやすかったでしょうか?
補足
ごめんなさい。どうやってこの世界を表現すればいいかあまり考えていませんでした。この言い方だと通じないのですね>< 私の言う「世界」は人間が肉体を持って生きている間に生活?しているところです。 自然界?でも違うでしょうか?「この世」でいいかな? 「この世」としてとらえて頂きたくお願いいたします。 また違ったらご指摘お願いします。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
世界を善と悪に分ける気ですか。 悪を現実、善を理想と呼ぶのですか。 ふくろうがねずみを食べるのは悪ですか善ですか、理想ですか現実ですか。
補足
お礼欄と補足欄の使い方が間違っていたらごめんなさい。 >世界を善と悪に分ける気ですか。 ・・・?罪という言葉を使ったからでしょうか?そのようなつもりはありませんでした。 >悪を現実、善を理想と呼ぶのですか。 まず善の方から。はい。善(ひとがそれぞれ善く生きる)を理想と呼びました。なにか勘違いをしているでしょうか? 次に悪(を現実と呼ぶ)の方ですが、ちょっと違うようです。自然界(ふくろうがネズミを食べるの)は人間がいなければ(理性というか倫理?を持つモノがいなければ)、納得できる形で存在している気がします。善く生きる人だけではこの世が成り立っていない=現実 です。 もしこの世に理性を持つ人間が存在することが正しいことなら、私のもつ善悪・倫理観が正しいと言い切れなくなってしまうので困っています。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
破綻しますよね。 だから破綻しないように現実が調整するわけですよね。 ゆえに理想は実現しないんじゃないですか。 破綻する理想の未来が実現しないのだから問題ないんじゃないですか。
お礼
ありがとうございます。 >現実が調整する 現実とは・・・悲しいですが、多くの「罪」とくくられるモノですよね。人殺しや盗み。利己的で他者を顧みない人間が存在しないとこの世は破綻する。イエスや仏陀(お釈迦様?)やソクラテスのような人は この矛盾についてどう思っていたのでしょうか? 人間に理性がなければ、矛盾しないのですよね。人間て自然界では異質すぎます。
補足
下記の >多くの「罪」とくくられるモノですよね。人殺しや盗み。利己的で他者を顧みない人間が存在しないとこの世は破綻する。 を 利己的で他者を顧みない人間(人殺しや盗みをはたらくなど倫理観のない人)、理性的でない人間が存在しないとこの世は破綻する。 に訂正します。
お礼
ありがとうございます。 そうですね。この話に動物を出してはいけなかかったかもしれません。 (曖昧でごめんなさい。)
補足
理性(知能?)を持つものが自然界を支配する。 それが当たり前。ということでしょうか? 人間同士だけに限った場合でも、有限の物質界では破綻すると思うのですが、いかがですか?