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私は死なない
死後の世界がないと仮定するなら、 私にとって私の死を自覚できないので 私にとって私の死は無いという結論になりました。 別な言い方をすれば私は死なないとも言えます。 他人から見た私の死ではなく、私から見た私の死のみが問題です。 理屈は合ってますよね?
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普段めったに回答すること(機会)がないのでこの際に(笑) >人から見れば単なる言葉遊びなのでしょうね。 哲学はその人のレベルにあった問いと答えがあるのでしょう。 う~ん・・・私は否定的な意味で「知的遊戯」といったわけではありません。(まあshiftさんならお分かりでしょうが) 問いを発する、疑問をもつと言うこと自体をもっと積極的に評価していいと思います。 そもそも私は「愚か者は賢者に答えられない質問をする」という言葉がキライでね(苦笑) さて、人は「死」という概念をどこで手に入れるのでしょう? それは即ち自分以外の「他者の死」によってもたらされます。 当然あなた以外のもにとってあなたは「他者」ですね。 そこでshiftさんの言われる「私は死なない」という命題が真であるならば、 もっと厳密に「全ての〈私〉は死なない」と言い換えられなければならないと思います。 そう。あなたが「私は死なない」と言い得るなら。 全ての「私」は「死なない」のです。
- bananasand
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これまでの回答とお礼の過程が面白いですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3641924.html のNo8でも回答してるんですけど、そうなんです死後の世界があろうが無かろうが死を体験する主体はないんです。 生と死を把握するのに連続性のある記憶が不可欠なのです。 さらに、今現在の自己を認識するにも記憶が不可欠なのです。 何故かというと、思考には時間が必要で、時間が必要だということは、 メモリーが必要だということなのです。 物理上の過去は常に完全に消失しているのです。 突きつめると、記憶無しには生も死も無いのです。 とすると、記憶の消失によって死を体験できる主体はもはやありえません。 で、霊だの幽体だのに記憶や自己が移転するのであれば死はありません。まぁ霊や幽体は肯定する根拠が無いのですが否定はしません。
お礼
やっぱり『私』の正体は記憶なんでしょうかね。 アカシックレコードっていう便利なものもあるみたいなので死んだ後のことは、そのときのお楽しみですね。 ご回答ありがとうございました。
>死後の世界がないと仮定するなら、 私にとって私の死を自覚できないので じゃあ仮に「死後の世界がある」とした場合はどうなのでしょう? 死んでしまえば死後の世界に行く。 しかし死とは意識の停止であり、全き無に帰することだと考えるなら、 死後の世界云々自体がナンセンスになりますね。 死後の世界を体験するには、現世と異質であるにせよ、何らかの状態の「生」が前提となるはずです。 であれば、死後の世界があったと仮定しても、 あなたは死なないわけです。 では当初の >死後の世界がないと仮定するなら、 に戻りますが、 人は死後の世界の有無に関わらず、一瞬に消滅するのでない以上、 死の自覚という以前に、ああ、自分は死ぬのだという・・・死の意識は存在します。 落語にありますね。辻斬りに目にもとまらぬ速さで首を一刀両断にされて、 気付かずに歩いていて、だんだん首がずれてくるって。 「目にもとまらぬ速さで灯りを点ければ暗闇を見ることが出来る!」という 感じで、Shiftさん仰るようにムキになって反論することもないでしょう。 知的遊戯でいいと思いますが・・・またそれ以上にはなり得ないでしょう。 「死ぬのはいつも他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉を思い出しました。
お礼
お珍しい 途中で気づいたのですが、死後の世界があっても私は死なないですよね。 愉快ですね。どうやったら『私』は死ぬんでしょう? 確かに『死の意識』は存在しますね。 これは動物的な感覚に近いかもしれませんね。全ての恐怖の根源は死に繋がっているのでしょうか。 このことに気づいたときは、ぱっと霧が晴れたような感覚があったんですが、 人から見れば単なる言葉遊びなのでしょうね。 哲学はその人のレベルにあった問いと答えがあるのでしょう。 ご回答ありがとうございました。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
ふたたび、こんばんは、shift-2007さん。 【 地球の秘密 】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86 …私は知らない
お礼
ぬ?
- ganesha_me
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死は主観ではないので、 他人の死はご自身の場合、 「私」の消滅と置き換わるような気がします。 理屈的には合っていると思います。
お礼
脳科学は未だに脳の中に『精神』を見つけることが出来ないそうです。 死によって、もともと存在しないものが消滅するというのも変な話ですね。 そもそも生まれた覚えがないのに、お前は死ぬんだと言われたってピンと来ませんよね。 むしろ要らぬお世話だと言いたくなります。 ご回答ありがとうございます。
- littlekiss
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こんにちは、shift-2007さん。 先にことわりをひとつ。 (只今、お昼休憩中。 休憩室からここへケイタイからアクセスしてます。 ので、ちょこっとだけ) 【私は死なない】という言葉から 食物連鎖を思い浮かべました。 …血となり、肉となり… ↑ この循環をご自身が生ととらまえれば、うーむ、確かに…とも、なろうかと ↑ あぁ、いまぱっと、思ったことです。熟慮したわけではないのでまた後ほど…
お礼
肉の輪廻の話じゃないので、そこだけはよろしくお願いします。
- adaypajimy
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死の定義や死後の世界や言葉の問題のせいで何だか分からなくなっていますが、ふいに考えたくなる(?)よくある独我論ですよね。私から見た死が他者に定義されるのがおかしいという理屈をより押し広げると、そもそも私に認識できない他者の観念も否定せざるをえませんよ。 死を自覚できない死なない私にとって、他者の死は自覚できないので「他者も死なない」ということになりますが、それはもっとつきつめていくと、死後の世界があるないに関係なく、他者の認識は自覚できないので「他者は私の前には在りません」という主張になります。 あなたは誰の認識に自分の理屈を見てもらっているのでしょうか?…他者を証明できない独我論は理屈が通ります自己の意識内において。独我論は哲学上の大問題ですけれども、他者がいて哲学の議論が成立する以上、独我論は非常に無意味なことになるのです。 死の問題どうこうではなく、独我論的つまらなさを、 批判している方は批判しているのでしょう。 独我論は他者にとって面白くないから。 月並みな表現ですが、、、 人は一人で生きているんじゃないんだぁ(笑)
お礼
ちょっと良く分からないのですが、 他者を証明する必要も否定する必要もないように思うのです。 >独我論的つまらなさを、批判している方は批判しているのでしょう。 このことに何の意味が? >他者がいて哲学の議論が成立する以上、 でも「私の死」は私のもので誰のものじゃないと思いませんか。 だから「私にとって」が最も重要なのじゃないでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
ふたたびお邪魔します。 死後の世界はあるか どうなっているのか このような質問が たしかに多いように感じますね。 わたしは あと三十年 これこれを為し終えることができれば 死のうという心算で生きています。もうこれでいいという時に死ぬ と決めてしまえばよいという考えも 一法だと思います。 (ただし 死ぬという事態が まだ死にたくないという時に来るのではないかと想像するのは 単純に怖いものですが)。 生と死(死後)とは 同一平面における連続時間であるように思います。 (あるいは そう捉えておくのが 手っ取り早い解決法ではないかと)。 問題は 仮りに死後という時間も含めて そのときこの時系列の平面(つまり四次元世界の過程)が 閉じているのか開いているのか ここにあるように思っています。 つまり 閉じていると〔のみ〕感じている心理状態には 死後が気になってくるのではないかというものです。 開いていると言っても 微妙ですので そのときには 少なくとも閉じていないと捉えてみてはどうなのでしょうかと言いたいのですが。 このとき 《わたしは死なない》という表現は けっこう面白いと思います。いっさいの条件づけを打っちゃってしまってよいとなれば それでいいし それでいけるのではないでしょうか。 * これを書いているときに No.20・krya1998さんのご投稿がありました。修行者の立ち場からのご見解だと享け賜わりました。あるいは 終わりからものごとを読み・とらえるという見地だとも思います。つまり すでに今わたしたちは影であるという出発点・しかもその動態のことだと存じます。 別様の答え方があるかも知れない と今回思いました。――つまりは このいまの大原則をすでに前提した上でということになりますが それでも 死の恐怖は――むしろそれを想像することで(つまり ひまを持て余すことがいけないとも言えますが)――断崖にわれわれを立たせ あたかも大原則を凌駕するかと恐れるまでに せまって来ます。せまってくるその感覚のことを考慮に入れると 人によっては 《わたしは死なない》と表現する行き方もよしとすべきではないか このような見方も出てくるように考えました。 つまり それでこそ――ということは すでに死から出発するか あるいは 死の畏れを単純に感じつつ生きるか これら両面からの対策を持ててこそという意味ですが―― われわれの存在は単なる影であると言えるように思います。影でも 一人ひとり掛け替えの無い・とうとい存在であると言っていく立ち場でありますし。 さらにつまりは krya1998さんも そして shift-2007さんも ともに 死や死後のことで余分に余計に哲学の時間が取られることが嘆かわしくもあるという同じ出発点に立っていらっしゃるのだと思うからです。 これこそ余計なことだったかも知れませんが 率直に この問題については思うところを述べさせていただきました。
お礼
死から心理を取り除いたら何が残るのだろうと思います。 きっと拍子抜けするほどの事実が数個残るだけなのでしょう。 それでいいし、私はそれを見たいんですねきっと。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私にとって、とか、いろんな事を前提にした、自分でやることをしない、頭の演繹で終始しようとしている、言っては悪いが、サボりの方式と感じました。無論、文章からの言葉の理解だけでしたが。 当然矛盾と間違いを自覚しながらのご質問であることは、そうムキにならないでとかの書き込みからも了解できます。 まぁ西洋的頭のお遊戯ということでしょうか。 生まれてきたものは死ぬ。始まったものは終わる。これは認めないですか。何かに依拠しているからでしょうね。 始まりも終わりもない、あるだけのもの、これは存在でしょう。 ある間の存在している。これを存在と、或は生きているというのか。 そういうのは私達は存在とはいわず、影、幻、夢、夢の後の構成と編集といいますね。 ある間だけある。当たり前のことをいっているのではないでしょうか? それにしては少し大げさであり、大仰ですね。日の下に、・・・。ですね。 こういうまともな受け取り方は、問題ではない世界のようですね。 ここで私にとって死はない、仰せの私とはどういう存在というか、どういう幻なのでしょうか。 居ないものが死なないのは当たり前ですからね。 影は死なない、最初から居ないから。ただ消えるのみ。 でもマックのアーサー氏は単なる老兵ではないが、みんなの記憶にあった。 彼の影に関する記憶かもしれないが。でも彼を存在するかのように現象させていた、意識には意識されていた。 でも彼が依拠しているもの、意識してもらっているものは始めも終わりもない。だからある。 質問者の論理や、大げさな仕振りにも関わらず、影のたなびきたらざるを得ない、初めと終わりとのある身の際ですね。 お互いの分際ですね。(蛇足)。 なお日本語の事で気になりました。 ≪今わの際≫は≪いまわの際≫か、≪いまはの際≫、或は≪今際の際≫と書かかなと存じました。 http://gogen-allguide.com/i/imawanokiwa.htmlでも確かめてはみましたが」。私もよくある、ことばの難しさですが。 死に際し、自己が消滅する(断絶する)のを経験するか、臨死や、死後にも意識としてあるかどうかを経験すると、それを事実というべきかどうかは別に、明確になると存じますが、そのこととは別に考えて見たいということなのですね。 それなら貴方に死はないというのは正しい。その死なない貴方が誰なのかをしっかり持って、開陳されることを望みます。よろしくお願いします。はい補足の書き込みをお願いできれば、ありがたいお年玉です。 下のURLでの私の勉強と精進から申しあげました。ありがとう。
お礼
krya1998さんの文章は詩的で私のような学の無いものには少し分かりにくいのですが、 どの視点であろうと『死』をみているという一点において同じじゃないでしょうか。 円柱を上から見るのと横から見るのとでは見え方が違うように。 この始点はマジメで、あの視点はサボリだというのはどうでしょう? 中庸という言葉がありますが、その意味は一つの考えにこだわらないというのでよかったですよね。 ご回答ありがとうございました。
あたってます。間違いないです。まず死ねること自体ありえない訳です 自分は死ぬと思っている人が居るみたいですがそれはありえません。 死後(何かは分かりませんが)が在るわけですからそれの連続性で心が存在しているわけですからその存在が幾ら苦痛を帯びようとも死ぬことがありえる訳がないんですw
お礼
死後の世界を『ある』としたら 肉体の死はあるが、精神の死はないということになるので 結局『私は死なない』という結論になるわけですね。 このQAでもわかるように、私が死ぬかどうかを決めているのは他人様という事が不思議だなーと思います。 ご回答ありがとうございました。
お礼
>私は否定的な意味で「知的遊戯」といったわけではありません あ、いえいえpokochan2さんのことではなく、30近い回答をもらっての印象です。 >全ての「私」は「死なない」のです そう、pokochan2さんにとって自分の死は無いのです。 無い物に対して「死」と命名することに何の意味があるでしょう。 これは60億の全人類に当てはめることが出来るんじゃないでしょうか。 ただ、他人の死はどう考えればいいのかってことですが、 肉体が死んだのだから『死んだ』と言いたい所ですが、本当のところは『不明』ってことじゃないでしょうか。 例えば、逆に考えて他人の中の『私』をどうやって確認しましょうか。 声をかけて返事が返ってくるかでは決められませんね。 生体として生きているのであれば、他人の中の『私』は生きていると定義する以外現時点では出来ないと思います。 未だに脳内にそれは見つかっていないようですが。 今のところ他人の中の『私』は他人には確認するすべが無いんじゃないでしょうか。 つまり他人の『私』は生死問わず『不明』でどうでしょう。 だめ? ご回答ありがとうございました。